丸さんとはこれまでも議論をしたことがありますが、感想というよりも、私への批判が満載されているようなので、批判の主要論点に絞って、できるだけ簡略に回答してみましょう。
(1)、丸さんの論点は三つあります。一つは野田政権の評価を巡ってです。拙速に評価せず、よく見ろというだけでは政権の現状追認になりかねず、「批判的検討を出来る限り忌避しようとしている風」に見えるという批判です。
第二は、支配階級のうち、官僚機構だけを取り上げて支配階級の他の部分は無視するのは読者を「ミスリード」するものだという批判。第三は、小沢の「政治主導」についての評価についてです。小沢の政治主導を「革命的な意義」があると評価するのは問題で、官僚の国会答弁禁止や通年国会化等、反動的なものもあり、私の評価は「はなはだ危険である」というものです。
(2)、さて、議論の便宜として第二の批判から始めましょう。丸さんの文章を掲げると次のような具合です。
「少なくとも今回の投稿では官僚機構への批判が強調されるあまり、官僚機 構のみを他から切り離して批判する表現となっています(あたかも「中央官僚機構」のみが単一で、独占的に「主権を振る」って「政治支配」を行って いるかのごとき現状規定、「天皇制とその無答責な統治体制」とともに戦後改革を生き残った旧財閥についての言及の欠如、等)。そのため、結果的に 読者を―官僚機構を「政・財・官・報各界」の関連、社会のあり方との関連の中でとらえ、批判する認識を鈍らせ―もっぱら官僚機構のあり方のみに日 本の問題を見出す方向へミスリードする内容になっていると言わざるを得ません。」
こうした批判にはビックリ仰天なのですが、これはもう丸さんの得手勝手な解釈です。私は官僚機構を他の支配階級の連中、財界・大企業やら自民党等から切り離していません。というのは、私は「官僚主権国家」と言っているわけですから。その意味をあえて解説すれば、官僚機構が国家権力を握っており、かつての万年与党である自民党ばかりでなく独占資本(財界・大企業)をも自己に従属させていると言っているのです。
だから、政権交代後にシャシャリ出て来た『守旧派』の雄である官僚機構にスポットライトをあてることは「ミスリード」どころか当然のことです。
日本の支配階級のこうした基本構成を実地に白日の下に晒してくれたのは鳩山政権の功績で、特筆される価値があります。
以上で第二の批判への回答は終わりなのですが、丸さんは主敵は官僚機構ではなく独占資本だと言いたいようなので、政局雑感風の小論の範囲を越えてしまいますが、若干、私の考えを敷延してみましょう。
こうした特徴(官僚主権国家)は日本の特殊性で他の欧米先進諸国との大きな違いです。マルクス主義の一般理論からすれば、経済全体が資本主義に組み込まれれば、通常、支配階級は資本家階級であり、帝国主義の時代には独占資本が支配するということになります。しかし、この議論は一般論であって、それぞれの国にどこまで一般論が妥当するかはそれぞれの国を具体的に研究してみなければわからないことなのです。
日本は戦前からマルクス主義の一般理論が簡単には当てはまらない国で、その議論の先蹤は遠く戦前の日本資本主義をめぐる講座派と労農派の論争にまで遡ることは丸さんも知っているでしょう。
私の理解では、戦前の日本資本主義は絶対主義的天皇制(その本質は封建制)というバックボーンがあってはじめて成立した資本主義で、本来、不倶戴天の敵として天皇制を打倒すべき歴史的役割を持つはずの日本のブルジョア階級(財閥中心)はその敵を主人筋とも親とも崇め、決して自らの足で立ったことのない、国家権力を握ったことのない連中なのです。戦後はアメリカが主人であり、国内の支配人には戦前来無傷のままの官僚機構を戴いて恥じるところがありません。
レーニンがかつてその特別な地位を指摘した金融資本でさえ、「MOF担」なる部署まで作り大蔵省の「護送船団方式」を嬉々として受け入れていたことが思い出されますが、現在でも大震災と原発事故を前にして法人税の減税要求を撤回しようとさえしない”たかり屋”ぶりです。アメリカの著名な投資家・パフェットが富裕層の増税を提唱する国との違いは歴然としています。
話を本論に戻すと、国内の官僚支配ということを明らかにした最近の事例を挙げるとすれば、鳩山政権による沖縄米軍基地の海外移転を巡って、官僚機構(ここでは防衛省と外務省)が妨害していた例があります。この妨害はウィキリークスが暴露した米外交文書で明らかになっています。
また、政権交代が起きて以後を見ていると、政権交代直後の茫然自失の経団連や自民党とは対照的に新政権つぶしの先頭に突出してきたのが検察をはじめとする官僚機構であったことも明瞭と思われるところであり、言わば、世論の風になびき迷走しやすいように官僚には見える新政権を籠絡しタガをはめる主役として登場してきています。
政権交代を契機に始まった政治改革への反撃部隊として官僚機構が躍り出てきているわけで、現在の政治情勢理解の一大ポイントとなっています。だから官僚機構を改革すること(一例として公務員制度改革)は重要な政治課題として日本の政治に登場していると私は考えています。
さらに、庶民の動向を見ても、活発なのは大震災や原発事故関連の市民の運動であって、残念ながら旧来型の労働組合中心の運動ではありません。この市民の運動を見ると、被災者支援のボランティアとそのネットワーク形成や復興目的の町おこしや地元被災企業の立ち上げ支援、あるいは反・脱原発デモはもちろんですが、身の回りの放射能汚染レベルの自主測定にはじまり、自主的な除染や放射線被曝から子供を守る運動等、目新しい市民の運動が広範に起きています。
これらの運動が直接ぶつかる相手は企業ではなく、”国家”であることが一つの特徴になっています。象徴的な事例は校庭利用の許容被曝線量を文科省が年間20ミリシーベルト以下とした問題です。これに抗議して放射線安全学の専門家である政府参与が辞任し涙の訴えをしたのは半年前のことですが、小さな子供を持つ福島県の主婦たちが20ミリシーベルト基準の撤回を求めて文科省への直談判に及んだこともニュースになっていました。
今や、官僚機構は政権交代後の守旧派の突撃部隊として躍り出たばかりでなく、大震災・重大原発事故が広範に引き起こす庶民の運動に対しても敵役の役回りで頻繁に登場するようになっています。
そういうわけで、丸さんによる上述の批判は見当はずれに思われるのであり、また丸さんの次のような批判も同様です。すなわち「官僚・官僚機構を他の関連から切り離してもっぱらそれへの批判のみに集中してしまう風潮が広く蔓延しているからと言って、それにいたずらに流さ れてしまう、無批判に乗ってしまって」いる、というわけでは私はありません。
(3)、次に第三の批判に移ります。小沢の「政治主導」についての評価です。それが「革命的意義」を持っているというのは、今述べた「官僚主権国家」という私の把握から直接出てくるものなのです。
むろん小沢は私のようなことを考えているわけではなく、民主国家では選挙の洗礼を受けた政治家とその政党が政策を決定するべきで、官僚は政策実現の事務方に徹するべきであるという政治理念を実行しようとしているに過ぎません。この政治理念は欧米先進国では当然のことで現に実行されていることですが、しかし、日本では格別な意義、「革命的な意義」を持っているというのが私の主張なのです。
最近、経産省の改革派官僚である古賀茂明氏が「首」になりましたが、彼の著作に「日本中枢の崩壊」という近著があります。その中で著者がその作成に携わった国家公務員制度改革基本法について中曽根康弘元総理が「これは革命だよ」(同書53ページ)と言ったと書かれていますが、自民党政権下で進行していた官僚機構改革の先鞭でさえ、元総理に「革命」を実感させるほどで、官僚機構に手綱を掛けることがいかに至難であるかがよくわかります。ましてや、小沢の「政治主導」は官僚が握る全権を奪い官僚を単なる事務方にしようと言うのですから、なおさら革命的なことになります。
丸さんは内閣法制局長官の国会答弁禁止や通年国会化による与党案の成立率の向上(与党の横暴)を挙げて、「小沢の言う”政治主導”は一面において<反動的>でさえあるで しょう。」と主張しています。
野党の国会戦術に有利なものを潰す側面があるということから、小沢の「政治主導」の反動性を指摘するわけですが、政権交代が行われ官僚機構が支配者として突出してきた現状では、個々の国会戦術上の便宜より重要なものは政治改革の理念(「政治主導」)を実現することです。官僚機構から政治の実権を奪い返すこと、そうしなければ、そもそもの国民主権の形すら作れないし、やがて”革新”政権ができても政権は何もできないまま潰されてしまう可能性が高いでしょう。
官僚を公僕たらしめる訓練が官僚にも国民にもどうしても必要だということが政権交代で明らかになったことは一大成果と言うべきで、かつての「朕が股肱」であり、関連情報と省庁運営のノウハウを独占し予算配分権、人事権を事実上掌握する日本の官僚機構はとりわけ始末が悪い。かかる官僚機構とその関連諸団体による国家への膨大な寄生が市民生活を窒息させていることは言うに及ばず、今時の大震災や原発事故への対応を見るにつけ、”官僚主権国家の弊害ここに極まれり”と思っているところです。
なお、丸さんの言う内閣法制局長官による改憲解釈に抑制的な国会答弁の利用価値や通年国会化の弊害は、共産党も主張しているので若干触れましょう。内閣法制局長官の国会答弁禁止の場合、そもそもの話が裁判所でもない一行政機関に憲法の有権解釈権があるかのように取り扱われてきたこと自体の不合理さがあるわけで、三権分立という民主国家制度の基本に照らせば是正してしかるべきというのは筋論として正当であるし、内閣法制局の審査にパスしなければ法案を閣議にもかけられないというのは明らかに、官僚主権国家の一現象なのです。
立法行為に対する事前の形式的な法案審査機関であれば衆参両院にも法制局があるわけですから、屋上に屋を架すような内閣法制局は官僚機構による内閣への牽制・監視機関という役割を担っています。ですから、内閣法制局が改憲解釈に抑制的であることがいつまでも続くという保障はないと言うべきでしょう。現に解釈改憲は続けられて今日に至っており、小泉政権ではイラクへ自衛隊機を飛ばした事実も忘れるわけにはいきません。
通年国会化の弊害という指摘は、共産党の本来の主張からすれば実に筋が悪い。悪法を審議未了で廃案にできなくなる弊害という主張は本末が転倒しています。共産党のもともとの主張は国会は言論の府であり、十分な時間を取った法案審議の必要性を言い審議拒否はしないという態度を取ってきたのですから、そうした主張からすれば通年国会こそ望ましいということになるでしょう。実際的に考えてみても、通年国会のほうが共産党の出番も増えるはずです。
(4)、さて、最後は、私が野田政権を最初から決めつけずによく見る必要があると言った事への批判です。丸さんは次のように言っています。
「 民主党・野田政権に対する批判的検討を出来る限り忌避しようとしている風にさえ受け取れてしまう(注)。少なくとも、原さんの投稿を読んだ人が、民主党・野田政権への批判的意識を鈍らせてしまう方向へミスリードされてしまうおそれさえある、といえます。」
あるいは、こういう批判もあります。野田政権を注視するのは、
「「庶民の利益」に反する点(とそうでない点)を見極め、「政権交代の09年マニフェスト「国民の生活が第一」という政治理念」「庶民の利益」に反 する動きに対しては徹底して批判を集中し、そのような「政策実行」を断固として阻止する、ためではないのか。にもかかわらず、原さんは今回の投稿 でこの点に一切踏み込んでいない。そのような問題意識に関する言及が一切ない。」
このような批判は何ともはや困ったもので、言うべき言葉が見あたらないほどですが、投稿も予定外に長くなってきたので簡単にやりましょう。
当サイトのエントリーを見ればわかりますが、私の投稿の日付は9月2日で、野田政権が天皇による親任式を終えた晩に送ったものです。つまり、党と内閣の顔ぶれが決まっただけで野田首班による国会での所信表明演説もなければ、その政策も何一つ実行されていない時点でのものです。
「徹底して批判を集中」するにしろ、「断固として阻止」するにしろ、威勢の良いのは丸さんの元気な証拠なのでしょうが、この時点では何もやっていない野田政権を「阻止」することはむろんのこと、「批判」のしようもありません。
今ならば、水割りしたとはいえ、復興増税に踏み込みましたから、野田政権は財務省のポチ(傀儡)政権だと批判してよいでしょう。
(5)、最後に。明らかに、この投稿の末尾で検討した批判は丸さんによる拙速な批判です。しかも、この批判が丸さんの投稿では冒頭に来て私の小論への総括的な評価となっています。
私の政局雑感風の小論はこうした批判はするべきではないと言っているわけで、それというのも、左翼陣営全体が無能を晒した一大原因がこの拙速な批判だと反省しているところであって、批判に過度に熱中する”因果な性癖”は直さなければなりません。そうでなければ、同調者が増えるということはありません。