1、”未然に防ぐ”思考
「さて、最後は、私が野田政権を最初から決めつけずによく見る必要があると言った事への批判です。丸さんは次のように言っています。
「 民主党・野田政権に対する批判的検討を出来る限り忌避しようとしている風にさえ受け取れてしまう(注)。少なくとも、原さんの投稿を読んだ人が、民主党・野田政権への批判的意識を鈍らせてしまう方向へミスリードされてしまうおそれさえある、といえます。」
あるいは、こういう批判もあります。野田政権を注視するのは、
「「庶民の利益」に反する点(とそうでない点)を見極め、「政権交代の09年マニフェスト「国民の生活が第一」という政治理念」「庶民の利益」に反 する動きに対しては徹底して批判を集中し、そのような「政策実行」を断固として阻止する、ためではないのか。にもかかわらず、原さんは今回の投稿 でこの点に一切踏み込んでいない。そのような問題意識に関する言及が一切ない。」
このような批判は何ともはや困ったもので、言うべき言葉が見あたらないほどですが、投稿も予定外に長くなってきたので簡単にやりましょう。
当サイトのエントリーを見ればわかりますが、私の投稿の日付は9月2日で、野田政権が天皇による親任式を終えた晩に送ったものです。つまり、党と内閣の顔ぶれが決まっただけで野田首班による国会での所信表明演説もなければ、その政策も何一つ実行されていない時点でのものです。
「徹底して批判を集中」するにしろ、「断固として阻止」するにしろ、威勢の良いのは丸さんの元気な証拠なのでしょうが、この時点では何もやっていない野田政権を「阻止」することはむろんのこと、「批判」のしようもありません。
今ならば、水割りしたとはいえ、復興増税に踏み込みましたから、野田政権は財務省のポチ(傀儡)政権だと批判してよいでしょう。」(原 仙作「丸さんの批判への回答」)
原さんの事実誤認、ないし不正確な記述に対する指摘から入らなければならないのは大変恐縮ですが、私は前回の投稿において原さんが「野田政権を最初から決めつけずによく見る必要があると言った事」を批判していません。それどころかむしろ
「「民主党内の権力闘争」を「黒一色に塗りつぶす」ことなく、「細心の注意を払って研究する必要があ」り、「拙速な単純化は禁物」であること。 以上の点は、いずれも異論の余地のないことであると、私も思います。」(丸 楠夫「ひさしぶりに原さんの投稿を読んで」)
とさえ、述べているのです。その上で、
「しかし、そもそも民主党・野田政権を「拙速な単純化」を排し「細心の注意を払って研究する」のは何のためなのか?少なくとも、民主党・野田政権に対して科学的に正確な認識を得るため、だけでないことは当然の前提でしょう。」(丸―同)
と言う認識のもと、
「民主党・野田政権に対し「予断を持たずに」「拙速な単純化」を排し「細心の注意を払って研究する」のは、まず何よりも、民主党・野田政権の「政権交代の09年マニフェスト「国民の生活が第一」という政治理念」「庶民の利益」に反する点(とそうでない点)を見極め、「政権交代の09年マニフェスト「国民の生活が第一」という政治理念」「庶民の利益」に反する動きに対しては徹底して批判を集中し、そのような「政策実行」を断固として阻止する、ためではないのか。にもかかわらず、原さんは今回の投稿でこの点に一切踏み込んでいない。そのような問題意識に関する言及が一切ない。
そのため、「一色に塗りつぶすわけにはいきません」「細心の注意を払って研究する必要」「拙速な単純化は禁物」「予断を持たずに・・・注視することが必要」といった原さんの言葉も(原さんの主観的意図はどうあれ、結果)、全て一般論としての正しさの域を出ていない。その上、「しばらくは予断を持たずに野田の政策実行を注視することが必要だと思っています」―「野田の政策」がどのようなもであれ(「政権交代の09年マニフェスト「国民の生活が第一」という政治理念」「庶民の利益」に反するものであれ?)、「実行」されるまでは(判断・批判を保留して?)ただ「注視することが必要」―と言うのであれば、(原さんの主観的意図はどうあれ)むしろ「細心の注意を払って研究する必要」から逸脱して民主党・野田政権に対する批判的検討を出来る限り忌避しようとしている風にさえ受け取れてしまう」(丸―同)
と、批判しました。
つまり、私が前回の投稿において批判したのは、原さんが「野田政権を最初から決めつけずによく見る必要があると言った事」”ではなく”、あくまで、「野田の政策」が実際に”「実行」されるまで”、―つまり政策実行”に向けた動き”や”検討に入った”段階での批判や反対を(かつそれが”どのような政策”の実行に向けたものかを問う視点もなく)、”あらかじめ”放棄、ないし保留している(と解釈せざるを得ない文言)に対してです。したがって
「私の投稿の日付は9月2日で、野田政権が天皇による親任式を終えた晩に送ったものです。つまり、党と内閣の顔ぶれが決まっただけで野田首班による国会での所信表明演説もなければ、その政策も何一つ実行されていない時点でのものです。・・・この時点では何もやっていない野田政権を「阻止」することはむろんのこと、「批判」のしようもありません。」
という原さんの文章は、私の批判、問題提起に対するなんらの反論、なんらの回答にもなっていません。私の前回の投稿中、「野田政権が天皇による親任式を終えた晩」や「党と内閣の顔ぶれが決まっただけで野田首班による国会での所信表明演説もな」い等の段階で原さんが野田の政策を批判しないことを問題にした箇所など、一言一句たりとも存在しないことは、原さんも―お返事を書かれる上でそれなりに読み込まれたことでしょうから―ご存知のはずです。私が前回の投稿で問題にしたのはあくまで「「野田の政策」がどのようなもであれ・・・「実行」されるまでは(判断・批判を保留して?)ただ「注視することが必要」―と言うのであれば、(原さんの主観的意図はどうあれ)むしろ「細心の注意を払って研究する必要」から逸脱して」(丸 楠夫「ひさしぶりに原さんの投稿を読んで」)しまう、という点です。
では、誤解の余地のないように、改めて原さんにこう問いましょう。
野田内閣がどのような政策の実現を”目指すのか”、どのような政策の実現に”向かおうとするのか”、どのような政策の実現を”検討しているのか”が判らない時点において、今後(どのような政策を実行するにしろ、政策が実際に実行される前に必ず)野田政権が通過することになる”目指す””向かおうとする””検討する”段階での批判が、(”目指す””向かおうとする””検討する”)政策の”内容によっては”必要になる事態を、なぜ、まったく想定しない(文言―民主党・野田政権の「政権交代の09年マニフェスト「国民の生活が第一」という政治理念」「庶民の利益」に反する点(とそうでない点)を見極め、「政権交代の09年マニフェスト「国民の生活が第一」という政治理念」「庶民の利益」に反する動きに対しては徹底して批判を集中し、そのような「政策実行」を断固として阻止するという点に一切踏み込んでいない。そのような問題意識に関する言及が一切ないまま、「しばらくは予断を持たずに野田の政策実行を注視することが必要だと思っています」―になっている)のか?そこにどんな合理性、妥当性があるのか?
野田の政策がわからない段階でも、否、野田の政策がわからない段階であればなおのこと、今後どのような政策の実現を”目指すのか”、どのような政策の実現に”向かおうとするのか”、どのような政策の実現を”検討しているのか”が<判った段階で>=政策が実際に実行される前の段階であっても、実行を目指し、実行に向かって、実行が検討されている政策の”内容によっては”忌憚なく批判するという選択をあらかじめ排除しない、と言う立場を原さんが取らないのは何ゆえなのか?そのように主張しない理由は何なのか?
原さんが私の批判、問題提起に反論、回答しようと言う気が多少なりともあるのであれば、そして自らの主張に対して提起された批判、異論、疑問に答えることで自説をより説得力あるものにしようとする気―自己の主張に対する真摯さ―が多少なりともあるのなら、以上の問いに逃げずにきちんと答えるべきです。
あるいは、<いやそうではない、「しばらくは予断を持たずに野田の政策実行を注視することが必要だと思っています」と書いたのは言葉のあやだ、筆が滑っただけだ、当然「野田の政策実行」の前の段階でも検討段階に入った政策の内容によっては、批判は大いに行うべきだ、その「政策実行」を”未然に防ぐ”べく意を尽くすべきだ>とおっしゃられるのであれば、今からでも文言を修正するなり補強するなりしてその旨、誤解のないように明確にするべきです。私としてはむしろ、原さんがそのような立場を明確にされることを―論争とはまた関係なく―切に望みます。
実際問題、今や「私の投稿の日付は9月2日で、・・・党と内閣の顔ぶれが決まっただけで野田首班による国会での所信表明演説もなければ、その政策も何一つ実行されていない時点」云々などと言ってる場合ではなくなっています。具体的に一例を挙げれば、現在、TTP交渉参加の是非が大きな問題になっています。民主党の党内政局も、TTP交渉参加の是非をめぐって緊迫の度を深めています。もちろん、現時点において野田政権はTTPに参加した(「政策実行」をした)わけでもなく、それどころかTPP”交渉”への参加(と言う「政策実行」)すらしていません。それどころか野田内閣としても野田民主党執行部としても、TTP交渉参加の是非については依然何らの(正規の)決定はなされていない段階です。つまり明らかに「政策実行」の”前”の段階、「政策実行」は”なされていない”段階です。その一方で、野田内閣・執行部の(原さんも含めて、一般的にも小沢ら従来の党内反主流に近いと目されている興石東を含む)主流がTPP交渉参加を目指している、TPP交渉参加の方向で動いているのも、今や明白となりつつあります。
このような事態を前に、原さんはTTP交渉参加と言う”現時点では”いまだ未然の政策に対してどのような態度を取られるのでしょうか?どのような態度をとるべきだとお考えなのでしょうか?すでにそれが問われる状況の中に我々は居ます。
あくまで(民主党・野田政権の「政権交代の09年マニフェスト「国民の生活が第一」という政治理念」「庶民の利益」に反する点(とそうでない点)を見極め、「政権交代の09年マニフェスト「国民の生活が第一」という政治理念」「庶民の利益」に反する動きに対しては徹底して批判を集中し、そのような「政策実行」を断固として阻止するという点に一切踏み込んでいない。そのような問題意識に関する言及を一切欠いた)「しばらくは予断を持たずに野田の政策実行を注視することが必要だと思っています」と言う原さんの先の投稿における文言に沿って判断するならば、TPP交渉参加と言う政策が「実行」されていない(原さんがどの時点でTTP交渉参加と言う政策が「実行」されたと見なすのかは不明ですが、少なくとも)現段階においては、なお「しばらくは予断を持たずに野田の政策実行を注視することが必要だと思っています」と言う対応にならざるを得ないでしょう。それに加えて、原さんが今回の投稿(「丸さんの批判への回答」)を執筆した時点においても、すでに野田内閣・執行部の主流がTTP交渉参加へ向けて前のめりになりつつあることはすでに報道もされていたはずかと思いますが、にもかかわらず、私へのお返事において原さんがなおも、野田政権の批判しうる点としてただ
「今ならば、水割りしたとはいえ、復興増税に踏み込みましたから、野田政権は財務省のポチ(傀儡)政権だと批判してよいでしょう。」
と言うこの一点だけしか挙げていないのを見るにつけ、野田内閣・執行部主流のTPP交渉参加へ向けた動きに対し、それが政策として実行されていないことをもってして、原さんが本気で「しばらくは予断を持たずに野田の政策実行を注視することが必要だと思ってい」るのではないかと言う懸念が今のままではぬぐえません。
2、「官僚主権国家」規定の妥当性
「私は官僚機構を他の支配階級の連中、財界・大企業やら自民党等から切り離していません。というのは、私は「官僚主権国家」と言っているわけですから。その意味をあえて解説すれば、官僚機構が国家権力を握っており、かつての万年与党である自民党ばかりでなく独占資本(財界・大企業)をも自己に従属させていると言っているのです。 だから、政権交代後にシャシャリ出て来た『守旧派』の雄である官僚機構にスポットライトをあてることは「ミスリード」どころか当然のことです。 日本の支配階級のこうした基本構成を実地に白日の下に晒してくれたのは鳩山政権の功績で、特筆される価値があります。」(原 仙作「丸さんの批判への回答」)
原さんが(おそらくは)「官僚機構を他の支配階級の連中、財界・大企業やら自民党等から切り離してい」ないであろうことは、
「・・・官僚・官僚機構を分析・批判し、その問題に効果的に切り込んでいくためには、官僚・官僚機構とそのあり方、問題を、「政・財・官・報各界」の関連の中でとらえ、明らかにし、是正していくことが不可欠でしょう。
原さん自身は、おそらくその点は十分認識した上でのことなのでしょうが、・・・」(丸 楠夫「ひさしぶりに原さんの投稿を読んで」)
という形で、私は前回の投稿の中で触れておきました(それについて今回改めて原さんから、「私は官僚機構を他の支配階級の連中、財界・大企業やら自民党等から切り離していません。」という明言がありました)。また、私も決して官僚・官僚機構の問題性を軽んじていいなどとは思いませんし(「官僚・官僚機構とそのあり方が、それ自体独自の分析と批判を必要とする巨大な対象、重大な問題であることは確かです。」(丸 楠夫「ひさしぶりに原さんの投稿を読んで」))、その認識のもと前回の投稿でも
「官僚・官僚機構を分析・批判し、その問題に効果的に切り込んでいくためには、」(丸―同)
「官僚・官僚機構とそのあり方、問題を、「政・財・官・報各界」の関連の中でとらえ、明らかにし、是正していくことが不可欠でしょう。」(丸―同)
と述べました。ならば原さんの前回の投稿のどういう点について私が問題提起をしたのかといえば、
「少なくとも今回の投稿では官僚機構への批判が強調されるあまり、官僚機構のみを他から切り離して批判する表現となっています(あたかも「中央官僚機構」のみが単一で、独占的に「主権を振る」って「政治支配」を行っているかのごとき現状規定、「天皇制とその無答責な統治体制」とともに戦後改革を生き残った旧財閥についての言及の欠如、等)。そのため、結果的に読者を―官僚機構を「政・財・官・報各界」の関連、社会のあり方との関連の中でとらえ、批判する認識を鈍らせ―もっぱら官僚機構のあり方のみに日本の問題を見出す方向へミスリードする内容になっていると言わざるを得ません」(丸―同)
とあるように、日本の政治・経済・社会全体のあり方として「あたかも「中央官僚機構」のみが単一で、独占的に「主権を振る」って「政治支配」を行っているかのごとき現状規定」―直接には、原さんがまるでそう規定しているかのように読める、読まざるを得ない、という、いわば「表現」、書き方の問題として述べました―への疑問です(ひとつ弁解させていただくと、「戦後改革を生き残った旧財閥についての言及」云々というのは、これについて”言及していない”のがけしからん、というつもりではなく、原さんにおいては官僚機構だけがが、戦後改革を生き残った「天皇制とその無答責な統治体制」(原 仙作「野田政権誕生始末」)として強調されていることに対して、それではあまりにバランスが取れていないのではないか、という考えからあえて入れたものです)。
しかし今回の原さんのお返事で、―運動上の単なる(単純化された)スローガンとしてでもなく―原さんがどうやら日本の現状規定として「官僚主権国家」「国内の官僚支配」「日本のブルジョア階級(財閥中心)は・・・戦後はアメリカが主人であり、国内の支配人には戦前来無傷のままの官僚機構を戴いて恥じるところがありません。」と言っていること、原さんの言う「私は官僚機構を他の支配階級の連中、財界・大企業やら自民党等から切り離していません。」の「切り離していません。」とは、あくまで、「官僚機構が国家権力を握っており、かつての万年与党である自民党ばかりでなく独占資本(財界・大企業)をも自己に従属させている」という限りにおいてのもの―「支配」する「官僚」と、それに「従属」する「財界・大企業やら自民党等」「他の支配階級の連中」という関係として「切り離していません。」と言っていること―が明らかになったことと思います。そこで、原さんのお返事の中であげられた個々の具体的な事例に添って私の考えを述べることで、そのような”関連のとらえ方”の妥当性について検討していきたいと思います。
「国内の官僚支配ということを明らかにした最近の事例を挙げるとすれば、鳩山政権による沖縄米軍基地の海外移転を巡って、官僚機構(ここでは防衛省と外務省)が妨害していた例があります。この妨害はウィキリークスが暴露した米外交文書で明らかになっています。」 (原 仙作「丸さんの批判への回答」)
鳩山政権発足後において、「官僚機構(ここでは防衛省と外務省)が妨害していた」ことは原さんのご指摘のとおりであり、それが沖縄米軍基地の海外移転挫折の大きな要因であったことも間違いないでしょう。しかしこの問題について考えるには、そもそも鳩山政権が(鳩山個人の意思ということではなく鳩山内閣・民主党執行部としての統一された意思として)「沖縄米軍基地の海外移転」について、そもそもどの程度重要、切実な政治課題と認識していたのか?というところから問うていく必要があるでしょう。
鳩山政権発足に先立って、民主党、社民党、国民新党による政策合意がなされました。私の記憶によれば、その三党合意の過程で民主党は当初普天間基地の海外移設、辺野古断念について盛り込むことに難色を示したものの、社民党が盛り込みを強硬に主張し、国民新党もそれをとりなす形となって合意に盛り込まれるに至った、という報道がなされていたかと思います。また、鳩山内閣の組閣に際して、一時<亀井静香が防衛大臣に確定>という旨の報道が流れました(テレビのニュース速報のテロップでも流れたかと思います。これを見たときは私も、鳩山は本気だ、と思いました)。しかし結局、亀井<重量級>防衛大臣は実現しませんでした。これらの出来事は、沖縄米軍基地の海外移転という政策が、”民主党としての”コンセンサス足りえていなかった、より慎重な言い方をするにしても迷い、逡巡があったことをうかがわせるものといえるのではないでしょうか。もし民主党執行部として沖縄米軍基地の海外移転という政策がコンセンサス足りえていたら(もっと言ってしまえば鳩山ら民主党内の海外移設派に沖縄米軍基地の海外移転という政策を自らの内閣でのコンセンサスとする使命感と力量があったなら)総選挙での勝利が確定した時点で、次期首相の資格でアメリカ駐日大使に、辺野古移設の不可能と普天間基地の早期国外移設交渉を次期政権の方針として大統領、国務省、国防総省に伝えるよう表明する(ことで外務・防衛両省と党内の反海外移転派の外堀を埋める)ことも出来たでしょう(結果的に海外移設が出来るかはともかく)。
もちろん、沖縄米軍基地の海外移転が鳩山内閣・民主党執行部としてのコンセンサスたり得ていなかったからといって、「民主国家では選挙の洗礼を受けた政治家とその政党が政策を決定するべきで、官僚は政策実現の事務方に徹するべきである」(原 仙作「丸さんの批判への回答」)訳ですから、内閣・与党のコンセンサスが必ずしも確定していないときに沖縄米軍基地の海外移転の動きに対して防衛省と外務省が妨害を働いたことの重大性、両省の政治的主体としての力量、は到底看過することのできるものではありません。しかし、そもそもこの事例において外務・防衛の両省は内閣・与党のコンセンサスに対して抵抗・挑戦し、その結果として内閣・与党を敗北に追い込んだというより、沖縄米軍基地の海外移転につて内閣・与党としてコンセンサスを形成できず、むしろ政権発足間も無い時点で早々と内閣・民主党内の一部有力政治家が公然と沖縄米軍基地の海外移転に否定的言動をくり返し、内閣・与党の大勢にも海外移設の必要性、切実性の認識が広がらず、内閣・与党内で沖縄米軍基地の海外移転を目指す動きが孤立化する中、妨害を働いていた、というべきものです。もちろんここには「官僚は政策実現の事務方に徹するべきである」姿からの明らかな逸脱があり、その是正が求められるのは当然です。しかし、この事例からうかがえるのは「国家権力を握って」「主権を振る」い、「選挙の洗礼を受けた政治家とその政党が政策を決定する」という行為さえ「自己に従属させ」「支配」する外務・防衛両省の姿というより、政治(の側のそもそもの政策決定の不在ないし不全)と官僚機構の相互作用の末による普天間基地海外移設の挫折ではないでしょうか。むしろこれを官僚―政治(家・政党)間の単純な支配―被支配関係として見ることは、普天間基地海外移設の挫折における政治の側の作用を後景に追いやってしまいかねないもの、といえるのではないでしょうか(そもそも原さんにおいては政治の側の作用は触れられてさえいませんが)。
「また、政権交代が起きて以後を見ていると、政権交代直後の茫然自失の経団連や自民党とは対照的に新政権つぶしの先頭に突出してきたのが検察をはじめとする官僚機構であったことも明瞭と思われるところであり、言わば、世論の風になびき迷走しやすいように官僚には見える新政権を籠絡しタガをはめる主役として登場してきています。」(原―同)
つぎに「新政権つぶしの先頭に突出してきたのが検察をはじめとする官僚機構であったことも明瞭」という点につて。おそらくここで原さんが想定しているのは、政治資金規正法違反容疑での検察の小沢捜査、小沢秘書の逮捕・起訴の一連の事件をさしているものと思います。
ここでひとつ例え話をしましょう。
治安維持法下で特高警察が悪行を働いている場合、特高警察やその悪行が指弾されなければならないのは当然ですが、同時にそもそも特高警察の悪行の根拠となっている治安維持法の廃止が必要なことも当然のことかと思います。
同様に、検察自体や国策捜査について指弾することは当然のことですが、同時に、そもそも検察の政治家に対する恣意的な国策捜査の根拠となっている”政治とカネ”を規制する法のあり方が改められる必要もあるでしょう。治安維持法のように”政治とカネ”を規制する法そのものも撤廃してしまえば、もちろん検察の政治家に対する恣意的な国策捜査の余地もだいぶ減らすことが出来るでしょうが、とりあえずここでは”政治とカネ”を規制する法は必要であるとの立場にたって考えていきます。
そもそも現行の”政治とカネ”を規制する法が曖昧なものであり、そのためそれを実際に運用する捜査当局に大きな解釈の余地を与えてしまっていることが、検察の政治家に対する恣意的な国策捜査の余地となっていることは、重大な問題だといえるでしょう。つまり、検察自体や国策捜査について指弾することとともに、解釈の余地のない明確かつ厳格な”政治とカネ”を規制する法を整備することが必要だといえるでしょう。イギリスでは「民主国家では選挙の洗礼を受けた政治家とその政党が政策を決定する」(原 仙作「丸さんの批判への回答」)前提として”政治とカネ”についての厳格な法的規制があると聞きます。ですから我々が検察・国策捜査を指弾していくに当たっては、それに続けて<検察の胸三寸を許さない、イギリス並に厳格な”政治とカネ”の法規制を>というスローガンを対置していかなければならないでしょう。また、そうしてこそより広範な国民・市民への訴求力と支持を得ることが可能となるでしょう。
さて、現行の”政治とカネ”に対する法が捜査当局の恣意的な解釈を可能にするようなあいまいなものとなっているのはなぜなのか?
「検察をはじめとする官僚機構」が自らの政治支配の貫徹を目的に、その力を駆使してあえて捜査当局に大きな解釈の余地を与える政治資金規正法を制定させた、というのであれば、原さんの言うような、「中央官僚機構」のみが単一で、独占的に「主権を振る」って「政治支配」を行っているかのごとき「官僚主権国家」という現状規定を証明する一例といえるでしょう。しかし事実はそうではないでしょう。”政治とカネ”につての法的規制と責任を極力回避しようとした政治(家)の側が、あいまいで中途半端な”政治とかね”の法規制しか捜査当局に”与えようとしなかった”から、結果として検察による”政治とかね”についての恣意的な捜査に道を開いた点が否めないのではないでしょう。つまりこの事例を、官僚―政治(家)の関係を支配―被支配の関係、「国家権力を握って」「主権を振る」い、「選挙の洗礼を受けた政治家とその政党が政策を決定する」という行為さえ「自己に従属させ」「支配」する官僚像だけで考えようとするならば、あるいは「新政権つぶしの先頭に突出してきたのが検察をはじめとする官僚機構であった」とだけで済ましてしまうのなら、むしろ我々は、今後恣意的な国策捜査を―政治や法との関連でより積極的・効果的に―是正していくための方策を自ら限定的なものにしてしまいかねないのではないでしょうか。
「さらに、庶民の動向を見ても、活発なのは大震災や原発事故関連の市民の運動であって、残念ながら旧来型の労働組合中心の運動ではありません。この市民の運動を見ると、被災者支援のボランティアとそのネットワーク形成や復興目的の町おこしや地元被災企業の立ち上げ支援、あるいは反・脱原発デモはもちろんですが、身の回りの放射能汚染レベルの自主測定にはじまり、自主的な除染や放射線被曝から子供を守る運動等、目新しい市民の運動が広範に起きています。
これらの運動が直接ぶつかる相手は企業ではなく、”国家”であることが一つの特徴になっています。象徴的な事例は校庭利用の許容被曝線量を文科省が年間20ミリシーベルト以下とした問題です。これに抗議して放射線安全学の専門家である政府参与が辞任し涙の訴えをしたのは半年前のことですが、小さな子供を持つ福島県の主婦たちが20ミリシーベルト基準の撤回を求めて文科省への直談判に及んだこともニュースになっていました。
今や、官僚機構は政権交代後の守旧派の突撃部隊として躍り出たばかりでなく、大震災・重大原発事故が広範に引き起こす庶民の運動に対しても敵役の役回りで頻繁に登場するようになっています。」(原―同)
「レーニンがかつてその特別な地位を指摘した金融資本でさえ、「MOF担」なる部署まで作り大蔵省の「護送船団方式」を嬉々として受け入れていたことが思い出されますが、現在でも大震災と原発事故を前にして法人税の減税要求を撤回しようとさえしない”たかり屋”ぶりです。アメリカの著名な投資家・パフェットが富裕層の増税を提唱する国との違いは歴然としています。」(原―同)
まず許容被曝線量の問題について。このような犯罪的決定を下した主犯が官僚機構(文科省)であり、「これらの運動が直接ぶつかる相手は企業ではなく、”国家”である」ことは当然かつ至極妥当なことです。直面する復旧・復興、生活再建にまず第一義的に責任を負い、速やかに尽力すべきは国であり、運動が「企業ではなく、”国家”」にそれらを要求すること、「官僚機構」が「大震災・重大原発事故が広範に引き起こす庶民の運動に対しても敵役の役回りで頻繁に登場する」ことも必然といえるでしょう。しかし、運動の直面する課題が対企業ではなく対国家、対官僚機構である、ということと、日本の政治・経済・社会全体のあり方に対する現状規定として原さんの言う「官僚機構が国家権力を握っており、・・・独占資本(財界・大企業)をも自己に従属させている」「官僚主権国家」像が妥当するかどうかは別個に検討すべき事でしょう。それをさも同列のことであるかのように論じるのは論理の飛躍と言わざるを得ないのではないでしょうか。
また、「これらの運動が直接ぶつかる相手」である「”国家”」「官僚機構」が、庶民増税によってそれらに対処しようとしていることを考慮すれば、将来的に決して楽観するわけにいかない、「大震災・重大原発事故が広範に引き起こす庶民の運動」と庶民増税反対運動との分断と言う事態を回避し、むしろ両者の運動を切り結んでいく上で、原発事故については国とともに責任と財政負担を負うべき東電(とその株主債権者)、あるいは原子力産業の逃げ切りを許さず、原発事故によって国が負った財政負担も含めて東電(とその株主・融資してきた銀行団)、あるいは原子力産業に請求していく、また、財界・大企業の「大震災と原発事故を前にして法人税の減税要求を撤回しようとさえしない”たかり屋”ぶり」を許さず応分の復旧・復興、生活再建のための負担を求めていくと言った、「”国家”」「官僚機構」とともに「企業」をも「敵役の役回り」として射程に入れていく運動・理論も同時に必要となっていかざるを得ないのではないでしょうか。少なくともこの事例における原さんの見解からはそういった視点はまったくうかがうことができないと言わざるを得ないのではないでしょうか。
また、個々の金融資本(銀行等)にとって「「MOF担」なる部署まで作り」大蔵省の担当部局官僚を上位者として接待しなければならないということは支配―被支配関係を実感させられるものだったのは確かでしょう。だからといって、各種の「護送船団方式」が一定の時代条件の下で”総”金融資本を含む総資本・日本独占資本全体としての復活強化に果たした役割への検討抜きに、この事例を「官僚機構が・・・独占資本(財界・大企業)をも自己に従属させている」一例と見なすのは論理の飛躍と言わざるを得ないのではないでしょうか。
また、「護送船団方式」の不明朗さ、官僚の裁量権は業界との癒着と腐敗の温床でもあった訳ですが、その癒着と腐敗の構造から政治(家)の果たした役割の大きさも忘れるわけにはいかないでしょう。また、「護送船団方式」の定義を暮らし、中小企業・個人事業主の営業を守る各種保護・規制にまで拡大するならば(大きな護送船団と小さな護送船団)、それらの保護・規制の中には権利や運動の成果として勝ち取られたものもあるわけですから―そのそれぞれについて、導入の決定や内容、現在における必要性において適切であるかどうかは別個に検討される必要があるにしても―、「護送船団方式」一般から、「官僚機構が国家権力を握っており、かつての万年与党である自民党ばかりでなく独占資本(財界・大企業)をも自己に従属させていると言」ってしまうには、検証の余地が大きすぎるとはいえないでしょうか。
それから、これはついでですが、「アメリカの著名な投資家・パフェットが富裕層の増税を提唱する国との違いは歴然としています。」というのであれば、まずパフェット氏の主張がどの程度アメリカ経財界の意向を代弁したものなのかを、まず示す必要があるのではないでしょうか。
以上見てきたことから、原さんの言う「官僚主権国家」規定とは、「官僚機構」と「他の支配階級の連中」との関係を、もっぱら「国家権力を握って」「支配」する「官僚」とそれに「従属」する「財界・大企業やら自民党等」「他の支配階級の連中」として非常に単線的に見ることによって、結果、複数の、それぞれ相対的自立性と相対的独自利害を有する「支配階級」相互の提携、取引、反抗、無関心等の関係性、それらによって生じる相互作用への注意を後景に追いやってしまう―少なくともその傾向がある―といえるものではないでしょうか。
繰り返しになりますが、私は「政権交代を契機に始まった政治改革への反撃部隊として官僚機構が躍り出てきているわけで、現在の政治情勢理解の一大ポイントとなっています。だから官僚機構を改革すること(一例として公務員制度改革)は重要な政治課題として日本の政治に登場している」(原―同)ことについて否定・批判しているわけではありません。むしろ原さんのように、あくまで「官僚機構が国家権力を握っており、かつての万年与党である自民党ばかりでなく独占資本(財界・大企業)をも自己に従属させている」という限りにおいて、「支配」する「官僚」と、それに「従属」する「財界・大企業やら自民党等」「他の支配階級の連中」という関係として「官僚機構を他の支配階級の連中、財界・大企業やら自民党等から切り離」さないというだけでは―検察の恣意的な国策捜査をはじめ「官僚機構を改革すること(一例として公務員制度改革)」や、「”国家”」「官僚機構」が「敵役の役回りで頻繁に登場する」「大震災・重大原発事故が広範に引き起こす庶民の運動」において―近い将来限界や弱点が生じることになるのではないか、と考えるのです。
3、「政治主導」の”分別”
「次に第三の批判に移ります。小沢の「政治主導」についての評価です。それが「革命的意義」を持っているというのは、今述べた「官僚主権国家」という私の把握から直接出てくるものなのです。
むろん小沢は私のようなことを考えているわけではなく、民主国家では選挙の洗礼を受けた政治家とその政党が政策を決定するべきで、官僚は政策実現の事務方に徹するべきであるという政治理念を実行しようとしているに過ぎません。この政治理念は欧米先進国では当然のことで現に実行されていることですが、しかし、日本では格別な意義、「革命的な意義」を持っているというのが私の主張なのです。
最近、経産省の改革派官僚である古賀茂明氏が「首」になりましたが、彼の著作に「日本中枢の崩壊」という近著があります。その中で著者がその作成に携わった国家公務員制度改革基本法について中曽根康弘元総理が「これは革命だよ」(同書53ページ)と言ったと書かれていますが、自民党政権下で進行していた官僚機構改革の先鞭でさえ、元総理に「革命」を実感させるほどで、官僚機構に手綱を掛けることがいかに至難であるかがよくわかります。ましてや、小沢の「政治主導」は官僚が握る全権を奪い官僚を単なる事務方にしようと言うのですから、なおさら革命的なことになります。
丸さんは内閣法制局長官の国会答弁禁止や通年国会化による与党案の成立率の向上(与党の横暴)を挙げて、「小沢の言う”政治主導”は一面において<反動的>でさえあるでしょう。」と主張しています。
野党の国会戦術に有利なものを潰す側面があるということから、小沢の「政治主導」の反動性を指摘するわけですが、政権交代が行われ官僚機構が支配者として突出してきた現状では、個々の国会戦術上の便宜より重要なものは政治改革の理念(「政治主導」)を実現することです。官僚機構から政治の実権を奪い返すこと、そうしなければ、そもそもの国民主権の形すら作れないし、やがて”革新”政権ができても政権は何もできないまま潰されてしまう可能性が高いでしょう。
官僚を公僕たらしめる訓練が官僚にも国民にもどうしても必要だということが政権交代で明らかになったことは一大成果と言うべきで、かつての「朕が股肱」であり、関連情報と省庁運営のノウハウを独占し予算配分権、人事権を事実上掌握する日本の官僚機構はとりわけ始末が悪い。かかる官僚機構とその関連諸団体による国家への膨大な寄生が市民生活を窒息させていることは言うに及ばず、今時の大震災や原発事故への対応を見るにつけ、”官僚主権国家の弊害ここに極まれり”と思っているところです。
なお、丸さんの言う内閣法制局長官による改憲解釈に抑制的な国会答弁の利用価値や通年国会化の弊害は、共産党も主張しているので若干触れましょう。内閣法制局長官の国会答弁禁止の場合、そもそもの話が裁判所でもない一行政機関に憲法の有権解釈権があるかのように取り扱われてきたこと自体の不合理さがあるわけで、三権分立という民主国家制度の基本に照らせば是正してしかるべきというのは筋論として正当であるし、内閣法制局の審査にパスしなければ法案を閣議にもかけられないというのは明らかに、官僚主権国家の一現象なのです。
立法行為に対する事前の形式的な法案審査機関であれば衆参両院にも法制局があるわけですから、屋上に屋を架すような内閣法制局は官僚機構による内閣への牽制・監視機関という役割を担っています。ですから、内閣法制局が改憲解釈に抑制的であることがいつまでも続くという保障はないと言うべきでしょう。現に解釈改憲は続けられて今日に至っており、小泉政権ではイラクへ自衛隊機を飛ばした事実も忘れるわけにはいきません。
通年国会化の弊害という指摘は、共産党の本来の主張からすれば実に筋が悪い。悪法を審議未了で廃案にできなくなる弊害という主張は本末が転倒しています。共産党のもともとの主張は国会は言論の府であり、十分な時間を取った法案審議の必要性を言い審議拒否はしないという態度を取ってきたのですから、そうした主張からすれば通年国会こそ望ましいということになるでしょう。実際的に考えてみても、通年国会のほうが共産党の出番も増えるはずです。」(原 仙作「丸さんの批判への回答」)
「内閣法制局長官による改憲解釈に抑制的な国会答弁の利用価値」にとどまらず、
「官僚答弁の弊害も確かに否定は出来ないでしょう。しかしその一方で、前例踏襲主義と継続性に固執する官僚答弁は、一面では、時の政府が従来の施策を改悪する際には一定の障害になりうるものでもあり、・・・また、法令運用、行政運営の実務を担う官僚を、国会、特に野党議員が直接に統制、けん制する機会として官僚に答弁させるということが一定の意義を持っていたことも否めない」(丸 楠夫「ひさしぶりに原さんの投稿を読んで」)
ということも、私は前回の投稿の中で指摘しておきました。特に後半の「法令運用、行政運営の実務を担う官僚を、国会、特に野党議員が直接に統制、けん制する機会として官僚に答弁させるということ」は、単に「野党の国会戦術に有利なもの」「個々の国会戦術上の便宜」という事を超え、むしろ「政治改革の理念(「政治主導」)を実現する」「官僚機構から政治の実権を奪い返す」上で極めて大きな意義を持つものと言わねばならないでしょう。とりわけ「関連情報と省庁運営のノウハウを独占し予算配分権、人事権を事実上掌握する日本の官僚機構」の”始末の悪さ”を考えるなら、官僚をチェックする機会・人員は多ければ多いほどよいとさえいえるのであって、官僚を「国会、特に野党議員」による「統制、けん制」からますます遠ざけること、官僚に対するチェック機能をますます与党(議員)にばかり背負い込ませることは、「政治改革の理念(「政治主導」)を実現する」「官僚機構から政治の実権を奪い返す」上ではマイナス要因以外の何者でもなく、明らかな退行、正気の沙汰とも思えない「反動」以外の何者でもありません。国会審議における官僚答弁の弊害は、”質問者”が官僚の答弁を求めていないにもかかわらず、質問者が”政治家(閣僚)の答弁”を求めているにもかかわらず官僚が答弁する、あるいは官僚が自らの意向を政治家(閣僚)に吹き込んで答弁させる―さながら政治家をスピーカー代わりに使って―ことがまず挙げられるのであって、官僚による答弁そのものを禁止する方向に持っていくことには―「政治改革の理念(「政治主導」)を実現する」「官僚機構から政治の実権を奪い返す」上でも―なんらの合理性も妥当性も見出せません。ですから、なぜ原さんが「内閣法制局長官の国会答弁禁止の場合」”だけ”についてしか採り上げないのかがそもそも不思議、不可解なのですが、質問者が求める限りにおいて内閣法制局長官が国会答弁すること、質問者があえて内閣法制局長官から引き出した答弁を元に質疑を展開していくこと自体は、少なくとも”国会審議の場における”政治主導にはなんら反することではないのではないでしょうか。
つぎに、原さんは「共産党のもともとの主張」を引き合いに出して「通年国会化の弊害という指摘は、実に筋が悪い。悪法を審議未了で廃案にできなくなる弊害という主張は本末が転倒しています。」とし、「国会は言論の府であり、十分な時間を取った法案審議の必要性・・・からすれば通年国会こそ望ましいということになるでしょう。」と言って通年国会化について擁護しています。しかし「筋」論で言えば本来、国会に提出(が予定されるものも含めて)される案件について「十分な時間を取った」検討を加えるための機会は、何も国会に限定されるものでもなければ国会に限定されるべきものでもない。国政の課題が国会の内外で「十分な時間を取っ」て広く論議されることは、「民主国家では選挙の洗礼を受けた政治家とその政党が政策を決定するべきで、官僚は政策実現の事務方に徹するべきであるという政治理念を」補完するもの、あるいはそのような「政治理念」さえをも”包摂”して遥かな広がりを持つ―部分的には「欧米先進国では当然のことで現に実行されている」―「民主国家」が拠って立つより原理的、原則的な「政治理念」です。
そもそも現状において、「審議未了で廃案」あるいは継続審議になるケースとは
「ある法律を通すには・・・衆参二つのヤマを越えるには、反対運動が強ければ、それだけ時間もかかるわけです。例えば、二〇〇二年の通常国会で出された健康保険の三割負担の問題を例にとって見ましょう。・・・反対運動が盛り上がると、政府は強行採決をやらなければなりません。・・・衆参両院(の委員会と本会議―引用者注)があるため都合四回の強行採決が必要です。一回の強行採決で審議は一週間ぐらい止まりますから、衆参両院で一ヶ月です。そういう”悪法”は、予算が上がった三月末くらいに出てきますから、会期が限定されている通常国会では、上程しても日程は非常に苦しいわけです。そのため会期の大幅延長が行われますが、二つの悪法は出しにくくなります。時間が足りなくなるのです。そこで、このときの国会では、健康保険法の改悪を通すために、政府は泣く泣く有事法制を継続審議にせざるをえなかったのです。」(渡辺 治「増補 憲法「改正」―軍事大国化・構造改革から改憲へ」旬報社)
とあるように、まず国会の”外”での強い「反対運動」「反対運動」の「盛り上が」りが条件・大前提としてあり、加えて、そのような強い反対運動の盛り上がりを引き起こす法案が”複数”ある場合に、”その内のいずれかの”法案の(強行採決による)成立と”引き換えに”、その内のいずれかの法案については「審議未了で廃案」あるいは継続審議になるというものです。
つまり「通年国会化」が実際に果たす役割とは、国会の”外”での強い反対運動の盛り上がりを引き起こす法案”であっても”、そしてそのような法案がどんなに立て続けに提出されようとも、国会の”中だけで”の「十分な時間を取った法案審議」だけで―会期と言う”制約があるからこそ”の強行採決ですから、その制約が無くなれば多くの場合で強行採決など”するまでも無くなる”でしょう―ベルトコンベアー式に成立していきかねない、と言うことでしかありません。そこには「官僚が握る全権を奪い官僚を単なる事務方にしようと言う」上でも「官僚機構から政治の実権を奪い返す」上でも、いかなる積極的意義も見出せません(官僚機構に対する国会の統制としてなら会期”外”でも国政調査権の行使を含む閉会中審査があります。そのような制度が十分機能していないことは、通年国会化によって改善される問題ではないでしょう)。むしろ「官僚機構から政治の実権を奪い返す」前に国会の通年化だけが先行した場合、国会の、官僚(主導で作られた法案)への抑制機能がより一層低下すると言う最悪の事態となるでしょう。いずれにしても、もし仮に原さんが、大阪の橋下徹同様「選挙の洗礼を受けた政治家とその政党」はそれを楯に独裁的な権限を行使しうる、行使すべきだ、という立場に与する者でない限り、国会外での強い反対運動の盛り上がりから今まで以上に制約されなくなるような”政治(家)主導”は容認できるものではないでしょう。たとえそれによって「共産党の出番も増える」としても―「野党の国会戦術に有利」「個々の国会戦術上の便宜」と比べても―それほどの意義があるといえるでしょうか。
「民主国家では選挙の洗礼を受けた政治家とその政党が政策を決定するべきで、官僚は政策実現の事務方に徹するべきであるという政治理念」「官僚機構に手綱を掛ける」「官僚が握る全権を奪い官僚を単なる事務方にしよう」「政治改革の理念(「政治主導」)を実現する」「官僚機構から政治の実権を奪い返す」「官僚を公僕たらしめる訓練が官僚にも国民にもどうしても必要」と言う理念への原さんの真摯さ、純粋さは疑うべくもありませんし、そもそも私自身もそれらの理念には大いに共感し、賛同するものです。しかしそれだけに、それらの理念を実現していくために役に立つ施策、役に立たない施策、むしろそれらの理念に逆行する施策、の区分を原さんがしない、出来ないことには正直驚きを禁じえません。
理念に対する純粋さ、その一方での、理念を実現する手段に対する無批判・無区分とそれによってもたらされる(おそらく本人にとっては意図せざる)理念そのものへの裏切り―ゆえに、原さんの「丸さんの批判への回答」の「(3)」は、小沢一郎とその「政治主導」論に対する(その汲むべきところと汲むべきでないところの分別をしない、できない)”信仰告白””全面的帰依”とでも言うより他ないものとなってはいないでしょうか。
次に、内閣法制局の位置づけについて。「内閣法制局が改憲解釈に抑制的であることがいつまでも続くという保障はないと言うべきでしょう。」と言うのはまったくその通りであり、「現に解釈改憲は続けられて今日に至っており、小泉政権ではイラクへ自衛隊機を飛ばした事実も忘れるわけにはいきません。」と言う言葉を待つまでも無く、そもそも自衛隊を合憲とする憲法解釈をおこなった時点でその反動ぶりは明らかである、とも言えなくはありません。この点については「・・・九条解釈において内閣法制局が自衛隊の海外派兵に相対的に抑制的であったのも事実でしょう。」(丸 楠夫「ひさしぶりに原さんの投稿を読んで」)と述べましたが、それはあくまで、現時点において、相対的に、ということにすぎません。このことは必要以上に評価することはありませんが、ことさら小さく評価することでもありません。前者の態度が誤りであるのと同じように、後者の態度もまた、自民党と民主党を形式的、画一的に同じ穴の狢、と見る態度同様必ずしも適切ではないでしょう。そのような同じ穴の狢論は、原さんが最も厳しく批判していたものではなかったでしょうか?重要なのはそのような相対的なずれや一方の遅れが現実の政治情勢において持つ意味です。
また、「内閣法制局長官の国会答弁禁止の場合、そもそもの話が裁判所でもない一行政機関に憲法の有権解釈権があるかのように取り扱われてきたこと自体の不合理さがあるわけで、三権分立という民主国家制度の基本に照らせば是正してしかるべきというのは筋論として正当であるし、内閣法制局の審査にパスしなければ法案を閣議にもかけられないというのは明らかに、官僚主権国家の一現象なのです。」と原さんは述べていますが、「裁判所」による「憲法の有権解釈権」は、基本的には事後的に、それも訴えが起こされた場合にのみ行使されるものです。裁判所による事後的かつ限定的な条件のもとでのチェックだけに行政の負う憲法遵守義務―それは法案を提出する際にだけ課されている訳ではないでしょう―を担保させればそれでよし、というのであればともかく、そうでなければ、内閣法制局が現状負っている任務について「立法行為に対する事前の形式的な法案審査機関であれば衆参両院にも法制局があるわけですから、屋上に屋を架すような内閣法制局は官僚機構による内閣への牽制・監視機関という役割を担っています。」と言うだけで片付けるのは―内閣法制局とその任務について今後どうすべきか、について検討していくうえでも―早計というほかないのではないでしょうか。
4、小括
「政党はその政治行動にもとづいて客観的な政治情勢に働きかける存在であり、政治の世界ではすでに述べた独特の力学が働く。客観的な政治情勢は一つであるが、その情勢の望ましい変化を得るには、その多面的な政治情勢のどの側面に主要に働きかけるかを選択しなければならず、その選択は「力関係」と政治力学を考慮することによってはじめて可能かつ十全になる。「力関係」次第では実践的に働きかける情勢の側面が異なってくることにもなる。」(原 仙作「検察の暴走を批判せよ―暴走する検察の応援団と化す共産党執行部の誤り―」2010/1/23)
上の言葉は直接には「政党」について語られた言葉ですが、「政党」に限らず、広く我々の政治的な言動についても当てはまる指針といえるでしょう。
「政治理念」としての正しさや望ましさ、正確な権力分析を省略して単純化した訴求力のあるスローガンとして、「政治主導」や「官僚主権国家」改革(「革命」)を押し出すだけでは、「「力関係」と政治力学」いかん―帝国主義化と新自由主義化を推進する立場からの”政治家・政治権力主導”や公共圏の解体と一体での官僚機構改革が、「政治主導」一般や「官僚機構」批判一般の正しさを楯に無視できない力を持っている今日の情勢―では「その情勢の望ましい変化を得」られない、むしろ目指すべき方向からかえって逆行してしまうことさえもある。そうならないためには、そもそも何のための「政治主導」「官僚主権国家」改革(「革命」)なのか―民主主義を実現するため、暮らしの権利と豊かさを守るため、それらをさらに発展・充実させるため―を明確にし、そのための「政治主導」「官僚主権国家」改革(「革命」)の諸施策を提起していく、すでに提起されているものの中から取捨選択していく、ことが不可欠です。またそのような提起・取捨選択と実現のためには、スローガン的な単純明快さにとらわれずに「「力関係」と政治力学を考慮すること」が不可欠です。そうでなければ、我々の主観的意図にもかかわらず、それに反して、そのような言動は結果的に、帝国主義化と新自由主義化を推進する立場からの”政治家・政治権力主導”や公共圏の解体と一体での官僚機構改革に回収されてしまいかねないのではないでしょうか?
補遺、「左翼陣営全体が無能を晒した一大原因」―もうひとつの「反省」点
「(5)、最後に。明らかに、この投稿の末尾で検討した批判は丸さんによる拙速な批判です。しかも、この批判が丸さんの投稿では冒頭に来て私の小論への総括的な評価となっています。
私の政局雑感風の小論はこうした批判はするべきではないと言っているわけで、それというのも、左翼陣営全体が無能を晒した一大原因がこの拙速な批判だと反省しているところであって、批判に過度に熱中する”因果な性癖”は直さなければなりません。そうでなければ、同調者が増えるということはありません。」(原 仙作「丸さんの批判への回答」)
私の前回の投稿(丸 楠夫「ひさしぶりに原さんの投稿を読んで」)が「”因果な性癖”」に起因するものであったかどうかは、各人の個人的な主観や感覚に左右される事柄なので、私としては特に述べるべきことは何もない。
この稿における私の目的は、原氏が提示したもの―「拙速な批判」「批判に過度に熱中する」致命的な傾向―とはまた別の「左翼陣営全体が無能を晒した一大原因」、もうひとつの「反省」点について考察することである。
「感想というよりも、私への批判が満載されている」「こうした批判にはビックリ仰天」「得手勝手な解釈」
「このような批判は何ともはや困ったもので、言うべき言葉が見あたらないほどですが、」
「威勢の良いのは丸さんの元気な証拠なのでしょうが、」
「”因果な性癖”」
上に引用した言葉は、全て原仙作氏による投稿「丸さんの批判への回答」中のものである。
いずれの言葉も原氏の論旨を理解するうえでは、直接手がかりになるものではない。おそらく原氏も、自らの論旨を論理的に展開する限りでは、これらの言葉は特に必要とはしなかったのではないかと思われる。また、原氏の投稿の論旨について賛同の立場からにせよ、批判する立場からにせよ、何らかのことを論理的に述べようとするに当たって、これらの言葉に材料とし得る要素はない。それは単に、私が恣意的に抜き出したからそうなる、ということではなく、文脈に沿って読んでも、これらの言葉は”論旨を展開する(あるいは読み取る)上で””論理的には”不必要である(従ってこの稿の目的は原氏の投稿の論旨につて語ることではない。上の引用およびそのような言葉を用いることについて、ひとつのサンプルとして使用するものである)。
ではなぜ、原氏は論理的には不必要なはずの言葉を、あえてこのように用いたのだろうか?
考えられるのは、原氏がこれらの言葉を自らの感情を吐露するために用いたことである。
ではなぜ、原氏は(基本的には論旨を述べるはずの場において)このような感情の吐露を行ったのか?
そのような感情の吐露によって表明される、原氏の”感覚”とはどのようなものなのか?
まず、これらの言葉から人は一般的にどのような印象を受けるであろうか。これら原氏の言葉遣いからは、批判者に対する一種の挑発が感じられはしないだろうか?そしてそこに、原氏の批判ないし批判者への苛立ち、ないしうんざり感とでもいうべき感情が読み取れはしないだろうか?
しかもこのような原氏の言葉遣いは、今回に限ったことではないようである。原氏の他の投稿者に対する返答を見ていくと、まず、自らの見解に賛同する立場からの投稿に対しては、このような意味合いの言葉を用いての返答は見受けられないようである。一方、自らの見解への批判、異論、疑問への返答には、このような言葉遣いが見受けられるようである。とすれば、原氏は自らの賛同者には用いないようなこのような言葉、言葉遣いを、自らへの批判、異論、疑問提出(者)には用いる傾向がある、ということが言えるのではないだろうか?
ではなぜ、自らへの賛同者にではなく、おおむね自らへの批判、異論、疑問提出(者)に対してはこのような、挑発的印象を与えかねない、相手に、自分が苛立ち、うんざり感を抱いていると受け取らせかねない言葉を用いるのだろうか?
このような言葉遣い(の差)が意思的なものなのか無意識的なものなのかはわからない(もしかしたら本人にさえ)。しかしこの差から、原氏の自らへの批判、異論、疑問への心理的な拒絶傾向がうかがえはしないだろうか?
一方で原氏は、これは他の投稿者に対してではなく主に共産党執行部に対してであるが、自らが批判を行うに当たっては手厳しさを示す傾向があるといえる。それは単に理論的に鋭い、ということにとどまらず、言葉遣いにおいて馬鹿呼ばわり等の、論理を離れた表現上での強い言葉の使用が見受けられる。
もとより私は精神分析の専門家でもなければ、原氏と個人的な面識があるものでもない。従ってここまでのはなしは全て、小学生の読書感想文の宿題にもならないような机上の空論に過ぎない。しかし、そもそもこの稿の目的は個人の性格傾向の抽出などではない。
ここまでの考察で示さされた一定の傾向、すなわち自らへの賛同意見(者)と自らへの批判、異論、疑問(提出者)への態度の違い―後者に対する拒絶的態度、その一方での、自らが批判する対象への論理を離れた、言葉遣いの上での攻撃的、侮蔑的表現の使用。
これらはまさしく、「左翼陣営全体が無能を晒した一大原因」のもうひとつ、「同調者が増える」ことがない「”因果な性癖”」のひとつではなっかただろうか。
我々はこのような「”因果な性癖”」を振りかざすものに批判のまなざしを持つとともに、自ら自身の「”因果な性癖”」に対しも、絶えず自省して行かなければならないだろう。そのためにも、批判というものについて今一度確認しておく必要があるだろう。批判には確かに、相手への攻撃という側面がある。だが同時に批判とは、あるべき姿の追求―批判を向ける相手に、自らが思うあるべき姿を提示し、それを相手に求めること、ゆえにそこに示されたあるべき姿は同時に自ら自身にも求められるべきものであること、すなわち、自己探求でもあるはずなのです。
それさえ忘れずにいられれば、他者からの批判をもっぱら攻撃と解し、ゆえに賛同者へ示すのとは異なる態度でもって拒絶的に振舞うことについて、より抑制的でいられるのではないでしょうか。