原仙作、人文学徒両氏からの回答が依然ないため、現状分析と対抗戦略上、官僚機構をどのように位置づけるかについて、菅井良氏の「今検討を開始すべきこと」中の言及
「支配の構造つながりがどうなっているかについて、見解が分かれているようですが、現在の国家の支配の中核になっているのは、官僚機構であることは明らかになっていると思います。
野田総理のTPP参加の決断や原発再稼働の方針が、政治主導による決定とみることができるとは思えません。」
を手がかりに、少し書き留めておこうかと思います。ただしこの一文は非常に簡潔ですので、そこから菅井氏の考えの全体や細部まで断定的に把握することには無理があるかと思います。そのため、ここではあえて菅井氏の本意や意図についてはなるべく立ち入ることなく、単純に、この一文に表面的に沿って、私の考えを書きとめておくための手がかりとして使用させていただこうと思います。
「現在の国家の支配の中核になっているのは、官僚機構である」というのが”(現在の)国家の支配構造の中で官僚機構が重要な地位を占めている”という意味であるならば、
レーニンが言ったような(「国家=官僚制+常備軍」)一般論として。
戦後世界で多くの国家において、形態の違いや程度の差はあれ、行政権・官僚機構 の拡大・肥大化、優位が、見られたこと―西側先進国において(程度の差はあれ)採用 されたケインズ主義・修正資本主義・福祉国家的路線、東側諸国における(社会主義・共産主義の名の下での)一党独裁体制、第三世界を中心として成立したいわゆる開発独裁等―から、かつてのいわゆる”夜警国家”との比較と、そこからの現代国家の特徴づけとして。
「関連情報と省庁運営のノウハウを独占し予算配分権、人事権を事実上掌握する日本の官僚機構はとりわけ始末が悪い。かかる官僚機構とその関連諸団体による国家への膨大な寄生が市民生活を窒息させている」(原仙作 「丸さんの批判への回答」)という諸外国と比較しての日本の特殊性の主張、およびその特殊性に着目した見解として。
(日本の)「現在の国家の支配の中核になっているのは、官僚機構である」、と言うことは、それぞれの観点から妥当性があるといえるでしょう。
しかしもし、「現在の国家の支配の中核になっているのは、官僚機構である」というのが、原仙作氏の「官僚主権国家」規定(原 同)を意味するのであれば、それは疑問と言わざるをえません。官僚機構の問題は、あくまで日本の危機・問題点の構成要因のうちの一つ、多面的な支配構造の一面、一角と捉えるべきであり、したがって官僚機構改革の取り組みは、日本改革ないし革命の過程における(重要ではあるがあくまで)多様な課題の内のひとつとして位置づけるべきと、私は考えます。
それは、人文学徒氏の主張する「悪政全体を語り、解明する」「国民の敵の全体像をちゃんと見ておく」だけにとどまらない、むしろ「実践的観点」「実践的課題を捉えて動く」「具体的 な政治的実践」の考慮(人文学徒 「政治的・実践的に考える」参照)からのものでもあります。
例えば、政治家に対する検察の恣意的な国策捜査を、単に”官僚機構の暴走”としてのみ捉え、そのような”暴走”の根拠を提供している”政治とカネ”を規制する法の不備、あるいはそのような不備ある法を作成・容認し続ける政治(家・政党)のあり方が射程から外れてしまえば、検察・政治家への国策捜査の是正を求める運動上、大きな制約、弱点となるでしょう。また、震災・原発災害からの復旧、復興、生活再建のために必要な措置を国・官僚機構に要求する運動に対し、政府が庶民増税によって(得た財源で)対処しようとしている状況で、そのような運動を対国家、対官僚機構の運動としてのみ(自己)規定しまうことは、当然応分の負担をするべきでありながら、この期に及んでなおも自らへの減税要求を言い募る財界・独占資本、賠償責任を可能な限り回避し、東電と原発の存続・現状維持を図る東電本体、出資・融資者、原発産業、等々、本来第一義的に負担を負うべき者たちの姿を射程から外してしまいかねず、それによって、復興運動と庶民増税反対運動との分断――例えば、復興運動に対しては”そんなにあれこれ要求すると全国の庶民の負担が増大するぞ”といって恫喝し萎縮させ、庶民増税反対運動に対しては”被災地のためです、それとも被災地に我慢させたほうがいいですか?”と懐柔する――の回避を困難にしかねない、制約、弱点となりかねないでしょう。また、政治主導や官僚批判一般への支持の大きさ、訴求力の強さを楯に、上からの強権的・権威主義的な”政治(家・首長・議会内多数派)主導”や公共圏の解体と一体となった新自由主義的な行財政改革(改悪)が決して無視しえない大きな影響力を持っている状況の中で、(スローガン的に一見大差なく見えてしまう)政治主導、官僚機構改革を掲げても、それでは対抗策たり得ない、むしろ容易に前者に回収されてしまうおそれさえあるでしょう(丸楠夫「原さん、人文学徒さんへの回答―原仙作氏の「丸さんの批判への回答」の検討を通して」参照)。また、
「野田総理のTPP参加の決断や原発再稼働の方針が、政治主導による決定とみることができるとは思えません。」
とすれば、それは”誰が”主導したものだったのか?
前後の文脈から、おそらく菅井氏は、その決定を主導したのは官僚機構である、と示唆しているようにも推測できます。
しかしながら――原発再稼動については置くとして――TPPに関する決定を主導したのが農林水産官僚であったとしても、はたしてTPP参加という野田の決断はありえたのでしょうか?
あらかじめ断っておきますが、私はここで農林水産官僚の肩を持ちたいわけではありません。 しかし、あらゆる運動課題に対して、官僚主導(ないし原仙作氏いわく「官僚主権」)を優先的・中心的に認識することにどの程度の積極的な意義があるのか、は問われなければならないでしょう。「野田総理のTPP参加の決断」には、少なくとも農林水産官僚の意向を退けて経済産業官僚、外務官僚の意向に乗っかる、という政治主導(での取捨選択)は最低限あったのは確かであり、また、財界・大企業の強い意向があったことも事実です。だとすれば、そこで官僚機構を採り上げるにしても、画一的な官僚主導論や官僚主権論で語るよりは、省庁間の攻防――TPP交渉は24分野にもおよぶわけですから、今後交渉が進めば進むほど、無関係でいられる省庁(の縄張り・利権)は少なくなっていくでしょう――について検討でもしたほうが、まだしも有意義ではないでしょうか。
つまり、人文学徒氏の言うところの「政治的・実践的に考える」立場に立つのなら、むしろ、(原、人文学徒両氏のように)”今は官僚機構改革・官僚主権打倒を優先・中心にする段階”とあらかじめ自ら運動を規定してしまうことに積極的な意義は見出せません。それどころか、官僚機構の問題以外が後景・後回しに追いやられることで実践運動上の制約要因・弱点にさえなりかねません。もちろん、実際に原・人文学徒両氏が直接に、官僚機構改革・官僚主権打倒以外は後回しにするよう主張しているわけではありません。しかし一連の投稿において、両氏の、官僚機構の問題以外の政治的諸実践に対する考慮・考察の欠如も明らかであり、早くもその運動論上の弊害が現れている、ともいえます(注)。ですから、私は現在の運動の方向付け、規定としては、”日本の新自由主義化・帝国主義化に対する闘い”といった大まかなもので十分であり、民主主義と暮らしの権利・豊かさの実現・発展のための課題の一つとして官僚機構改革を位置づける――ことによって、民主主義と暮らしの権利・豊かさの実現・発展に反する政治(家・首長・議会内多数派)主導や新自由主義的な官僚機構改革(改悪)との差別化を図っていく――が妥当であると考えるのです。
(注)運動の方向性、ということでは原、人文学徒両氏はおおむね一致しているようですが、権力構造の分析では少なからぬ差異も見受けられます。
原氏が、「官僚主権国家」「国内の官僚支配」「日本のブルジョア階級(財閥中心)は・・・戦後はアメリカが主人であり、国内の支配人には戦前来無傷のままの官僚機構を戴いて恥じるところがありません。」「官僚機構が国家権力を握っており、かつての万年与党である自民党ばかりでなく独占資本(財界・大企業)をも自己に従属させている」(原仙作 「丸さんの批判への回答」参照)と、明確に「財界・大企業やら自民党等」「他の支配階級の連中」の官僚に対する従属性を押し出しているのに対し、人文学徒氏は「日本政治を良くするための長期的・戦略的相手としては、財界、政界、官界、マスコミ界、そしてアメリカの産軍複合体など政財界や、IMF/世銀 体制などなどが存在することは自明でしょう。」とあくまで並列的に語るにとどめ、また「官僚・マスコミ連合軍」「官僚体制(と、これに結託した大マスコミ)」とあるように、官僚(体制)がその他の支配階級の構成部分(この場合マスコミ)までを明確に支配・従属させているとする表現は用いようとしません(人文学徒 「政治的・実践的に考える」参照)。
おそらく人文学徒氏も、原氏の言うような「官僚主権国家」規定までは到底養護・支持し得ないと見なしているのではないか、とも思われます(「国民の敵の全体像をちゃんと見ておくということと、当面この国ではどこからどう手をつけるべきかという議論は、別のことだと思います。」(人文学徒 同))。
さらに、原氏の(震災・原発事故によって象徴的にあらわされた、とする)現代日本の危機・問題についての認識が、あくまで戦前からの官僚支配の連続性、普遍性および非常に一国的な観点にとどまるのに対し(原仙作 「野田政権誕生始末」参照)、人文学徒氏は「グローバリズムの結末であるこの政治体制改変の日本における隙間の時期に当たって、・・・」と、より広い観点を提起しています(もっともこの場合、原氏は”震災・原発事故によって象徴的にあらわされた”問題、という限定の下で語っているので、おのずと言及する範囲も限定されただけ、とも言えますが)。