「」で表記されているのは原則として、現状分析と対抗戦略欄2011/12/16付け 人文学徒「政治的・実践的に考える その2」からの引用です。
はじめに、
人文学徒さんの「政治的・実践的に考える その2」、拝見しました。しかしながら、人文学徒さんが、私の投稿のどの文章・語句をどのような理由・観点から、「やはり今までの左翼と同様のことを繰り返すだけに終わるだろうと考え」たのか、「より広い誰とも手を組めず、政治的に何かを実現してみせるということもなく、「敵はこれらだ。このように悪い」とただ演説、告発、少数者による散発的デモなどを繰り返しているだけ」といったことにしかつながらないと判断したのか、「またまた「政治家=口舌の輩」という広い常識に飲み込まれ、十把一絡げにされる運命しかないと考え」たのか、「左翼小児病と言」えるのか、「やがて一挙にこの悪に対して人々が立ち上がる時が来ると信じているや」に読み取れたのか、「窮乏革命論という客観主義哲学と観るほかはないことになると考え」たのか、について徹頭徹尾、終始一貫、何一つたりとも具体的に提示・説明されていませんでした。
私の投稿のどの文章、どの語句が、具体的にどのような理由・観点から
「やはり今までの左翼と同様のことを繰り返すだけに終わるだろうと考えます。より広い誰とも手を組めず、政治的に何かを実現してみせるということもなく、「敵はこれらだ。このように悪い」とただ演説、告発、少数者による散発的デモなどを繰り返しているだけに。これではまたまた「政治家=口舌の輩」という広い常識に飲み込まれ、十把一絡げにされる運命しかないと考えます。こういうのを左翼小児病と言い、やがて一挙にこの悪に対して人々が立ち上がる時が来ると信じているやの点では、窮乏革命論という客観主義哲学と観るほかはないことになると考えます。」
と結論付けられるのか、その説明や論証の過程が具体的には一切明示されていない以上、反論・反証のしようも、同意のしようもありません。
今後私の投稿に、疑問、異論、批判、反論ある際には、具体的に、私の投稿のどの文章、どの語句が、具体的にどのような理由・観点から、どのような点でどのように問題なのかを、具体的に明示していただきたいと思います。
以上の理由から、人文学徒さんの投稿の結論的部分に対しては、本来私が回答できる余地はほとんど無いわけですが、「政治的・実践的」視点から、いくばくかでも述べてみようと思います(なお、今後は原則として、具体性に欠けるご指摘、ご意見にはお返事しかねます)。
1、
まず、
「丸さんのように官僚機構(もちろん、現在の日本のそれです)をば単に『日本の危機・問題点の構成要因のうちの一つ、多面的な支配構造の一面、一角』とのみ捉えるか、それ以上のものと捉えるべきかということ」
について。
「自民党が下野しても、その共犯者・官僚機構は民主党主流派を取り込んで、消費税策動、普天間などに見るように己の手下のように扱っている現実さえあります。財界との関係でも、マスコミを握っているせいか、長期的にはいざ知らず今はずいぶん支配的に振る舞っています。従来からの護送船団方式、経産省・東電の関係、税務調査と企業の関係などを見ると、世界経済が混乱を極めていることも関わってか、日本官僚機構の強権には一種独特のものが浮き彫りになっていると言えるはずです。
さらに、官僚としては違法と言える越権行為の数々をあげることも出来ます。普天間問題では、内閣に抵抗してアメリカにスパイもどきの行為に及んでいました。原発事故処理でも内閣、閣僚の前進的発言を平気で批判していました。民主党マニュフェストさえ骨抜きにするという力をも示しました。
こうして、法制上は政の方が上ではあるが、これは今や形式と化し、官僚が内閣を作っているとさえ言える情勢です。
こうして現官僚機構は、民主党の中にも多くの批判者を抱え、その外交や原発を巡っては財界にも重大な批判が存在しています。こういう情勢がまた、国民が今どこからどう手を付けるべきかを教えてくれているのではないでしょうか。資本主義そのものに手を付けることなどは今は世界的な事業であり、遠い先の話だと考えます。敢えて言えばこういうことでしょう。敵の酷すぎる前衛部隊さえ退けられないで、どうしていつか本陣に迫ることが出来るでしょうか。」
この問題については、「官僚機構」と「民主党主流派」、「官僚機構」と「マスコミ」、「官僚機構」と「財界」、「官僚機構」と「内閣」、等々との間に、「官僚機構」を主、その他それぞれを従とする、絶対的、とまでは言わないまでも、それに近いような、一方的な(「官僚機構」と「財界」に関しては、「長期的にはいざ知らず今はずいぶん支配的に振る舞っています。」と、人文学徒さんも一定の留保を付してはいるようですが)従属関係があるのか?より政治的・実践的観点で言えば、「敵の酷すぎる前衛部隊」たる「官僚機構」を一点突破することで「いつか本陣に迫ることが出来る」ような展開ができるのか?そもそも「官僚機構」のみを一点突破することが可能・現実的なのか?という形に問い直すことが出来るかと思います。
さて、例えば、あまりにも多くの在日米軍基地負担が沖縄県民に集中的に負わされている実態について、それを”沖縄県民は日米の安保政策に従属させられている”、と言うことは出来るかと思います。では、「民主党主流派」や「マスコミ」や「財界」や「内閣」の、一見従属的に見えるあり方が、果たして沖縄県民が置かれているようなあり方同等、果たして従属だといえるのでしょうか?
「民主党主流派」、「マスコミ」、「財界」、「内閣」は、それぞれが、――多くの一般沖縄県民とは違う――相応の大きな権力ないし強い政治的力量を有していると見なしてよいのではないでしょうか。そのような「民主党主流派」「マスコミ」「財界」「内閣」が、あえて一見従属的に見えるあり方に甘んじているとすれば、それは、それらが、そのことによって「官僚機構」との間に自らの利害を共有しているからだ、と見なしても、大きな誤りは無いと言えるのではないでしょうか。だとすれば、「民主党主流派」「マスコミ」「財界」「内閣」等々との利害共有の(おそらく相当強固な)網の中から、まずは「官僚機構」だけを抜き出そうとしても(「官僚機構」の問題を是正する上でも)効果は限定的なものとならざるを得ないでしょう。
もちろん、(相対的に)より限定的な効果しか望めないから、などという理由だけで、「より広い誰とも手を組」んで、「政治的に何かを実現してみせる」、「支配機構のその都度の「先頭」が引き起こし、国民の意識に上った大事件などを事実うまく押し込めて見せ、その都度国民への最悪の害をなんらか取り除いてみせ、併せてもっと変えられるという確信と今後に向けてのそのやり方とを育てあっていく」ことの意義、重要性は絶対に軽んじてはいけないでしょう。しかしここで今、現に、政治的・実践的に考え・行動するに当たって前提としなければならないのは、政治主導や官僚批判一般への支持の大きさ、訴求力の強さを楯に、上からの強権的・権威主義的な”政治(家・首長・議会内多数派)主導”や公共圏の解体と一体となった新自由主義的な行財政改革(改悪)が、決して無視しえない大きな影響力を持っている、今日の日本の政治状況でしょう。現状の政治主導や官僚批判一般への支持の大きさ、訴求力の強さに頼るばかりで、「官僚機構」の問題という限定的な課題に取り組むためにすら、部分的にせよ「民主党主流派」「マスコミ」「財界」「内閣」等々との間の利害共有を射程に入れていく必要がある、という認識と覚悟を抜きにして、「支配機構のその都度の「先頭」」――「官僚機構」――「が引き起こし、国民の意識に上った大事件などを事実うまく押し込めて見せ、その都度国民への最悪の害をなんらか取り除いてみせ」ようとしても、むしろ容易に上からの強権的・権威主義的な”政治(家・首長・議会内多数派)主導”や新自由主義的な行財政改革(改悪)に回収されてしまうおそれさえあるでしょう。
ですから、人文学徒さんがこの問題について本当に、「政治的・実践的に考える」気があるのであれば、政治主導や官僚批判一般への支持の大きさ、訴求力の強さを楯にした、上からの強権的・権威主義的な”政治(家・首長・議会内多数派)主導”や公共圏の解体と一体となった新自由主義的な行財政改革(改悪)にいかに対抗していくか?その上で、「官僚機構」と「民主党主流派」「マスコミ」「財界」「内閣」等々の間の利害共有体制に対して、「支配機構のその都度の「先頭」」――「官僚機構」――「が引き起こし、国民の意識に上った大事件などを事実うまく押し込めて見せ、その都度国民への最悪の害をなんらか取り除いてみせ」る「政治的・実践的」考え方・方策を、まずはぜひとも示していただきたい(「うまく押し込めて見せ」云々などという抽象的な言い回しの一体どこに、「政治的・実践的」要素があるというのでしょうか?)。それをしていない、できてない以上、「支配機構のその都度の「先頭」が引き起こし、国民の意識に上った大事件などを事実うまく押し込めて見せ、その都度国民への最悪の害をなんらか取り除いてみせ、併せてもっと変えられるという確信と今後に向けてのそのやり方とを育てあっていく」という、それ自体は非の打ち所の無い人文学徒さんのお言葉も、所詮は「客観主義哲学」、「「敵はこれら(官僚機構)だ。このように悪い」とただ演説、告発」を「繰り広げること」、の域をいささかも出るものではない、ということになるでしょう。
また、
「こうして現官僚機構は、民主党の中にも多くの批判者を抱え、その外交や原発を巡っては財界にも重大な批判が存在しています。こういう情勢がまた、国民が今どこからどう手を付けるべきかを教えてくれているのではないでしょうか。資本主義そのものに手を付けることなどは今は世界的な事業であり、遠い先の話だと考えます。敢えて言えばこういうことでしょう。敵の酷すぎる前衛部隊さえ退けられないで、どうしていつか本陣に迫ることが出来るでしょうか。」
とありますが、このような「資本主義そのものに手を付けること」とその他の課題とが、きれいに分離できるかのごとき発想自体が、すでに「左翼小児病」的発想ではないでしょうか。「支配機構のその都度の「先頭」が引き起こし、国民の意識に上った大事件などを事実うまく押し込めて見せ、その都度国民への最悪の害をなんらか取り除いてみせ、併せてもっと変えられるという確信と今後に向けてのそのやり方とを育てあっていく」ことが、「資本主義そのものに手を付けること」へ繋がっていく一連の道のりたり得る、そういう展望を切り開いていく方向こそ、「左翼小児病」の克服に必要なことではないでしょうか。
2、
「そして政治とは、そのつまるところは「敵(の構造)を明らかにし、告発の演説を繰り広げること」ではないでしょう。支配機構のその都度の「先頭」が引き起こし、国民の意識に上った大事件などを事実うまく押し込めて見せ、その都度国民への最悪の害をなんらか取り除いてみせ、併せてもっと変えられるという確信と今後に向けてのそのやり方とを育てあっていくものではないでしょうか。この後者の方には、正しく「敵(の構造)を明らかにすること」が関わってきましょう。がそれにしても、正しくこれを捉えているか否かは、当面の先頭に立っている最悪の敵に対して広く味方を組織して事実なんらか押し込めてみせられなければ何の説得力もありません。政治的実践とは、そういうことのはずです。ここが分からなかったのが、従来左翼の左翼小児病、客観主義哲学であったと、僕は言いたいわけです。変革の意識は、改善、変革の実践と共にしか進まないはずです。」
私は、まず、政治主導や官僚批判一般への支持の大きさ、訴求力の強さを楯に、上からの強権的・権威主義的な”政治(家・首長・議会内多数派)主導”や公共圏の解体と一体となった新自由主義的な行財政改革(改悪)が、決して無視しえない大きな影響力を持っている、今日の日本の政治状況を踏まえれば、ただ単純に、スローガン的に政治主導、官僚機構改革を掲げるだけでは、対抗策たり得ない、むしろ容易に上からの強権的・権威主義的な”政治(家・首長・議会内多数派)主導”や新自由主義的な行財政改革(改悪)に回収されてしまうおそれさえある、という、全般的な政治的・実践的認識を持っています(この点に関してはさざ波通信第5号 新ガイドライン法の成立と従属帝国主義(下)なども参照してください)。
また、具体的な個別の課題で言えば、例えば政治家に対する検察の恣意的な国策捜査、という課題への対応ということであれば、そもそも現行の”政治とカネ”を規制する法が曖昧なものであり、そのためそれを実際に運用する捜査当局に大きな解釈の余地を与えてしまっていることが、検察の政治家に対する恣意的な国策捜査の余地となっていることが、重大な問題な訳ですから、政治家に対する検察の恣意的な国策捜査の是正を実現するためには、検察自体や国策捜査について指弾することとともに、解釈の余地のない明確かつ厳格な”政治とカネ”を規制する法を整備することが必要であり、――イギリスにおいては、議会制民主主義、選挙の洗礼を受けた政治家とその政党が政策を決定する上での前提として、”政治とカネ”についての厳格な法的規制がある、ということも踏まえつつ――我々が検察・国策捜査を指弾していくに当たっては、それに続けて<検察の胸三寸を許さない、イギリス並に厳格な”政治とカネ”の法規制を>というスローガンを対置していかなければならないし、また、そうしてこそより広範な国民・市民への訴求力と支持を得ること――「広く味方を組織」する――が可能となると考えます。
あるいは、震災・原発災害からの復旧、復興、生活再建のために必要な措置を国・官僚機構に要求する運動に対し、政府が庶民増税によって(得た財源で)対処しようとしている状況で、復興運動と庶民増税反対運動との分断――例えば、復興運動に対しては”そんなにあれこれ要求すると全国の庶民の負担が増大するぞ”といって恫喝し萎縮させ、庶民増税反対運動に対しては”被災地のためです、それとも被災地に我慢させたほうがいいですか?”と懐柔する――を回避し、両者を切り結んでいく――「国民の意識に上った大事件などを事実うまく押し込めて見せ、その都度国民への最悪の害をなんらか取り除いてみせ、併せてもっと変えられるという確信と今後に向けてのそのやり方とを育てあっていく」「当面の先頭に立っている最悪の敵に対して広く味方を組織して事実なんらか押し込めてみせ」る――ためには、当然応分の負担をするべきでありながら、この期に及んでなおも自らへの減税要求を言い募る財界・独占資本、賠償責任を可能な限り回避し、東電と原発の存続・現状維持を図る東電本体、出資・融資者、原発産業、等々、本来第一義的に負担を負うべき者たちに本来の責任を果たさせる視点、運動が必要だと考えます。
以上のことは、これまでの投稿でも繰り返し言ってきたことのはずですが、このような私なりの政治的・実践的観点からの認識・考え方に、「支配機構のその都度の「先頭」が引き起こし、国民の意識に上った大事件などを事実うまく押し込めて見せ、その都度国民への最悪の害をなんらか取り除いてみせ、併せてもっと変えられるという確信と今後に向けてのそのやり方とを育てあっていく」、「当面の先頭に立っている最悪の敵に対して広く味方を組織して事実なんらか押し込めてみせ」る上で、何か重大な問題、弊害、誤りがあるでしょうか。あるとすればそれは具体的にどのような点に、どのような点で、どのような重大な問題、弊害、誤りがあるのでしょうか。そして問題、弊害、誤りがあるとすれば、人文学徒さんは、私の政治的・実践的観点からの認識・考え方に替えて、具体的にどのような政治的・実践的認識・考え方がより適切であると考えるのか、それらをぜひとも具体的かつ明確に――すなわち「政治的・実践的」に――示していただきたい。
「支配機構のその都度の「先頭」が引き起こし、国民の意識に上った大事件などを事実うまく押し込めて見せ、その都度国民への最悪の害をなんらか取り除いてみせ、併せてもっと変えられるという確信と今後に向けてのそのやり方とを育てあっていく」、「当面の先頭に立っている最悪の敵に対して広く味方を組織して事実なんらか押し込めてみせ」る、これらのことに異論を挟む余地は無いでしょう。しかしそれだけでは、言うだけだったら誰でも出来る、一般論、抽象論の域をいささかたりとも出るものではありません。「政治的・実践的に考える」、と銘打っておきながら、今回の人文学徒さんの投稿において、事実認識、事実分析に関わる記述を除き、政治的・実践的要素が一体どこにあったというのでしょうか?
以上の点から、「政治的・実践的に考える」、と言っておきながら、その考え方を最も裏切っているのは、ほかならぬ人文学徒さん自身ではないでしょうか。「従来左翼の左翼小児病、客観主義哲学」について表面的には否定的に語りながら、その実、一般論としての正しさ、抽象論としての正しさの域から一向に出ようとしないのは、ほかならぬ人文学徒さん自身ではないでしょうか。