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「現状分析と対抗戦略」討論欄

Kさんへの手紙~原発事故を語ることばの重み

2011/1/22 櫻井 智志

 今回の福島原発は、チェルノブイリやヒロシマ、ナガサキをはるかに上回る放射能事故です。それによる現実の被害は想像を絶するものがあります。

 私たちは、「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ」と学んできました。別に学校でという意味ではなく、文化や学問を通して、そのように学んできました。

 そこから、原民喜、峠三吉、大江健三郎、林京子などの原爆文学や丸木夫妻の『原爆の図』のような絵画、芝田進午氏が研究して提起した「反核文化」が戦後民主主義を支えてもきました。

 しかし、今回、福島原発事故に対して、知識人、学者、文化人など「いま」を的確に表現しえていません。それだけ想像力さえも枯渇させてしまうような事態なのです。

ここにひとつの手がかりがあります。
ひとつは、辺見庸さんです。彼はいまガンと闘病中と想いますが、たまたま買ってきた「週刊金曜日」1月13日号に自らが出版した詩集『眼の海』をめぐる思索と想念、という副題で「むき出しにされたこの国の真景」というインタビューが掲載されています。
小見出しだけ引用します。
・『眼の海』を受け容れてくれた読者はわたしの共犯者
・この社会は頼まれもしないのに、おのずとファッショ化していく。
・数値とリアリティの間にある真空地帯、そこを言葉で埋める作業を拒否し、放棄している
・ファシズムは何年も時間をかけ、いろんな小さな言葉の積み重ね、連なりで立ち上がってくる
・オウム事件を突き詰めてゆくと、そこにわれわれ自身の似姿を見る。
・ファシズムのいまに、わたしという個が、よるべない他の個にとどける「ひとすじの声」。
*『眼の海』書き下ろし詩編「フィズィマリウラ」併録。1780円毎日新聞社。

 ここに、数値やデータと私たちの『言葉』とのあいだを埋め尽くす無力化され沈滞化された言語空間にわが身を浸して、そこからたちあがってくるものをすきいとるようにして「自らの言葉」として、詩をかきとめた辺見庸さんの鋭い時代感覚、状況感覚が研ぎ澄まされているように、私には思えるのです。

 とくに重要と私が考えたのは、「ファシズムは何年も時間をかけ、いろんな小さな言葉の積み重ね、連なりで立ち上がってくる」という一節です。私たちは、たとえば東京知事石原慎太郎氏や大阪市長橋下徹氏の政治的手法や言語から、その親ファシズム性をとらえて、批判します。けれども、おそらく現在の日本の政治状況は、もう数十年もかけて堆積されてきたものの結果でしょう。私はその画期を1980年前後にあると憶測します。いずれにしても、辺見庸さんの鋭い感覚には、私たちに欠けたものが秘められています。

 そうして、そこにこそすべての民衆が自らの課題として、「フクシマは何だったのか?」という思考営為を持続することが求められています。福島原発事故にまもなく現地を訪れた徐京植さんについて、私の書いた小文を添えて補足とします。

    福島原発被災を語るにふさわしい言葉とは

櫻井 智志
 徐京植さんが、八月十四日に放送されたNHKのテレビ番組『こころの時代:私にとっての「3・11」』に出演された。徐京植さんの2人の兄、徐勝さんと徐俊植さんは、朴軍事政権時代に留学中のソウルで北朝鮮のスパイとして逮捕された。京植さんは、お母さんを亡くす不幸を乗り越えて兄たちの救出活動に取り組まれた。兄弟は釈放された。旺盛な著作活動を続けられ、現在は東京経済大学教授である。番組は啓示的だった。

 徐さんは、「根こぎ」という言葉を使った。それは、一個の根を下ろしている植物を徹底的に抜いてしまい、生命、生存の基盤そのものを破壊することをさしている。人間が人間に対して、人間を根こぎにするということがある。戦争や植民地支配やその他で、世界中で多くの人々が根を抜かれてさまよっている。その人々が経験している痛みを、数量化したり物量化したりして語られている。それだけで語れるようなものではない事柄が、放射能であり、核である。福島原発事故下で私たちが考察すべき問題だと、徐さんは訴える。

 放射能に汚染された地域の人たちが農業と漁業と林業を失い、それによって営々と築いてきた自分たちの風土から根扱ぎにされ、これから何十年も百年以上も政府や企業のまかないで生きていく残酷。カネで買われて廃棄処分にされるために農産物を作り魚を捕るなら、それはもう農業、漁業とはいえない。産業ではない。「食べてもらいたい」と思って畑を耕し漁をし、「飲んでもらいたい」と思って牛乳を搾るからこそ産業なのである。その産業を生み出し維持するからこそ風土なのだ。子から孫へと命をつなぎ、産業をつなぎ、文化をつなぎ、そこに住む人間としての誇りをつないで、初めて一つの人間社会といえる。福島という人間の社会をつぶしてはならない、そして、福島と日本中の子どもたちに健康破壊を負わせてはならない、と。

 徐さんは、アフリカの大量の難民を見るたびに、彼らはまさに「根こぎ」にされた人々なのだと思う。相馬市の酪農家が「原発さえなければ」という「遺書」を残して自殺した。棄てるために乳を搾らなければならない、その酪農家にとって奴隷労働以上につらいことだったのだろう。彼は残酷に「根こぎ」されて死に追いやられ、最も惨忍に「殺された」。

 被爆者の問題というのは「差別の問題」であり、その差別に、私たちは向かい合っていかなければならない、向かい合える子どもに育てなければならない。そういう意味で、コミュニティーをしっかり作ること。疎開先でも。ちょうど外国に行って日本人コミュニティーを日本人が作るように、そのような疎開の仕方が必要だということを、徐さんは訴える。 さらに、自分たちを「根こぎ」にするものは、放射能だけではなく、日本という非情な国家だけでもなく、常に差別を内包する日本人社会そのものだ、ということを。

 「根こぎ」を自らと重ね合わせながら生きてこられた徐さんの言葉には、重量感がある。日本人は、目に見えぬもう一つの現実を見通す想像力を研ぎ澄ませていかねばならない。
               (了)