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「現状分析と対抗戦略」討論欄

福島原発事故の根本問題

2012/3/24 櫻井 智志

 3月9日付けでさつき氏が、『櫻井智志さんの「原発除染のイカサマと根底の政治的課題」への異論』と題する論考を提示なさっておられる。
 逐一さつき氏に反論するというよりは、氏によって喚起された私の問題意識をさらに発展させたいと考え、以下に掲げる。
 さつき氏は、二つの問題を提起されておられる。

「 1)何もしなくても汚染量が相当減るものなら、除染の目標をもっと上げろと主張すべきなのではないでしょうか?
2)「除染利権」とは具体的にどのようなことでしょうか? 除染事業で儲かるところがあるのは、けしからんということでしょうか? ボランティアだけでで きる訳でもないでしょうに。」

 この問いの前提があると思う。私は、除染か避難かという選択に尽きない問題を意識している。放射能には、短い期間に数値を半減するような放射線もある。その点では、除染自体は無意味とは考えていない。問題なのは、乳児から思春期までの子どもたちである。成長期にある子どもたちは、内部被曝という重要な危険にさらされている。大人ならそれほどは騒がないようなことでも、成長期の子どもたちは食事自体からでも放射能を吸収していく。甲状腺に大きな障害が及び、甲状腺がんなど十年後、二十年後に危機が訪れることは、医学専門家でなくとも、広く市民に知られた事実であろう。
 実際に子どもたちの生命の危機を憂う親たちは、郷土を去ることによる生活不安や共同体からの離脱という大変な苦しみを抱えつつ、遠隔地に避難している。中には、避難そのものを禁止する事態に出会い、裁判所に訴えて敗訴判決を受けた住民さえいる。
 除染か避難かという単純な二元論の選択問題なのではない。放射能被曝は、除染ではどうしようもないような内部被曝という視点と、成長期にある子どもたちの内部被曝といかに対決するかという難問を抱えている。

 さつき氏がおっしゃる【除染の戦略は、ある地域の、ベクレルで表現される平均的な汚染濃度を一定割合下げるというふうに考えるべきではなく、日常生活でおこる被曝線量を一定割合 下げるという目標に照らして構築されるべきものです。私は、現在の汚染状況は、初期の比較的均質なフォールアウトの状況から、偏在化(遍在化ではない)へ向かい、あちこちに高濃度のマイクロスポットが形成されているのが特徴で、居住地におけるそうした高リスク要因を取り除くだけで、 住民の被曝線量を相当程度下げることができると考えています。】というご指摘には、私も賛成である。

 最後に、
【国際政治の大状況など書かれていますが、現下の除染の是非となんら関係のないことです。「ヒロシマ・ナガサキにつぐ第三の核被爆」というのも、失礼ながら、大変な認識不足だと思います。】というご指摘には直接的にお答えしたい。

 広島と長崎に核兵器が投下された。被爆者が世界史上出現するという未曾有の事態が発生した。哲学者・社会科学者の芝田進午氏は、世界史における新たな危機的な時代の到来について先駆的に「ヒロシマ紀元」を提唱し、続けて発展させて「核時代」という概念に発展させた。やがて、第五福竜丸は、太平洋で漁業中に、アメリカの核実験に遭遇して、被曝した。「被爆者」から「被曝者」へと、新たな危機に遭遇する犠牲者が生まれた。この事件は、核兵器関連事業に従事する労働者や住民の「被曝者」をも認識させた。
 しかし、ソ連・チェルノブイリ発電所事故やアメリカ・スリーマイル島原発事故は、世界中に放射能を拡散させ、芝田氏の学説にならえば、世界中が「ヒバクシャ」として、すでに放射能に汚染されたか、いま汚染されているか、さらにはこれから汚染されるであろうという事態の到来によって、人類全体が「ヒバクシャ」として措定されざるを得ないような重大な世界史的危機に至った。

 私が、第三の核被爆と書いたのは、以上のような「被爆者」「被曝者」「ヒバクシャ」という上に述べた新たな危機を構想して述べたわけである。舌足らずで不親切であったと思うが、以上の補説によって、さつき氏においては、納得いただけると期待して筆を擱く。
 なお、さつき氏がご批判された小生の文章では、「原発除染のイカサマと根底の政治的課題」と題した後半の重要な問題提起があったわけであるが、ぜひそちらの部分へのご教示をいただけたら、幸いである。