6月21日の東京新聞は一面トップで『「原子力の憲法」こっそり変更』と伝えた。記事を読み、私はあきれ、そして次に怒りを覚えた。
原子力規制委員会設置法の付則で、「原子力の憲法」とも言われる原子力基本法の基本方針が変更された。原子力の研究や利用を「平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に」とした基本法二条に一項を追加した。それがあまりに唐突な内容である。原子力利用の「安全確保」は、「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として行う」とした。
東京新聞解説は、二つの問題点を指摘している。
一つは手続きの問題である。
「平和主義」や「公開・民主・自主」の三原則を定めた基本法二条は、原子力開発の指針となる重要な事項である。もし正面から改めるなら、2006年に教育基本法を改定した時のように、国民の間で巻き起こる議論を通して、十二分な国民的合意は不可欠である。
法案は、なんと衆院通過後の6月18日の時点でも国会のホームページに掲載されなかった。国民のチェックのしようがありえない。
もうひとつは、「安全確保は安全保障に資することを目的とする」という趣旨の文言を挿入したことである。防衛利用への参加を可能とした今回の措置は、政府が核や宇宙の軍事利用を進めようとしているのではあるまいか、という疑いをもたれるような性質の重大な問題なのだ。
野田総理は、民主党のマニフェストをかなぐり捨て、大幅な消費税増税を提案している。「私の政治責任をかけて」など野田氏の文言はいわゆる美文調で雄弁を弄す。けれど、その内容は論理にかけてその場の行き当たりばったりである。しかも、現在の野田政権は、政権交代時と真逆の政策を弄している。
まさに民主党は、自民党に丸めこまれた。しかも、鳩山・菅二代の総理とは異なり、新自由主義派の野田総理となってまさに、民主自民の党派を超えた。新自由主義政策一党として、党は異なっても政治思想は全くの同一思想である。いまの民主党トップ野田総裁・前原政調会長・岡田副総理らはまさに、戦後に日本各地にあちこち原子力発電所を作り続けて、その背後の巨大電力会社や外国との交渉で、厖大な利潤を懐にした連中と仲立ちをした中曽根康弘氏など金権政治家や核武装を画策する政治家や資本家などの操り人形と化した。
この重要な問題に対して、大飯原発再稼働を決定した時に、国会の周囲に一万人一千人の民衆が取り囲んで抗議のデモ行動を行った。しかし、その日にテレビはすべての局が無視して、逮捕されたオウム関連の指名手配容疑者のことで延々と足どりや監視カメラの画像や指名手配の似顔絵との違いなどを微に入り細に入り垂れ流し続けた。
民主党内部では、むしろ少数派の野田首相グルーブを援護している最大の勢力は、大手マスコミである。朝日・毎日・読売の三大紙をはじめ、多くの新聞とテレビ・ラジオなどが「第四権力」として、政府与党の援護を行ったのは、戦時中はもちろん、戦後の読売争議などの新聞労組の健闘で一時期の盛り上がりの後に、1960年安保時の大手新聞社の協定発表が画期だった。安保闘争に立ち上がった学生や民衆などに対して、日本をアメリカの従属国とする日米安保条約の内容には目をつむり、「民主主義か独裁か」と問題をすり替えた上で、「左右の独裁を排す」として、国民的運動の高揚を抑制する側にまわった。
いま、大飯原発稼働が政府決定された後も、6月22日夜に首相官邸は一万五千人の民衆によって包囲され、抗議行動が整然と続けられた。福島原発事故以来、国民的な抗議運動は、インターネットによるブログ、メーリングリスト、ツイッターなどの情報を入手したひとりひとりの市民・民衆の行動が特徴である。それは、共産党や社民党などの政党指示や労働組合の動員だけで盛り上がったわけではない。もちろん、明治公園、代々木公園などに六万人、二万二千人と集まった厖大な民衆の中には多くの労組組合員や共産党や社民党の誠実な党員たちも参加していた。
石堂清倫氏は、『わが異端の昭和史』下巻で、戦後の資本主義、社会主義について体験を通して考察しているなかで、グラムシが「機動戦から陣地戦」への転換を呼びかけたことを重視しつつ、現代がグラムシが陣地戦を呼びかけた段階の資本主義、社会主義の水準をはるかに超えていることも指摘している。その指摘とも関連するが、加藤哲郎氏は新たに「情報戦」の意義を分析して、その歴史的・具体的内容をここ数年研究している。
フランスの大統領を社会党員が政権奪回して、フランス国会も左翼、社会党側が過半数を占めている。ヨーロッパの左翼復権の背景には、レーニンらがコミンテルンを結成したのと並列して、第二インターが社会民主主義として改良的な実践を積み重ねたことがあげられる。しかも、石堂氏は自らも気がつかなかったけれど、資本主義、社会主義の両方にとって、1968年は世界史の画期点として位置づけられると2000年頃の著作で述べている。いまここでその詳細は述べないが、ソ連の解体や東欧の共産党の崩壊などは、生産力、上部構造の発達や矛盾など大規模な国際社会が新たな政治社会の創出を求めていたにもかかわらず、それに見合う社会運動が構築されていなかった。受動的革命としてレーガン、サッチャー、中曽根康弘らの反動化の台頭がある。アメリカの資本主義も、冷戦崩壊で勝利したかに見えるが、多くの国内問題と対外政策の破綻とを抱えている。
歴史的な原発事故が発生したのにもかかわらず、野田政権はなんら有効な手をうつこともせず、「安全」宣言を行い収束したと発言しつつ、福島の民衆を棄民化するような政策をうちだしはじめた。しかも、今回の原発を核兵器開発に転用できるような下地をこそこそとつくりあげてしまった。
野田首相一派をおしとどめる政治家は、政権交代のマニフェスト政策づくりなどをリードしてきた小沢一郎を無視できない。小沢一郎は、中曽根康弘、小泉純一郎などをのぞく歴代自民党政権のように開発主義の政策にたつ。わかりやすく言えば、いわば「保守反動」政治家である。けれど、小泉純一郎以来の新自由主義政策に批判的である。政権交代前後から、「小沢一郎の具体的な変動」を見逃してしまうと、共産党が今も金権政治家として批判しているような小沢一郎観になる。私は小沢一郎氏を必ずしも楽観視してはいない。
けれど、「政権交代前後から事実として小沢一郎がどう行動してきたか」を直視し、今も政権交代時のマニフェストを重視している小沢一郎とそのグループの動きに注目したい。
民主党は6月26日火曜日の消費増税案採決にむけて、水面下で激しい綱引きを泥まみれになって行っている。今後、小沢一郎がどのような政治活動を行うことができるかはわからない。それでも、原子力を軍事利用へ導く姑息な手法を用いる野田総理一派に対して国会外で抗議の声を上げ続けている民衆は国民的規模で立ち上がっている。小沢一郎の政治生命も、国会外の国民の声と連携しうる限りは、反新自由主義闘争が全国各地で連携することで支えられている。重ねて言えば、小沢氏が先にあるのでなく、国民的闘争が先に位置するのである。