田村さんの関心である「この国の権力(腐敗)構造」という問題ですが、これについては正直に白状すれば、私も40年来、政治に関わっていながら、曖昧模糊とした観念を払拭できないできました。いわばどんぶり勘定というやつです。その理由は色々あるのですが長くなるので省略することにして、私が抱えてきたモヤモヤを吹っ飛ばしてくれたのが、鳩山政権による普天間基地移転問題でした。
鳩山の「最低でも県外」という主張を妨害したのが鳩山の任用した防衛大臣と外務大臣、そして両省の官僚であったことは周知のことですが、ポイントは官僚が政府の意向を妨害する秘密電報を米政府に送っていたことです。この事実を知って、これまで知り得ていた日米関係の諸事実を私の頭の中でいっぺんに整理することができるようになりました。
「ルーピー」とか「宇宙人」、はたまた敵の回し者とか揶揄されていますが、鳩山には感謝しなければなりません。沖縄の人たちも、その結果がどうであったかを越えて、「最低でも県外」という発言で総理大臣の椅子を棒に振った鳩山には概して好意的なようです。
(1)、現在の日本共産党に代表される理解では、日本資本主義の支配の中心は経済を支配する独占資本であり、万年与党であった自民党と官僚機構はその手足、アメリカによる支配も主に日本独占資本を通して行われている、というものでしょう。アメリカ帝国主義と日本独占資本という二つの支配があり、日本は「事実上の従属国」となっているというわけです。
新綱領(2004年)では日本独占資本を「大企業・財界」というように言い換え、非常にまずい誤った再規定(日本の官僚機構が排除されている)を行いましたが、ここでは不問にしておきましょう。しかし、鳩山政権の挫折が示したことは、こうした理解を覆すものだと私は考えています。
私の理解を人体になぞらえて言えば次のようになります。頭脳はアメリカであり、日本社会の神経中枢がはしる背骨が官僚機構、その腕が万年与党の自民党や野田政権で、独占資本はその足にすぎません。アメリカの支配は主にその背骨である日本の官僚機構を通じて貫徹されるのだということです。
日本の官僚機構のこの特質(アメリカの現地支配人でありながら国内的には官僚主権として現れる)は敗戦によって無傷で占領軍支配の手足となって以来、一貫したもので、絶対権力(GHQ)に近いものほど権力を持つのは容易に理解されるところです。
しかも、日本の戦前を振り返れば、この官僚機構は天皇制国家機構の柱石、「朕が股肱」として天皇の絶対的権力を行使した存在であり、かつまた、政治家のように国民の動向で容易に変転する存在ではなく、連綿として続くことが予定され、また当の官僚機構もその存続に自己の独自の利益を見いだしている存在です。むろん、マスコミや御用学者連が官僚機構に操られる取り巻きという無惨な姿をさらしているのも今日の特徴として指摘されてしかるべきです。いわゆる日本の「ペンタゴン」と言われている国内支配の政・財・官・報・学の基本構造は簡単に言えば、このようなものだと認識しています。
そういうわけで、サンフランシスコ条約の締結による日本の形式的独立と占領軍の撤退以降、日本の主権を掌握してきたのは国民(その代理人としての政治家)ではなく官僚機構であったということになります。日本における擬制的民主主義の根源がここにあります。
マルクス主義の一般論では日本の支配者にのし上がるべき独占資本は、戦前、財閥(政商)として国策に沿い軍需産業に偏重した姿を作り上げたものの、日米戦争でスクラップにされ、戦後は繊維工業から資本主義をはじめ直すという有様(「再版原蓄過程」と言われた)でした。戦後の重化学工業の立ち上げは冷戦下にあったアメリカの破格の配慮の下に育成されたわけで、その産業立国政策もアメリカのコントロールのもとに通産省を通じて行われたものであったことも歴史の事実でしょう。この独占資本は戦前は財閥として、これまた「おんぶにだっこ」で天皇制国家に育成されたものであり、戦後はアメリカということで、一度も国家の命運を自分で設計・管理したことがない存在でしかありません。「商人国家」といういびつな戦後日本の姿はその謂いにすぎません。
この「商人国家」の現状はここ20年来のアメリカによる金融的収奪や為替操作による円高攻勢を受けて、「商人国家」の土台・足たる日本独占資本の急速な疲弊をもたらしており、その疲弊がアメリカの現地支配人たる官僚機構(ここでは財務省、日銀)を通じて行われていることが特筆されるべきことです。
本来なら日本の支配者たるべき日本独占資本の予想される当然の反撃(金融政策の大転換やリフレ政策の強制、デフレ政策を推進する日銀総裁の更迭強行等)があっても不思議ではないところですが、その反撃は見る影もなく、奴隷的なまでに官僚機構に引きずり回されています。
非正規雇用の広範化や年間所得の減少(ここ10年で平均約100万円)がありながら、労働組合運動が盛り上がらないのはこの疲弊にも一大原因があるようです。単純に賃労働と資本による付加価値(剰余価値)の争奪戦から組合運動の盛衰を眺めるだけでは、今日の事態は理解のしようがないようです。
対米従属の関係をもう少し詳しく見ると、次のようになると思っています。共産党の61年綱領ではこう言っています。「日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本独占資本である。」
まず、日本独占資本はアメリカに「従属的に同盟」していても日本を支配する主体にはなっておらず、主体は官僚機構であるというところが私とは違っています。したがって「従属」の中身も違ってきます。
日本を支配しているのが日本独占資本であれば、その従属は徐々にではあれ対等な関係に回復していくことが理論的に予想されるところの「従属」(レーニン『帝国主義』論の言う「不均等発展の法則」の帰結)、60年代の自立・従属論争で自立論の側が主張したような「従属」です。ところが、日本の場合は、当時の論争者が”誰も予想していなかった”官僚機構が国内主権をにぎりアメリカに「従属」しているのですから、その「従属」は独占資本による「従属」とは自ずから性格が違ってきます。
すなわち、官僚機構は資本とはちがって、歴史的には常に誰かの従僕としてのみ存在してきたのであって、文字どおりの支配者たることが理論的にも歴史的にも予定し得ない存在なのですから、その「従属」は端から独立ということを望んでいない、望む能力のない「従属」なのです。
官僚機構が国内主権を握っていたことが、世界第二の独占資本にまで成長しながら、また戦後半世紀以上経つにもかかわらず、支配階級内部から自立派が主流となって成長してこなかった一大理由なのです。
したがって、日本が「従属的に同盟」しているとはいえ、その「従属」は20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」とは違いますが、それに近いと言った方が実態をより良く表現するものだと思われるのです。半世紀にわたる関係ですから、それなりの変化・起伏はあったものの「事実上の従属国」と言うより、より実態を捉えているといえるでしょう。
日本の官僚機構は国内主権を握っているとはいえ、その主権はアメリカから任命された「現地支配人」ほどのものにすぎず、アメリカの意向を斟酌して自国の総理大臣を放り出す画策をするのですから、売国性は露骨なもので植民地を彷彿させるに十分で、世界第二位になったほどの独占資本主義国のこの「従属」や従僕官僚の日米支配ヒエラルキー上の地位を何と呼ぶべきかということなのです。
「安保の見える島」(「本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていることー沖縄・米軍基地観光ガイドー」334ページ)沖縄が日本の「従属」の内実をその全身で表現していると思うわけです。なお、孫崎享の「戦後史の正体」も、未見ですが、参考にできる内容があるようです。
そういうわけで、日米独占による二重支配というよりも、限りなくアメリカの一重支配に近い支配が現在の日本で行われていると考えており、”政治主導”とともに、”地方分権”という政策が、霞ヶ関の解体を意味し、したがってまた、日本の対米自立政策の”隠語”ともなりうる由縁なのです。
(2)、官僚機構の腐敗についてです。「冷戦の配当」(例:朝鮮戦争特需)を一身に享受してきた日本資本主義は「高度成長」を迎え、アメリカの支配下に国家運営をする官僚機構もその権力行使が経済成長に結びついていたかぎりでは有能な役割を果たしてきたと言えるでしょう。売国官僚の行政と国益が一致する蜜月の一時代が出現することになります。
しかし、一方では、退廃の芽もその身に抱えることになります。すなわち、他国であるアメリカの支配下にあるということ自体が孕む問題(売国性)です。具体的には、安保の法体系と日本国憲法の法体系の「共存」ということに関わって、事実としてある一切に優越する安保の法体系を日本国憲法の法体系と「共存」させるという『擬制』(独立国家日本の擬制)を構築するという反国民的行政を行うこと、これが国家行政腐敗の日本的特質の第一にくるものでしょう。
もう一つは、1985年のプラザ合意での円高容認にはじまる自己犠牲的なアメリカ支援を皮切りに、冷戦崩壊後のアメリカの対日政策の転換(保護・育成から日本収奪へ)で、この官僚機構が否応なしに「売国行政」を強いられることから生まれる腐敗がその第二ということになるでしょう。日本の国益・国富をアメリカに売り渡す「売国性」の本体の出現してきます。
そして、どの国にも発生する官僚機構の弊害に加えて、日本の場合、国民による選挙の洗礼を受けないにもかかわらず無答責の「主権」を行使する存在であることから生まれる腐敗(独裁)がその三ということになります。
私が以前、日本の官僚機構を戦前天皇制の「転化形態」と言ったのは、無答責でありながら主権を掌握(独裁)する姿を指しています。一昨年の福島原発事故で露わになった「原子力ムラ」は、かかる官僚主権国家の苛烈な姿を表出させたのだと思うのです。棄民行政を平然として行い、どこまでも事実を隠蔽・偽装し執拗に「ムラ」の復活をはかろうとする姿は、半世紀にわたり国民をだますことに成功してきた”売国”官僚機構の「成功体験」ぬきには考えられないことです。
東電は民間電力会社というものの、競争を完全に排除する地域独占を確保し、総括原価方式というコストからさえ解放された企業の姿は、実態としてはソ連顔負けの国営企業なのであり、その存続につき経産省と利害が一致するのも当然のことで、経済合理性に反して国家による救済策が実行されることにもなるわけです。
なお、官僚機構の売国性は彼等が国民の面前に登場しないために、その売国性は行政活動というある種の抽象的姿でしか感じ取れなかったところですが、その売国性が文字どおり人物に化体されて国民の前に登場してくるようになりました。売国性がテレビ画面を歩き回っているというわけです。
野田総理を代表格とする民主党議員たちがそうです。そうなった理由は、彼等議員個々人が元々からだを張って信奉すべき政治思想を持たぬありふれた野心家にすぎず、新党ブームの風に乗って代議士となり、風の向くまま政党を乗り換え、官僚との丁々発止の争いの経験の蓄積もなく、労せずして閣僚等となった結果、売国官僚の振り付けどおりにしか動けないからなのです。
(3)、 さて、こうした「戦後政治の総決算」がせまられつつある中での左翼の姿はどういうものかということですが、ご指摘のとおりで、連合赤軍事件にはじまり80年代以降に顕著となる低迷から脱することができていません。先日、日本共産党の90周年記念講演をネットで読みましたが志位、不破の講演を10分ほどで読み飛ばすことができたほどで新味は何もありませんでした。
私は彼等の「病気」を「左翼小児病」(小ブルジョアマルクス主義)と総括しましたが、そこから抜け出す兆候は今日に至ってもどこにもないようです。どうにもこうにも、日本の左翼の宿痾はレーニンの言う「左翼小児病」なのであって、これが克服されぬままに来たことが左翼の無力ぶりの根源的な理由だと考えています。
その淵源を振り返ると戦前にまで遡ることになりますが、戦後でみれば、共産党の「50年問題」で宮本ら国際派が分派闘争を貫徹できずにコミンフォルムの権威に服従して所感派の軍門に降ったことが大きいのです。レーニン党の形成(マルクス主義のロシア化、ロシアマルクス主義)がメンシェヴィキとの10年にわたる分派闘争を経て成立したように、宮本らが分派闘争を貫徹し、意見の相違をその実践を含めて争い、決着をつけるという歴史的経験を経れば、両派を鍛え、おそらくは「左翼小児病」を克服する足がかり(マルクス主義の土着化)を得たのでしょうが、今となっては詮無きことというしかありません。
さらにひろく日本社会全体に視野を広げれば、日本は戦前、列強に互するまでの帝国主義国家を作り上げたものの、主要産業は相変わらず農業であり、農民的気質(小ブルジョア性)が広く根深く残りました。形成されてきた大企業プロレタリアも多くは軍需産業に包摂されて他と比較して相対的に特権的な地位を保障されて職人的気質を払拭できず、他方の本来の民生部門であり広範に展開された繊維産業では、使い捨てられれば農村に吸収されるという女工がプロレタリアの主力という実状があったわけです。
それゆえに、マルクスやレーニンらが想定したような大工業で鍛錬されたプロレタリアートという存在が日本では大量には形成されてきませんでした。このことが原因となって、一方では小ブルジョア的なマルクス主義理解とその党が形成され、他方ではその小ブルジョア的マルクス主義党を広く実践の試練というテストにかけて換骨奪胎し、本来の革命的労働者党へと発展させる力量を労働者階級が持てなかったのだと考えているところです。
「前衛」を自称し長い歴史を持つ共産党が小ブルジョアマルクス主義を克服できずに骨化させるほどですから、学生が主体の新左翼諸党派に克服できるはずがないのも当然のことで、その結果として、老いも若きも左翼的な人士の多くが「左翼小児病」的思考から抜け出せないことにもなるわけです。田村さんが大阪市長の橋下を取り上げるだけで総攻撃を受けたというのも、評価できない彼の言動のあれこれの一面を取り上げて橋下を全面否定する思考方法のなせるわざなのだと思うのです。
ネットで見ても、そうした否定の議論の特徴は、政治の現状との関係をぬきに、たとえば、橋下の君が代斉唱問題や市職員条例等を取り上げて橋下を否定してしまい、彼の消費税増税反対論や大飯原発再稼働反対論、彼が「大阪維新」を率いて国政に及ぼす影響のことなどは無視されるということがあります。君が代斉唱問題にしても、単純に思想信条の自由の問題として切り込み、その問題が50年代や60年代に持った政治的意味やその重みと今日との違いや、あるいは現在の政治において原発問題や消費税増税が重大な問題になっている時に、国政レベルではなく大阪市の君が代斉唱問題がどういう政治的比重を持つのか等々ということはほとんど考慮されていないようです。
こうした主張は、一面では誰にとっても避けられない自然発生的で単純な一面的思考のなせるわざで、政治的訓練ができていなければ容易に落ち込む思考方法なのであって、「左翼小児病」以前の特徴でもあるのですが、しかし、こうした一面的思考をそのまま政治の領域に持ち込み、簡単に橋下ダメ論を主張することになると「左翼小児病」的なものになるわけです。
90年の歴史を持つ共産党の場合も同様で、消費税増税反対はよい、原発再稼働反対も良い、しかし君が代斉唱はダメだ、それでどういうことになるかというと、国政選挙協力は基本政策の一致が前提だからという空虚で誤ったテーゼを置き、一致点での協力は国会内でやろうということになるわけです。こうして増税反対派はばらばらに選挙戦を戦い与党優勢の国会議席になり一致点での協力も少数野党では無力なものになるという結果に終わるのが現実です。口先は良さそうだが無力で成果をあげられない共産党の姿です。
政治課題が政治情勢と関連させて捉えられておらずバラバラに把握され、現状の最重要課題がどこにあり、それを実現するためにはどういう戦術(実践)が効果的か、その実践の視点から見れば、一致点ではない君が代斉唱問題がどのように取り扱われるべきか、実践の見地からすれば、君が代斉唱問題の評価もそれ自体の評価とは変わってくるし、変わってこなければならないということが共産党の指導者には90年経っても”どうしてもわからない”のです。
わかりやすく言うと、ガラスの器は通常は液体を貯めておくものだが、使い方によっては武器にもなれば紙を押さえる文鎮にもなるということが頭では理解しても政治の実践ではその理解を適用できないのです。これがレーニンの言う「左翼小児病」の核心なのです。
レーニンが「戦術は対立物に発展するほどの弾力性が必要だ」と言っていることを文献では知っていても実践に応用するすべを知らないのです。その結果、左翼のもろもろの実践的な政治判断が政治情勢とは切り離されたものになり、おのずから”恣意的な”評価基準が乱舞することとなって”偏狭な批判”を噴出させ政治的孤立を深め、その政治闘争を無力なものにしてしまうわけです。
現在の政治情勢に焦点を当てて言い直すと、現在の主要な政治課題が、消費税増税反対と脱原発であり、君が代斉唱問題がその中に入らないのであれば、国政選挙戦の段階で反増税・反原発陣営全体を勝たせる選挙戦術が構想されるべきなのです。自・公・民連合を打ち破るには、橋下であれ、渡辺のみんなの党であれ排除すべきではないのであって、現在の共産党にはこれができないのです(注)。
(注):<後に橋下や渡辺が「本性」(?)を現して離反したり裏切り、なにやら画策するにしても、そんなことは現政治情勢ではどうでもいいことなのです。というのは、後の政治情勢がどうなっているか、誰にもわかっていないことなのですから、不確定な後のことまで詮索して現在の連携の選別基準に新たな選別基準を加え、より広く布陣する可能性を狭めることはまったく馬鹿げたことなのです。
問題はまず自・公・民連合を打倒することであり、勝った後の未来は不確定ではあるものの、負けた場合より政治情勢はさらに激動し国民の政治意識もさらに高まり、より有利な政治情勢が開けるはずだということだけはほぼ確実なのです。
民主党政権が小沢つぶしを媒介にいとも容易に籠絡され、旧支配勢力の強大な力を見せつけられながら、支配もできない未来まで忖度し、あれこれの馬鹿げた選別基準を持ち出す左翼的性癖は何ともはやつける薬がないとまで言わざるをえないのです。>
この”偏狭な批判”が示す左翼の”偏狭な性格”は陳腐な教条主義のせいにもできれば、階級的に不安定な小ブルジョアの特質だと言うことも可能でしょうが、30年に及ぶ左翼勢力の沈降や社会主義国が崩壊してもなおかつ無反省に執拗に再生してくるところ(西欧左翼との違いの一つ?)を見ると改めて感ずるところがあります。
日本の左翼のこの”偏狭さ”は、日本国民の「おとなしさ」とか「穏和さ」、「寛容性」、あるいは「和を持って尊しとなす」とか言われ、総じて物事を曖昧なままに受容する国民性への「罰」(レーニン風の言い方)、あるいはその国民性への本能的なまでの反発(不信)からくるのではないのかとさえ思われるところなのです。そうであればなおさらのこと、日本の左翼には国民の多くに受容され多数派を形成する能力がないままなのだということになるでしょう。
労働組合についてです。総評と同盟が母体となって1989年に結成された連合(現在680万人)は、大企業と公務員の組合が主力ですが、今回の消費税増税問題でわかるように、すでに労組としての実態をもっておらず、構成員の利益のみを求める”ギルド”に変質してしまっているとみています。
大企業従業員と公務員の相対的高賃金がもたらした結果であって、労働貴族層と呼ぶにはミゼラブルですが、大企業組合員は比重を増した下請け・非正規労働者の低賃金から「恩恵」を受け、公務員は税金で食べていますから、どちらも一面では大多数の勤労者とは利害が一致せず、ここ20年の全国的な所得減少のなかにあって、既得権益層という性格強めてきたのです。
また、共産党傘下の全労連ですが、連合に対抗した結成時の勢力を維持することさえできずにいるようですから、これでは全国に影響を与えるような本来の労働組合運動を国民に見せることは期待できないということになります。
いまや公務員と労組(連合)は国民の敵というような様相を強めている状態で、左翼運動や国民的運動の母体になる能力を完璧なまでに失っている状態と言わざるを得ないでしょう。左翼には評判の悪い大阪の橋下が市民には支持される理由で、新たな改革勢力が国民運動の側に登場してこざるを得ない事情です。
あと、フランスの政治情勢と政党事情についてですが、残念ながら現状をフォローしておらず、今の私には議論する力がありません。キューバについては、これは新しい国家ビジョンに関わるもので、議論のベースを世界経済の現状にまで拡げないと論じにくいので機会があればということで、今回はここまでということにしてください。