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「現状分析と対抗戦略」討論欄

官邸前デモを大事にし、じっくり盛りあげていこう

2012/8/3 原仙作

 テレビはオリンピック一色だが、官邸前で行われているデモについて、最近感じているところを書いてみたい。
 官邸前のデモが、マスコミの無視にもかかわらず大きくなり、ついに彼等も報道するようになったことは一つの大きな変化であった。官邸前デモが獲得した一つの勝利である。

 前総理の菅ら国会議員との会談が持たれたことも評価して良い。報道では野田も会う気になったようだが、会いに行って国民の声を届けてくればいい。ただし、狐や狸のような連中との対話なのだから公開が絶対条件だということを忘れてはいけない。
 むろん、野田の目論見は世論対策だが、こちらのデモを全国的に認知させた意味は非常に大きい。私の経験からすれば、野田らの思惑を越えて、これでまたデモに”はずみ”がつくだろう。

 ところが、案の定というか、不協和音も流れてくるようになってきた。外野で評論家風に、参加者数が減ってきたとか、多様性に欠けているとか言う者が出て来たのはご愛嬌として扱えても、無視のできないのは参加者の中から出て来た次のような意見である。

 主催者の側が、警察の意向を受けて「歩道に戻れ」とか、「もう終わりだから帰れ」とか言っている、彼等の「目線」は「上から目線だ」、あるいは、反原発のシングル・イッシューではダメで反消費税も入れろとか、さらには歩道を歩くだけのデモや警察の規制に唯々諾々として帰るだけではデモではなく「イベント」だ、こんなことではデモは単なる「ガスぬき」になってしまう、野田に会う連中は誰の許可で代表づらしているんだ、というような主張である。

 エキサイトした若者や、手っ取り早く効果が見たい短気な者がこんな風に言う気持ちは十分によくわかる。40年前の私なら同じようなこと言っただろう。だが、わずか数ヵ月の、この程度の規模のデモで半世紀も変わらなかった日本の政治を変えようと思うのは”虫が良すぎる”と考えた方がいい。野田を引っ張り出しただけでも上出来なのである。代表団もむろん暫定のもので、すべては暫定的にしか形成されていかないのだ。それは避けられない。
 この程度のデモではまだまだ目立った効果は出てこないと腹をくくり、じっくりと腰を据えて”持続する志”を表現することに努力するべきだというのが私の意見である。あせって早急な成果を求めてはいけない。

 ここの判断は理屈の問題というよりも経験がものをいうところで、40年前に機動隊とのドンパチやゲバ合戦に明け暮れて、今もその身に後遺症を残し失敗続きのデモ・集会ばかりをやっていたロートルの経験からすれば、「短気は損気」な時期なのである。  頑張って入れ込むほどに主観的になりやすいという落とし穴があるのであって、現実の変化はデモをやる者の努力に単純に正比例するわけではないということを肝に銘じておきたいものだ。

 今は「シングル・イッシュー」でいい。やがてデモの規模がさらに大きくなれば、参加者が各々さらに多様な「声」を持ち寄るようになり、そこから自ずと消費税増税反対や野田政権打倒という声も結晶のように抽出されてくるはずである。こうなれば、自ずとつまらん論争を越えてデモ全体のスローガンに昇格してくるようになるのであって、それまではじっくりと待つべきなのだ。

 デモにやってきた参加者が相互に励まされ、自然に知り合いになって小さなネットワークが無数に生まれ、やがてそれが津津浦々に広がり、デモの日程に合わせて広範な連携が瞬時にダイナミックに躍動し始める、インターネット時代のその日がやってくるのは確実である。今はまだまだ序盤である。

 時代は確実にデモを起こす側に有利になっている。かつてはデモ一つやるにしても連絡・広報が大変なうえに、マスコミの無視や政権に都合の良い取り上げ方が横行し、こちら側はどうしても騒ぎを起こさなければ、真実を世間にアピールできない事情におかれていた。しかし、今は違うのであって、マスコミの無視があってもインターネット上の情報拡散ですぐに世間に知られるようになっている。
 この有利な条件を生かすべきであって、かつてのように国民が情報弱者であった時代のように、慌てて成果を得ようとするやり方を踏襲する必要はないのである。

 60年安保闘争の30万のデモや学生の国会突入にしても、警職法反対闘争などの2年も前からの示威行動の蓄積の上に出現してきたものなのであって、2、3ヵ月の手っ取り早いデモとその突出部隊から生まれてきたものではないのである。当時は、野党第一党の社会党もあれば、全国で地方の商店街の閉店ストも行われたのであって、それに比べれば、今はまだ、青森や鹿児島、そして山口の県知事選でも反原発派は破れている状況にあることを見なければならない。
 国民世論をしっかりと変えるには、まだまだ、不十分で、これまでの世論調査の結果に満足しているわけにはいかないことを示している。

 また、日本人の穏和な国民性も考慮する必要があろう。争いを嫌う国民性を持つ日本人が大戦以来持つ暴力にまつわる記憶は忌まわしいものばかりなのである。さきの戦争における虐殺や玉砕、東京大空襲、広島、長崎の原爆、近くは連合赤軍事件や地下鉄サリン事件など、歴史上の肯定されるような暴力の事例は皆無と言ってもいいだろう。
 それらの歴史から国民が肯定的に実感してきたのが日本国憲法にある絶対平和主義の思想であり、その実感が憲法9条の砦にもなっているということである。この国民の実感は大事にしなければならない。

 しかも、ドカーンとばかりの騒乱的事態が起これば、物事が望みどおりの急展開になると考えるのは楽観論にすぎる。かのエジプトの事態を見てもわかるが、こちらが事態を収拾する指導権を持てなければ、混乱ばかりが続く。敵の中核はマスコミという応援団を持ち棄民政策も平然とやる老獪な官僚機構や「原子力ムラ」なのであるから、こちら側では援軍となる政治家集団との連携を確立していなければならないし、国民を代表するような規模とその運動の蓄積から生まれてくる名実ともの代表団が形成されていなければならない。どの点から見ても、始まったばかりなのである。

 私の経験の教えるところからすれば、ある日(それがいつかは誰にもわからない)、あるきっかけ(それも何かは誰にもわからない)で、これまでの規模をさらに格段に上まわる、誰もが夢想だにしなかった巨大なデモ(100万、200万?)が出現してくるのであって、そうなった時には規制する警察の側もギブアップとなり、血気にはやる者が好きな言葉を使えば、「解放区」の衝撃が社会全体を襲う日がはじめてやって来るのである。

 前にも言ったことだが、その予兆はすでに現れている。その日のための前段には、官邸前にかぎらず津々浦々での地道なデモ、集会の蓄積がさらに必要なのである。

 その日が来るまでは、血気にはやった者の突出した行動はデモの仲間内で自制させなければならない。デモ参加者の非暴力への強い意志が必要になる。この程度の規模の今の段階で、警察と暴力沙汰のいざこざを起こせば、パパ、ママや子供連れ、高齢者、会社帰りの参加者がデモから離れざるを得ず、逆に政権の思うつぼにはまることになる。
 マスコミもそれ見たことかとデモを執拗に叩くであろう。こういう状況を作ってはいけないし、作らされてもいけない。
 仮に、どうしても帰らず、座り込みをやりたいという集団が出てくるならばやらせておけばいい。無理に説得して帰らせることはない。止めなければならないのは、血気にはやって警官隊に突っ込む集団だけである。

 確かに、こちらからは警官隊の暴力は防げない。しかし、どちらから先に手を出すかは非常に重要な問題で、今では悪辣な弾圧はそう簡単には実行できないことも確かなのである。40年前は警察のやりたい放題であった。合法的なデモ隊からねらった活動家を私服刑事が群がって引っこ抜き、抵抗すれば「公務執行妨害」をでっち上げて逮捕することなど日常茶飯事であった。今は記録を残す国民の目があるだけでなく、その記録はマスコミの黙殺にもかかわらず、ネットですぐに伝わり、警察の不当な対応(暴力)は国民の憤激を引き起こす導火線ともなりうるからである。

 現在の官邸前デモが50万、100万の巨大な規模に発展し、突出者の突撃ではなく、押し寄せる参集者の自然の圧力で警察の規制を全面決壊させることができるようになれば、60年安保を越える政治上で画期的な事態を夢見ることも可能になるのである。
 それまでは、じっくりと。 「放射能は疲れを知らない」のだから、対抗する国民の側も「疲れを知らない」運動が必要なのである。