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「現状分析と対抗戦略」討論欄

脱原発、政権交代、「官僚支配・官僚主権」批判――国民的政治課題の相貌

2012/9/1 丸 楠夫

表題の『国民的政治課題』については、その時点において国民の幅広い支持・期 待ないし関心を結集する政治的課題、というぐらいの意味でお考えください。

1、

 昨今の脱原発・再稼動反対の世論と運動の広がりについて、「脱原発・再稼動 反対には右も左も無い」という見方・言い方がされたりするようです。

 しかしこの「右も左も無い」という言い方は、現在の広範な脱原発・再稼動反 対の世論と運動を表すものとして正しくありません。さらに言えば、現在の脱原 発・再稼動反対の世論と運動において「右も左も無い」あり方が必ずしも望まし いとさえ、言えないのではないでしょうか。

 まず、今日の脱原発・再稼動反対の世論と運動を言い表すなら、それは「右も左 も無い」のではなく、「右からも左からも、右でも左でもないところからも、い たるところから脱原発・再稼動反対の声が沸き起こっている(“右でも左でもな いところから”の声――と自称ないし自己認識する――が最大多数派であるにして も)」のです。たとえば、従来からの安全性やエコロジーの立場からの脱原発論 だけでなく、経済合理性や新自由主義的立場からも原発の非合理性の告発、脱原 発・再稼動反対の声は起こっています。あるいは軍事や安全保障論の観点からさ え、脱原発は主張し得るでしょう(テロや攻撃対象としての原発の脆弱性、被害 の甚大さ)。このようにさまざまな立場や観点から脱原発・再稼動反対が唱えら れている・唱え得るという事は、それだけ多様な論点や角度から原発再稼動の問 題やリスク、脱原発・再稼動反対の必要や妥当性が告発・論証されて行くと言う 事であり、そうした多様性が今日の脱原発・再稼動反対の世論と運動に、かつて ない広がりと同時に“強さ”をももたらしているとはいえないでしょうか。

 このような、脱原発・再稼動反対に結集するに当たっての立場や論点の違い、ひ いては脱原発・再稼動阻止の“その後”についてのビジョンの違いや意見の相違 が、脱原発・再稼動反対の世論・運動にとってもっぱら弱さよりも強みとなり得 るのは、そもそも脱原発・再稼動阻止を実行する上では、そういったことは考え る必要があまり無いからです。たとえば自然エネルギー拡大を目指す立場から脱 原発を主張するにしろ、電力自由化を目指す立場から脱原発を主張するにしろ、 自然エネルギー拡大なり電力自由化なりが実現しない限り脱原発はできないと か、しなくていいという話でもありません。あるいは即時脱原発論の立場にし ろ、当面の再稼動には反対という立場にしろ、(当面)原発を除く既存の発電施 設の供給能力の範囲内に電力需要のピークの山を押さえる必要がある、あるいは それが現実的に可能だと考える点では差異は無く、そうである以上両者は脱原 発・再稼動阻止の実現・実行時においても並列的に共存・共同可能なのです。ほ かにも、脱原発による現在の原発雇用をどうするかにつては、廃炉ビジネスへと 引き継いでいけるであろうといった展望もあります。

 そして最も特筆すべきは、脱原発・再稼動阻止それ自体が原発への不安や批 判、原発の問題点や弊害、リスクについての解決・軽減である、ということで す。これは政治課題としての原発問題の大きな特徴といえると思います。

2、

 2009年総選挙における民主党の圧勝と、その後に驚異的な高支持率で迎え られた鳩山内閣の発足は、政権交代・民主党政権を支持する国民世論の広がりを 如実に表すものでした。一方で、民主党・鳩山内閣の掲げる政策、たとえば目玉 政策とされていた高速道路無料化や子供手当て等への支持は、世論調査などにお いてその賛否が分かれて拮抗していました。また、鳩山内閣が掲げた大きな政治 課題のひとつである沖縄普天間基地の国外・「最低でも県外」移設に対し、政権 発足直後から担当閣僚の一人である岡田外務大臣は否定的な発言を繰り返しまし たが、そのことで岡田が世論の強烈な罷免要求にさらされる、ということもあり ませんでした。つまり、政権交代・民主党政権に対する国民の支持の広がりや熱 意と、政権交代によって民主党(政権)が実行しようとする政策に対する国民 (ないし政権交代・民主党(政権)支持層)の支持の広がりや政策実行・実現へ の熱意との間には、明らかに落差がありました。このことは、政権交代・民主党 支持の広がりが、複数のそれぞれ異なる立場や視点・論点からの支持によって構 成されていたことを示唆するものとは言えないでしょうか?

 つまり、政権交代・民主党(政権)への広範な国民からの支持が、それぞれ異な る複数の立場や視点・論点からの支持であったがゆえに、政権交代・民主党政権 発足“後”の政策実行に対して、立場や視点・論点の違いが上で述べたような形で 表面化したと言えるのではないでしょうか。

 本稿の趣旨から、民主党政権の分析や評価についてはこれ以上立ち入らず、こ こでは政権交代とその後の民主党政権の経験から次のことを確認するにとどめます。

 脱原発がそれ自体、原発が抱える問題や弊害・リスクの解決・軽減であるのに対 し、政権交代や新政権の発足はそれ自体が問題の解決ではないこと。

 問題を解決するのはあくまでもそれぞれの問題に対応した政策の実行によるので あって、政権交代や新政権の樹立はそのための手段や通過点のひとつのあり方に しか過ぎないこと。

 幅広い国民の支持を集める“政治課題”の実現が実際に問題を解決するのは、その “政治課題”の実現が問題解決に適合する場合である(適合するものでなかった場 合、“政治課題”は達成されても問題は解決しない、もしくは更なる問題が発生す ることがあり得る)こと。

 国民・当事者それぞれの立場や状況の違いによって、現状への不満や批判、問題 意識のあり方が異なる場合、対応する政策の実行に際しては国民・当事者のそれ ぞれで異なる意見の調整、取捨選択、優先順位付けは不可避であること。

3、

 いわゆる「官僚支配・官僚主権」という、広範な国民から批判の声が結集する 政治のあり方を打破する、終わらせるには、当然のことながら、現状のこのいわ ゆる「官僚支配・官僚主権」を別のもの――「官僚支配・官僚主権」“ではない”別 の政治のあり方――に置き換えなければなりません。「官僚支配・官僚主権」とは 別の政治のあり方に置き換えられることで、初めて「官僚支配・官僚主権」は打 破され終わるわけです。つまり単なる言いっぱなしの批判や個別事例の是正にと どまらずに、全般的な政治のあり方としての「官僚支配・官僚主権」の打破を政 治課題化することは、それに変わる政治のあり方作りと絶対に切り離しようが無 いのです。

 そして、「官僚支配・官僚主権」を打破する上では、大きく二つの方向性があ ります。

 ひとつは社会の中で国家が関与している領域自体を縮小してしまうことです。

 たとえば労働法が無くなれば、あるいは国(官僚機構)から“労働法を守らせ る”という役割が取り除かれれば、その分の国(官僚機構―厚労省労働局・労働基 準監督署・労働基準監督官)の権限もなくなります。これはあくまでたとえで あって、労働法や労働基準監督官といった固有名詞には何の意味もありません。 固有名詞はいくらでも置き換え可能ですので各自ご自由にシミュレーションして みてください。

 要は公共領域・公的分野を解体・縮小すればした分だけ、「官僚支配・官僚主 権」(官僚が支配権や主権を振るえる領域)も解体・縮小され得るということで す。実に単純明快です。非常にわかりやすい話です。これを「官僚支配・官僚主 権」打破の新自由主義的な方向性、としておきましょう。

 二つ目の方向性は政治主導の実現(ないし拡大強化)です。

 では政治主導とは何なのか?

 それに置き換えられるべき、「官僚支配・官僚主権」における“支配”“主権(の 行使)”とはそもそも何なのか?

 端的に言ってしまえば、どのような政策を実行するのかしないのか、という政策 の取捨選択や優先順位付けのことでしょう。それを(独占的に)行っているのが 官僚だから「官僚支配・官僚主権」である、と。では政策の取捨選択や優先順位 付けを“政治主導で行う”という場合、(現在の多くの「政治主導」論において) 具体的に“誰が”それを行うものと想定されているのでしょうか。

 政治家、首長、(主に与党)議員が政策の取捨選択や優先順位付けを行う=政治 主導とされているのではないでしょうか。

 いうまでもないことですが、政策の取捨選択や優先順位付けを、選挙の洗礼を受 けることもない官僚の手から(選挙の洗礼を受けた)政治家の手に移すことが、 民主主義の拡大の観点から(相対的に)進歩であることは疑うべくもありませ ん。しかし民主主義の拡大という観点から政策の取捨選択や優先順位付けの政治 主導を言うのであれば、現行の議会や首長の選挙時に限定されない、より直接的 であったり随時での、政策の取捨選択や優先順位付けへの国民・当事者の参加・ 介入のあり方(住民投票、公聴会、審議会、各種の社会運動について、また選挙 制度や国会・議会運営のより民主主義的なあり方等々)、“政治家による政策の 取捨選択や優先順位付け”をもっと補完し、あるいは部分的には踏み越えるよう な要素が、もっと提起・要求されてしかるべきです。しかし、そのような提起や 要求が今日の“政治主導”論の主流であるとは言いがたいのではないでしょうか。

 それについてはひとまず置くとして、現在の現実の多くの政治主導論において “(与党)政治家による政策の取捨選択や優先順位付け”以外の民主主義の拡大の 観点がどれだけ省みられているか、ということについては、皆さんも改めて確認 したうえで、まずは十分留意しておいてください。

 さて、「官僚支配・官僚主権」下では官僚が独善的に政策の取捨選択や優先順位 付けを行っていたとして、政治主導による政策の取捨選択や優先順位付けとはど のようなものになるのでしょうか?

 ところで皆さんは、日本国が発行するパスポートを保持する者同士ならば(おお むね)政治的見解や政策上の利害が一致して当然だ、そうあってしかるべきだ、 と考えたことがあるでしょうか。

 多くの人がそもそもそんな発想をしないのではないでしょうか。今こうして問わ れても“なぜ同じ日本のパスポート持ってるというだけでそんなことが一致しな くちゃならないんだ”と思われたのではないでしょうか。では、これが“同じ日本 のパスポート”ではなく“同じ日本の国籍を保持する者同士”=“国民”の名を用い て政治を語り論じるとき、私たちはどのように語り、論じてしまいがちでしょうか?

 政権交代に際して、選挙で圧勝した民主党の“選挙時にはすでに掲げていたはず の政策”に対して、国民の賛否が大きく分かれたことについてはすでに言及しま した。国民とは本来、均質的なものでもなければ一枚岩的なものでもなく、それ ぞれ異なる立場や利害、多様な政治的志向や問題意識を抱える(日本)国籍保持 者の集団なのです。したがって、政治主導で国民の声を政治に反映させる、国民 の声によって政策の取捨選択や優先順位付けを行う、ということはすなわち、あ る国民の声は(政策として)実現させある国民の声は退ける、あるいは国民それ ぞれの声に(政策として実行するに当たっての)優先順位をつけていく、と言う 事に他なりません。ですから政治主導とは第一に国民(の異なる利害、意見、問 題意識)相互の競合、討議、合意形成、取捨選択順位付けをめぐる熾烈で、手間 と時間と労力と根気を要する政治過程の常態化(の拡大)に他ならないのです。 もしこれを当事者同士で行うのなら、自らの利害を貫徹できなかったとしても、 まだしもその結果を(心理的、感情的に)受け入れやすいかもしれません(あく まで一般論として、相対的に、ですが)。しかしこれが代理人を介しての結果で あれば(とりわけ当事者がその過程に常に同席できるわけではなかったり、代理 人の権限・裁量がなまじ大きかったり、権限・裁量についての事前合意があいま いだったり出来なかったりすると)、それを受け入れる(心理的、感情的含む) ハードルは高くなりがちでしょう(これもあくまで一般論として、相対的に、で すが)。しかも代理人には説明責任や結果責任がのがれようもなくついてくるの です(注1)。つまり、政治主導は「次の選挙」(契約解除の可能性)が待って いる代理人=政治家にとって、ある面ではきわめて厄介な話でもあります。

(注1)橋下徹は日々自ら積極的に情報発信し、かつそれが日々マスコミメディ アに大きく取り上げられることで類まれな情報発信力を持つ政治家となっていま す。しかしその膨大な情報発信量、情報発信力ゆえに、私たちがその情報をそも そも追いきれない、検証しきれない、という状態になってはいないでしょうか。 そのような橋下の情報発信量、情報発信力がかえって――本人が意図して、自覚的 にそうしているのかは別として――彼の発言の整合性や政治責任や説明責任の検証 を困難にする“煙幕”“弾幕”となってはいないでしょうか。これが意図してのもの だとすれば、驚嘆すべきマキャベリズム的政治力です。

 ところが、「官僚支配・官僚主権」を打破しながら、同時に政治主導に伴うこれ ら膨大なコストを圧縮する方法がひとつあります。

 社会の中で国家が関与している領域(公共領域・公的分野)自体を政治主導で縮 小してしまうことです。そうすれば、公共領域・公的分野を解体・縮小すること で「官僚支配・官僚主権」(官僚が支配権・主権を振るえる領域)を解体・縮小 しつつ、錯綜する国民の利害の取捨選択・優先順位付けといった高コスト・(国 民のいずれかの部分からの不満・反感という、政治家にとって選挙に際しての) 高リスクな政治主導を要する領域自体をも縮小可能となります。

 しかしながら、ごく短期的にはともかくとして、このような新自由主義的路線に よっていかなる損失もこうむることのない国民はごく少数派のように思えます。 とすれば、新自由主義的な方向性での「官僚支配・官僚主権」打破は、政治家 (の選挙での当落)にとって同じく高リスクであるようにも思えます。

 しかし一方で、私たちは政治家に対して伝統的に――そして近年ますます――“一 貫した姿勢”や“ブレない信念”を強く求めます。つまり政治家が自らの“一貫した 姿勢”や“ブレない信念”を国民・有権者に効果的にアピールすることができれ ば、次の選挙での強みになるわけです。

 そこでたとえば、郵政事業が民営化される前のことを思い出して、“郵政事業に ついての個別具体的で時に多くの国民にとってはなじみの薄い専門的分野にまで 踏み込まなければならないような改革・改善案を、国民のさまざまな声を勘案し て策定する”過程と、ズバリ“郵政事業を民営化する”という過程ではどちらのほ うが「ブレている」かのごとき印象を極力与えることなく“姿勢”や“信念”を貫徹 しやすいか、を考えてみてください。

 “国民の声Aは政策として実行し、国民の声Bにつては退け、国民の声Cについては 部分的に反映させる”を何十通りとやっていく過程と、なんだか複雑なごちゃご ちゃしたものをバッサバッサと切っていく過程とでは、どちらが政治家として “一貫した姿勢”や“ブレない信念”を(現実に、あるいは政治家の主観として、そ のような“姿勢”や“信念”を貫いているかどうか、だけでなく、一般の多くの国民 へ強い訴求力を発揮できる形で)明快に示しやすいか――そう考えていけば、“政 治家による”政治主導と、「官僚支配・官僚主権」打破の新自由主義的な方向性 との間に強い親和性が生じることは実にありえそうな話です。そして実際に、そ のような“政治家による”政治主導の下での新自由主義的な方向性による「官僚支 配・官僚主権」打破こそが、実はいつのまにか現在の現実の政治情勢と政治力学 における、政治主導論・「官僚支配・官僚主権」批判・打破の基調となってはい ないでしょうか。

 しかしそのような新自由主義的な政治主導論、新自由主義的な「官僚支配・官僚 主権」批判・打破論は、生活擁護・生活が第一(反貧困・反新自由主義)と民主 主義の拡大という観点・立場からの「官僚支配・官僚主権」打破を目指す志向・ 運動とは(官僚機構の個別的な問題の是正・改革での共闘は別として)、互いに 相容れないものと言えるのではないでしょうか。「官僚支配・官僚主権」打破と いう政治課題は、脱原発・再稼動反対という政治課題とは異なり、「官僚支配・ 官僚主権」を新自由主義的政治主導に置き換えるのか、生活擁護・生活が第一 (反貧困・反新自由主義)と民主主義の拡大としての政治主導に置き換えるの か、という選択をはらまずにはおかない政治課題なのですから。

 ここまで述べてきたような点にまったく無自覚に、現在の現実の政治情勢におけ る政治主導論・「官僚支配・官僚主権」打破論に臨もうとする限り、そして、生 活擁護・生活が第一(反貧困・反新自由主義)と民主主義の(より直接参加型、 当事者主義的な)拡大という観点からの主張と運動を目的意識的に追及して、そ れを大きな声と運動にしてかない限り、政治主導論・「官僚支配・官僚主権」打 破の政治課題は容易に上からの新自由主義的改革に回収されてしまうといえるの ではないでしょうか(注2)。

(注2)90年代初頭の国民的政治課題であった「政治改革」が、選挙制度改 革、それも小選挙区制の導入に“ものの見事に”すっかり回収されてしまったこ と、それが保守二大政党制による今日の政治状況に帰結したこと、について、私 たちは(自己)批判的に検証総括し、それも踏まえて今日の政治主導論・「官僚 支配・官僚主権」打破論に臨まなければならないのではないでしょうか。

4、

 『現状分析と対抗戦略』欄7月28日付けで、原仙作氏による『日本の国家権 力の構造と腐敗の特質、左翼の偏狭さについて』という投稿が掲載されていま す。そこで述べられている――日本の国家権力の“構造”や腐敗の“特質”といった――ことについて、歴史的事実としての妥当性を検証したり、諸事実との整合性につ いて逐一疑問や反論を唱えたりすることはここでは行いません。

しかしながら、そこでの記述のいくつかに関しては、今日における政治的・実践 的諸課題との関連から、二、三述べておこうと思います。

 まず消費税増税(阻止・反対)の問題に関連して。

 2012年3月以前のさざ波通信『一般投稿欄』にたびたび掲載されている「日 本に福祉国家を」氏の一連の投稿は、財政再建・社会保障財源の安定的な確保の ため消費税増税は不可欠として、それを推進する趣旨のものでしたが、「日本に 福祉国家を」氏のような人(意見)は、現在日本において特別奇特な人(意見) という訳でもないのではないでしょうか?最近の世論調査では消費税増税反対が 多数を占めていますが、設問のされ方をよく見ると「当面の」消費税増税につい ての賛否を問うような形式だったりします。ほんの少し前までは世論調査で消費 増税賛成が優勢となることもたびたびあったかと思いますが、それも踏まえて考 えるなら、“財政再建・社会保障財源の安定的な確保のための”消費税増税論やそ れを支持ないし容認する広範な意識まで克服されたとはまだ見なし難く、また、 その克服がなければ世論が(例えば民主党・野田内閣への怒りや不信が一段落し てしまった後は)再び消費税増税に誘導されてしまう事態も容易に起こり得るの ではないでしょうか。

 消費税増税阻止・反対を本気で考えるなら、消費税阻止・反対の世論と運動を もっともっと強く大きなものにしていくことを真剣に考えるなら、

「消費税増税に反対されるなら、今日の国家財政の危機のもとで社会保障を維持拡充しながら財政再建を進める具体的財源プランの対案を提起していただきたい と存じます。(改行)それなしに消費税増税反対を主張されても、国家財政の危 機のもとで、日本の国家財政が破たんし、社会保障の大幅切捨てを強いられるこ ととなるのではないしょうか。」(日本に福祉国家を 『風来坊さんの11月 23付け投稿「消費税に関して」への評論』)
「どうしても消費税廃止を主張されるのであれば、毎年1兆円を超えて増大する 社会保障費をどうまかなうのか、1000兆円を越えるという日本の国の累積債 務をどうするのか、具体的財政プランをぜひ提起していただきたいと思います。 それなしに消費税廃止を主張されても絵に描いた餅にしかすぎません。」(日本 に福祉国家を 『クマさんの「消費税は“福祉国家破壊税です”(桜さんへ)」に 関して』)

という問いに真正面から回答して説得して乗り越えていく、単なる反対・阻止に とどまらないより攻勢的・積極的な主張、提起がなければならないでしょう。

 あるいは、近年日本の税制・税収のあり方を見たとき、消費税導入からその増税 へと今日に至るまでの流れの一方で、法人税引き下げ、累進税制・応能負担原則 の後退という流れもまた、ほぼ一貫してあったのではないでしょうか。さらにそ の一方で、大企業・財界ないし日本独占資本は、この間これもほぼ一貫して、リ ストラや労働法制改悪を伴う雇用の非正規化等々(いわゆる企業の社会的責任の 忌避)によって、自らが負うはずだったところの責任・負担を貧困問題等の形で 生活保護はじめとする福祉領域・社会保障に付回す、という流れも今日に至るま で存在しているのではないでしょうか。これらの一連の流れの中で、消費税増税 が私たちに押し付けられようとしている。そういう経緯があるわけです。

 以上を踏まえるなら、消費税増税阻止・反対の運動においては、消費税増税に代 えて企業の公的負担の引き上げ、応能負担原則に基づく累進税制の強化、金融資 産課税等をはじめとする“増税”(による社会保障財源の確保)=再配分的政策へ の転換=大企業・財界ないし日本独占資本に対して応分の負担を提起・要求して いくことがきわめて重要になってくるのではないでしょうか(注3)。ところが 原氏は

「日本独占資本は・・・日本を支配する主体にはなっておらず、主体は官僚機構 である」

のみならず、(日本独占資本は)「奴隷的なまでに官僚機構に引きずり回されて います。」

という見解を現代日本の政治・経済・社会の全般的規定として主張しています。 果たしてこのような全般的規定によって、“日本独占資本に対して応分の負担を 提起・要求していく”式の運動を正当に位置付け、励ましていくことができるの でしょうか?「日本独占資本」を後景に退けることなく、きっちりと射程に捉え て提起・運動をしていく上で、何か積極的な意義があるのでしょうか?消費税阻 止・反対を政治的・実践的に考える上で何らかの合理性や意味があるのでしょうか?  はなはだ疑問です。

(注3)民主党政権の“生活が第一”路線のつまずきの石となったのが財源問題で した。そしてなぜ民主党政権が財源問題で挫折に追い込まれたかといえば、「官 僚支配・官僚主権」に阻まれて財源問題で主導権を掌握できなかったこともさる ことながら、それと並んで(あるいはそれ以上に)、財界・大企業ないし日本独 占資本に対し、応分の負担を求めることができなかった(そもそもそのような発 想があまりなかった)からではないでしょうか(そこにさらに“「成長戦略」―― が民主党・鳩山政権にはない、と言う――批判”を切り口に、“生活が第一”的諸政 策の尻すぼみに追い込まれていったのではないでしょうか)?社会保障財源や労 働・雇用の問題において財界・大企業ないし日本独占資本との対決も辞さずにそ れらに応分の負担を強いることができるかどうか(再配分政策・応能負担原則を 貫徹できるかどうか)、そのような構想を体系的に示せるかどうか、こそが、新 自由主義に決別して“生活が第一”の道に進めるか、それとも再び新自由主義に回 帰するかの決定的な分岐点なのではないでしょうか。

原氏は同じく、現代日本に対する全般的規定として次のような見解も提示してい ます。

「日本の官僚機構は国内主権を握っているとはいえ、その主権はアメリカから任 命された「現地支配人」ほどのものにすぎず・・・」
「日米独占による二重支配というよりも、限りなくアメリカの一重支配に近い支 配が現在の日本で行われている」

 これを見てまず思い至るのは、この規定が日本とアメリカとの二国間関係の一部 しか見ていない・見ようとしないものだということです。

 90年代から今日に至るまで、自衛隊をたびたび海外に出していく、また自衛隊 の海外展開をより容易にしていく法整備や“有事に備えて”戦争を可能とする体制 作りも進めていく、そうしたことが継続的に行われてきました。対米従属の結果 としてそのようなことが行われている、アメリカによってそう強いられてきた、 と言う面ももちろんあるでしょう。しかし例えば、ベトナム戦争において韓国軍 やオーストラリア軍はアメリカ軍とともに参戦しました。韓国とアメリカ、オー ストラリアとアメリカ、という二国間関係だけで見れば、それは従属―非従属と いう関係でしょう。しかしこれを韓国とベトナム、オーストラリアとベトナムと いう関係も視野に入れて見たとき、それはどのように評価・規定されるべきもの なのか?このようなアメリカへの従属は、従属とは言っても、誰かを“殴りに行 かされる”ような従属です。原氏の提示している規定は、(アメリカへの)「従 属」しか見ていない、見ようとしない規定です。だから(アメリカからの)「自 立」ということしか言わないし、言えない。日本が他国を“殴りに行く(行ける ようになる)”というところに焦点を当てて、現代日本の安保政策の変遷・進展 を捉えようという発想は希薄となる。端的に言って、原氏の提示する規定には、 日本がアメリカに従属することなく「自立」的に“殴りに行く”事に対して、批判 的視座を提供する積極的要素は何もない。もちろん、現在において、現実的に自 立的な日本帝国主義が優勢となるような状況にはないでしょう。しかし少なくと も、日本が“殴りに行く”こと自体への批判的視座を欠落しているならば、それは 従属的に“殴りに行かされる”事への抵抗力についても(相対的に)弱めこそすれ 決して強めることにはつながらないでしょう。

 また、例えば日本企業・日本独占資本の途上国・アジア地域への進出・展開に目 を向ければ、現地での日本企業・資本を相手取った労使紛争等も起こっている。 さらに現地政府・当局がそういった問題を日本資本・日本多国籍企業の利害に 沿って対処しようとする、ということも起こっている。つまり日本企業・日本独 占資本の国際展開・多国籍企業化の進展ということを考えれば、商品(日本国内 で完成された製品)の輸出という段階から今日では資本(生産資本。海外生産工 場・現地法人)の輸出という段階にまでいたっているのは明らかであり、それは おおむね帝国主義の経済的側面のセオリーどおりの発展・展開の仕方である、と いっていいのではないでしょうか。しかし、原氏の規定からはこのような事態を どう位置づけるのかがまったく見えてこない。そして、日本の経済的側面での帝 国主義化の進展と、軍事的側面での相対的な帝国主義化の立ち遅れとのギャップ が、アメリカの軍事政策に従属する形で埋められようとしている、その「従属」 の部分しか見れない。

 原氏の現代日本政治に対する全般規定に、このような政治的諸事象・政治的諸課 題に対する弱さや不適合が発生するのは、そもそも原氏が、「官僚機構は資本と はちがって、歴史的には常に誰かの従僕としてのみ存在してきたものであって、 文字どおりの支配者たることが理論的にも歴史的にも予定し得ない存在なのです から、その「従属」は端から独立ということを望んでいない、望む能力のない 「従属」なのです。」と自ら規定する官僚機構のみを、「日本独占資本はアメリ カに「従属的に同盟」していても日本を支配する主体にはなっておらず、主体は 官僚機構である」として、日本を支配する主体に定め、独占資本をそこから完全 に除外・格下げしたことに本質的に起因するのではないでしょうか。

 しかも原氏の場合には、「日本を支配する主体」から除外された部分――被支配 者(原氏の場合は、「奴隷的なまでに官僚機構に引きずり回されてい」るらしい 「日本独占資本」もそこに含むのでしょう)・国民――を、現代日本政治(「日本 の国家権力の構造と腐敗の特質」)の形成における政治的プレーヤーとして見る 意識も希薄なようです(そのような位置づけからの記述がほぼ皆無です)(注4)。

「沖縄が日本の「従属」の内実をその全身で表現していると思うわけです。」

 前後の文脈から補完すれば、これは、“「日本の官僚機構は国内主権を握ってい るとはいえ、その主権はアメリカから任命された「現地支配人」ほどのものにす ぎず」「日米独占による二重支配というよりも、限りなくアメリカの一重支配に 近い支配が現在の日本で行われている」ことを、「沖縄」が――日米安保体制と米 軍基地の負担が過度に集中する困難と屈辱によって――「その全身で表現している と思うわけです。」”という意味でしょう。

 しかし例えば、この問題について語るとき、日米安保体制反対や沖縄の米軍基地 負担への拒否を、国民の総意(多数意見)としてこれまで示し得なかったこと、 そのことが、国民の総意(厳密には多数意思)として日米安保体制を容認し米軍 基地負担を沖縄に押し付けることになった(少なくともそれを長年放置すること になった)構造について目を向けることは避けて通れないはずです(注5)。歴 史が、現在が、いかに形成されてきたかを見るとき、支配者の行為に対する(消 極的・積極的受容も含む)被支配者・国民の反応や、被支配者・国民各層各部分 それぞれの反応(国民のある層の受容、またある層の反発、といった)の差・形 態や広がり具合、その要因についてもきちんと目を向けていくことは、絶対に不 可欠のことだと私は考えます。そこにこそ、被支配者・国民が自らこれまでの受 容を跳ね除け、それを過去のものにしていく展望も描いて行きようがあるのでは ないでしょうか(注6)。しかし原氏の記述からは、「アメリカ」なり「官僚機 構」なりへの国民・被支配者の反応・対応、それらが「日本の国家権力の構造と 腐敗の特質」形成に与えた影響や結果的に果たした役割等についてはほとんどう かがえない。しいて挙げれば原氏にも

「アメリカの支配下に国家運営をする官僚機構もその権力行使が経済成長に結び ついていた限りでは有能な役割を果たしてきたと言えるでしょう。売国官僚の行 政と国益が一致する蜜月の一時代が出現することになります。」

「日本国民の「おとなしさ」とか「温和さ」、「寛容性」、あるいは「和を持っ て尊しとなす」とか言われ、総じて物事を曖昧なままに受容する国民性」

という言及はあります。しかし注釈抜きの「国益」と言う語の安易な使用から伺 える――国民相互の利害の不一致や意見の対立に無頓着な――均質的・一枚岩的国民 観や、何を・なぜ・どのように(どの程度)といった「受容」についての具体 的・実証的分析検討抜きの「国民性」論から、いったいどれほどのものを私たち は得ることができるのでしょうか?

(注4)そのせいなのか、例えば“「日本の官僚機構」の「国内主権」”・“「ア メリカから」の「日本の官僚機構」に対する「現地支配人」への「任命」”・ “「限りなくアメリカの一重支配に近い支配」”といった理解と、戦後日本で行わ れてきた普通選挙権と秘密投票による自由選挙、それによって構成される議会制 等との関係、整合性についての解説も原氏はする気がないようです。また、「ア メリカ」が今日まで継続的に「限りなくアメリカの一重支配に近い支配」や、 「日本の官僚機構」を「現地支配人」に「任命」(という比喩を使って表現する ことが適切と言えるような状態を維持)し続けられる“仕組み”についての具体的 な検証も示されていません。しかし本来それこそが、「日本の国家権力の構造と 腐敗の特質」の最大焦点となるはずのものではないでしょうか?

(注5)ほんの数年前まで、私たちは福島なり福井なりへ原発を押し付けておい てそれでよしとしてきた、とは言えないでしょうか。だからこそ原発政策はこれ まで維持され続けてきたのではなかったでしょうか。しかし“実は押し付けにす らなっていなかった”(原発のリスク・弊害は全国(民)的なものである)こ と、そもそも“どこか・誰かに押し付けることが不必要だった、あるいは間違っ ていたのかもしれない”(そもそも原発が必要ない、必要とするべきではない、 脱原発のためのリスクや負担であればむしろ自分も引き受けたい・引き受けよ う・引き受ける必要がある)こと、が、いまや広く(再)認識されました。その ような幅広い層の認識の変化が、脱原発の世論と運動の高揚をもたらし、現に原 発政策を揺るがしているのではないでしょうか。脱原発への道はまだまだまった く予断・油断を許さない状況ではありますが、原発政策が今、かつてなく揺らい でいることは間違いない。その原発政策の、ほんの数年前までの不変不動ぶりと 今の揺らぎは、どちらも原発政策に対する国民の認識と反応(の差)に依ってい る、と言えるのではないでしょうか。

(注6)別の箇所で原氏は、「野田総理を代表格とする民主党議員たち」につい て「新党ブームの風に乗って代議士となり」云々と否定的に語っていますが、お そらく原氏は「新党ブーム」の時にはすでに選挙権を有していたのではないで しょうか?だとすれば、“「新党ブームの風に乗」せてそいつらを当選させたの はお前(ら)だろう!!”ということにもなります。もちろん原氏がそんな連中 を「新党ブームの風に乗」せて代議士にした(投票した)かは定かではありませ んし、個人的な責任を問おうなどという気もさらさらありません。しかしながら “「新党ブーム」の渦中に当事者(有権者)としてあった身として”、そんな連中 が代議士になってしまうような「ブーム」を許してしまった、あるいはそのとき 代議士になった連中が「野田総理を代表格とする民主党議員たち」となるに至っ た、という苦い政治的実体験についての分析や、それを踏まえての後の世代への 教訓などについても、ぜひとも申し送っておいていただきたいものです。

補遺、地方分権、君が代、「官僚支配」――政治主導の下での官僚(主義的)支 配・統制――

「君が代斉唱問題にしても、単純に思想信条の問題として切り込み、その問題が 50年代や60年代に持った政治的意味やその重みと今日との違いや、あるいは 現在の政治において原発問題や消費税問題が重大な問題になっている時に、国政 レベルではなく大阪市の君が代斉唱問題がどういう政治的比重を持つのかという ことはほとんど考慮されていないようです。」

 原氏は、「君が代斉唱問題」について、「単純に思想信条の問題として切り 込」むあり方に否定的・批判的態度を示しつつ、――「その問題が50年代や60 年代に持った政治的意味やその重みと今日との違い」「現在の政治において原発 問題や消費税問題が重大な問題になっている」「国政レベルではなく大阪市の君 が代斉唱問題」等を“理由”としてなのか――では、“原氏自身は”この問題にどのよ うに「切り込」むべきと考えているのか、については一切言及を拒否・回避して います。

 しかし、「君が代斉唱問題」について、「単純に思想信条の問題として切り 込」むことを批判し、その一方でなおかつ、「大阪市の君が代斉唱」それ自体は 「問題」であるという立場に立っているのであれば、直近の全国的政治課題には なり得ない「問題」でも(少なくとも大阪市においては現に政治課題として対応 している・対応せざるを得ない・対応を迫られている「問題」でもあります し)、この「問題」にどう「切り込」むべきかは示せるし、また――現在(残念な がら)行われている「単純に思想信条の問題として切り込」むあり方に変わるも のを――示すべきでしょう。

 そこでここでは、「大阪市の君が代斉唱問題」が、「現在の政治において原発 問題や消費税問題が重大な問題になっている時」に、それを直近の全国的政治課 題には位置づけ難い、という原氏の見解には同意しつつ、上記のような問題意識 から、「単純に思想信条の問題として切り込」むあり方に変わる「切り込」み方 について考えて見たいと思います。

 まずはじめに、――これはもしかしたら単に、私の情報不足、認識不足かもしれ ませんが――そもそも橋下は、日の丸・君が代の素晴らしさ、尊さ、重要性(日の 丸・君が代、あるいはそれらが体現する思想や歴史観の、思想的な優越性・優位 性)をもっぱらの理由・名分として、学校教育現場に日の丸・君が代を押し付け ているわけではない(少なくとも表向きの発言、理由付けとしては)ように、私 としては認識しています。橋下が、学校教育現場への日の丸・君が代押し付けを 正当化するロジックとして言のうは、もっぱら、“正式な決定事項だから”“命令 だから”“(有権者の負託を受けた)政治家が決めたことだから”というものであ り、日の丸・君が代の(体現する思想や歴史観、政治観の)正しさ素晴らしさ= 思想信条的側面を説こうという意思はほとんど感じられない、少なくともそうい う押し出しの仕方は希薄です(と、私としては認識しています)。このような認 識が正しいとするならば、そもそもこの押し付け問題に、「単純に思想信条の問 題として切り込」むのでは(少なくともそれだけでは)、到底対応しきれないと 思います。

 では、「単純に思想信条の問題」(だけ)ではない、とすれば、他に何が「問 題」なのか?

 “決定”の“中身”それ自体の正当性や妥当性を問い直そうとすることもなく、そ もそもの“決定”の“内容”そのものの必要性や有用性を説明することもなく、しゃ にむに“既定方針”“既成事実”として押し付け、押し通そうとする非合理性。その ような“決定”を、上意下達で(現場で、当事者(教職員)一人一人の口元を チェックするようなことまでして)画一的、一面的、強権的に執行しようとする 硬直しきったあり方――このような非合理性・あり方は、まさしく官僚(主義)的 支配統制、現場・当事者・住民・国民への露骨な「官僚支配・官僚主権」の一 例、といえるのではないでしょうか。つまり今、大阪市では、官僚(主義)的支 配統制、「官僚支配・官僚主権」の帰結として「思想信条の自由の問題」が生じ ている、と。ゆえに「大阪市の君が代斉唱問題」は「単純に思想心情の問題」で はなく、ろくに説明もできない非合理的名目での硬直的・強権的・画一的な上意 下達の地方教育官僚の学校教育現場支配・介入という「問題」もはらんでいるの ではないでしょうか?

 「大阪市の君が代斉唱問題」に対し、「50年代や60年代に持った政治的意味 やその重みと今日との違い」云々という原氏の記述がありました。しかし思え ば、例えばかつての教育労働運動には、日の丸・君が代の学校教育現場への押し 付けに対して――「単純に思想信条の問題として切り込」むだけではない――教育へ の政治介入・支配への反対、文部官僚による上意下達的な学校教育現場への支 配・統制への反対、ひいては学校教育現場の自主的・民主的運営にかかわる問題 の一環、という視座も、確かにあったのではなかったでしょうか。そして、少な くとも「大阪市の」学校教育現場から見れば、「50年代や60年代」の(“政 治”の意向も受けての)文部省・文部官僚が前面に出ての日の丸・君が代の押し 付けから、現在の(“地方政治”の意向を受けての)地方教育官僚が口パクチェッ クまでする日の丸・君が代の押し付けへと、押し付けを行う官僚の種類・形態が 変わっても、だからといって学校教育現場に突きつけられている「問題」として は、何も変わっていない――とも、言えるのではないでしょうか?

「日米独占による二重支配というよりも、限りなくアメリカの一重支配に近い支 配が現在の日本で行われていると考えており、“政治主導“とともに、“地方分権” という政策が、霞ヶ関の解体を意味し、したがってまた、日本の対米自立政策の “隠語”ともなりうる由縁なのです。」

 「霞が関の解体」と「地方分権」(注)――中央(官僚)の持つ支配権を地方(官 僚)に振り分ける――“だけ”では、「アメリカ」の「任命」する「現地支配人」が (「霞ヶ関」の一括請負から複数の地方官僚の支配権へと)分立するだけでしょ う。だからこそ原氏も、「“政治主導“とともに」ということを言っているので しょう。事実、「大阪市の君が代斉唱問題」における敵役が、「50年代や60 年代」の「霞ヶ関の」文部官僚から、口パクチェックまでする大阪の地方教育官 僚へと移り変わったところで、問題はなんら解決してないと言っていい。そし て、「大阪市の君が代斉唱問題」を、あえて「単純に思想信条の問題」とは別の 観点から考えたときに見えてくるのは、“地方分権”と“政治主導”をセットにして もなお「問題」がかならずしも解決しない――どころか「50年代や60年代」か ら連綿と続く「問題」が、解決するどころか再びクローズアップされるような事 態になっている――、ということではないでしょうか?

 「大阪市の君が代斉唱問題」は「単純に思想信条の問題として切り込」むだけで はすまない問題です。なぜなら「思想信条の問題」はひとつの具体的事象の結果 として生じているからです。その結果をもたらしている具体的事象とは、学校教 育現場への地方教育官僚の支配介入であり、そのような官僚支配・官僚主権の行 使のひとつの典型が、政治主導による日の丸・君が代押し付け方針によってもた らされていると言うことです。

 私たちが直面している諸問題・諸困難を軽減し解決できるか否かは、「単純に」 「“政治主導“とともに、“地方分権”という政策が」実現することによってではな く、“どのような”政治主導、“どのような”地方分権を実現するのか、“何をする ために”政治主導と地方分権を実現するのか、にかかっているのではないでしょ うか。それが、“中身を問われることのない”「政治主導」と「地方分権」が席巻 する、現在の政治情勢と政治力学を前にして私たちが、「大阪市の君が代斉唱問 題」から引き出すべき――「単純に思想信条の問題」にとどまらない――より全国 的・一般的な政治的教訓と政治的課題となるのではないでしょうか?

(注)なぜ、(地方官僚機構も含む)“団体自治”だけにとどまることなく、そも そも最初から“住民自治”をも明確に包摂している“地方自治”(の確立・拡大・強 化等々)という語ではなく、“住民自治”の概念が(含まれているのか?含まれる として、どの程度含むことを想定しているのか?)明確でない“地方分権”と言う 語が現在もっぱら使われているのか?ということからして、一度冷静に考えてみ たほうがいいのかもしれません。