私の投稿(田村氏への返事)へのレスをありがとうございます。
さっそくですが、丸さんのレスへの全般的な感想からはじめることにします。
ずいぶんと長い導入部を読んでいる時は何が言いたいのだろうと思って いまし
たが、後半部分で私への批判がはじまるや、それはそれは批判が満載で、やれや
れと思ったものでした。丸さんの批判は総括的に言うと、残念な ことに、私の
投稿の主題に正面から切り込んでおらず、単なる”いいがかり”か、八百屋で魚を
求めるような批判ばかりです。
私の投稿の主題は簡単な日本の国家権力の構造ということですから、私の言う
官僚主権に対して、丸さんが独占資本(官僚主権に対する財界・大企業 主権)
でも対置して批判をするのならば、それなりに生産的な議論になったことでしょ
う。
(1)、 しかしながら、丸さんの批判は次のようなものでした。
「まず消費税増税(阻止・反対)の問題に関連して」と題して、次のように私
を批判しています。私が官僚主権と規定していることを取り上 げ、
「果たしてこのような全般的規定によって、“日本独占資本に対して応分の負担 を提起・要求していく”式の運動を正当に位置付け、励ましていくこと ができる のでしょうか?「日本独占資本」を後景に退けることなく、きっちりと射程に捉 えて提起・運動をしていく上で、何か積極的な意義があるので しょうか?消費 税阻止・反対を政治的・実践的に考える上で何らかの合理性や意味があるので しょうか? はなはだ疑問で す。」
このような批判は”いいがかり”という他ありません。官僚主権と規定したのは
国家権力を掌握している者は誰だという事実の問題であって、消費税 増税反対
運動の問題とは別の問題です。別問題を関連させて論じるかどうかは論者のテー
マ設定によるのであり、私のテーマは丸さんの注文に応じて書 かれたものでは
ありません。
要するに、丸さんの主張は独占資本をターゲットにした方が運動はやりやすい
と言っているわけですが、二つは別問題なのであり、ある運動の都合で 国家権
力を掌握している者は誰かを決めることは本末転倒なのです。
また、丸さんは「消費税阻止・反対を政治的・実践的に考える上で」と言って
いますが、私の投稿の主題は国家権力の構造なのですから、別問題であ る消費
税増税反対運動を「・・・実践的に考える上で」という論点が欠けているのも当
然じゃないですか。私の投稿の主題じゃないのですから。この論 点は丸さんが
勝手に持ち込んで批判の材料にしたにすぎません。こういう丸さんの批判をない
ものねだりの八百屋で魚を求める批判だというので す。
(2)、丸さんの批判について、もうひとつやりましょう。丸さんはこう言って います。
『「日本の官僚機構は国内主権を握っているとはいえ、その主権はアメリカから 任命された「現地支配人」ほどのものにすぎず・・・」「日米独占によ る二重 支配というよりも、限りなくアメリカの一重支配に近い支配が現在の日本で行わ れている」
これを見てまず思い至るのは、この規定が日本とアメリカとの二国間関係の一 部しか見ていない・見ようとしないものだということで す。』
日米の支配-従属関係を「二国間関係の一部」と言うのであれば、形式的に見 れば「一部」と言ってもいいでしょう。しかし日本の国家権力の構造に ついて 述べる場合、国内の権力の所在とともに日米の支配-従属関係も述べないわけに はいきません。この支配-従属関係は「二国間関係の一部」では ありますが、国 家権力の支配-従属であり、日米関係の”根本”を言っているのです。”根本”を規 定しているのに形式論で「一部」だというのはいい がかりと言うしかありませ ん。仮に、中身のある批判するなら、自立が主で従属は”根本”ではないから「一 部」にすぎないのだとやってくるべきでし た。
ここで丸さんの主張に百歩を譲ってみましょう。丸さんが「一部」をみて他を 見ないという他とは次のことでしょう。
「日本の経済的側面での帝国主義化の進展と、軍事的側面での相対的な帝国主義 化の立ち遅れとのギャップが、アメリカの軍事政策に従属する形で埋め られよ うとしている、その「従属」の部分しか見れない。」
つまり、原は日本独占資本の「帝国主義化」の側面を見ていないというわけで す。 しかし、私のテーマは何度も言いますが、国家権力の構造であっ て、 「帝国主義化」の程度が対米自立に到らないかぎり従属という国家権力の構造は 変わりません。だから、あれこれの「帝国主義化」の現象を”小 論”で論ずる必 要はないのです。必要のないことまで論ずると丸さんの投稿のようにむやみに長 くなります。ここでも丸さんはないものねだりの八百屋 で魚を求める批判をし ています。
丸さんのこの議論は、丸さんにその自覚があるかどうか知りませんが、
1950年代末から60年代にかけて行われた「自立・従属」論争の頃から言
われてきた50年前の自立論者の主張そのものなのです。その意味では丸さんの
主張は化石のように古い。
それから半世紀も経ち、世界第二の経済大国になりながら自立への「ギャッ
プ」を埋められないのは、日本独占資本に自立する能力がないことを歴史 が証
明していると解釈する方が合理的です。私が言う従属が根本だという主張への傍
証になるでしょうし、それだから、なおさら「帝国主義化」に論及 する必要は
ないのです。50年前なら丸さんの主張も考慮の余地があったものの、今では”
まるでない”と言うしかありません。
50年という歳月は、歴史の上でもそれほど短い期間ではありません。近年で
言えば、第二次大戦から社会主義諸国の崩壊まで起きています。20世 紀前半
で言えば二つの世界大戦があり、日本史で見れば明治維新から日清、日露戦争を
越えて第一次世界大戦までが含まれます。また、マルクスの時代 にまで遡る
と、パリコミューン(1871年)からロシア革命(1917年)までが含まれ
ます。
これほどのことが歴史上に起きる歳月に、日本独占資本が自らの足で立つその
「雄姿」を現さないのですから、その「雄姿」を待望しても無駄という もので
しょう。日本独占資本は戦前の衣鉢を継ぐというべきか、独立不羈の精神もなけ
れば国家を担う胆力もなく、今では消費税の還付金(輸出戻し 税)や減税にた
かって事態を乗りきろうとしているようです。
日米軍の一体化はますます進み、日本独自に、アメリカの承認なしには海外派
兵はできるはずもなく、エネルギー問題でもイラン石油開発がアメリカ の横や
りで放棄させられ、経済のグローバル化のもとで日本独占資本も新興国での独占
間の競争に晒され、他国を経済的に支配するどころの騒ぎではあ りません。か
つて世界市場を席巻した日本の電機産業の現状が象徴的です。
今日、最強のアメリカ帝国主義でさえイラクから軍隊を撤収せざるをえない時
代に、失われた20年の迷路に迷い、GDP比2倍超の1000兆円の 債務を
背負い、大震災と膨大な費用を要する原発事故を抱えて沈みゆく日本の「帝国主
義化」など妄想にすぎません。
(3)、私としては私の投稿の主題(国家権力の構造)に関連する反論を二つも やれば十分なのですが、丸さんには不満でしょうから、もうひとつだけ やりま しょう。官僚機構の腐敗というサブテーマで書いた部分について、丸さんはここ でもテーマとは関係のない「国益」という私が使った用語に噛み ついていま す。こんな具合です。
「しかし注釈抜きの「国益」と言う語の安易な使用から伺える――国民相互の利害 の不一致や意見の対立に無頓着な――均質的・一枚岩的国民 観」
いかに国内に階級対立があるとはいえ、「国益」というものはあります。たと
えば、今騒いでいる領土問題がそうでしょう。庶民には無関係で何の経 済的利
益もないとは言えません。竹島であれ尖閣にしろ、歯舞、色丹でも国内の支配階
級の利益ばかりでなく漁民にとってもその所属の帰趨は生活に直 接に関わって
います。つまり国民の利益に関わっているわけですから「国益」という言葉を使
うのは妥当でしょう。
私が使った「国益」も同じです。丸さんの注文である「注釈」はしていません
が、無限定に使っているわけではありません。こう書いてありま す。
「アメリカの支配下に国家運営をする官僚機構もその権力行使が経済成長に結び ついていた限りでは有能な役割を果たしてきたと言えるでしょう。売国 官僚の 行政と国益が一致する蜜月の一時代が出現することになります。」
経済成長のあった時代には売国官僚の行政といえども「国益」を担ったと言っ
ているわけで、その時代は企業も大きくなったが庶民も長時間労働の苦 労は
あったものの、それなりに豊かになり「一億総中流」と呼ばれるほどになったの
ですから、「国益」という用語を使っても誤りではないでしょ う。
丸さんの批判するように「安易な使用」をしているわけでもなければ、
「・・・均質的・一枚岩的国民観」から使っているわけでもありません。「経
済成長と結びついていた限りでは」という限定がついているのですから。 そ
ういうわけで、このような丸さんの批判も”いいがかり”程度のものと 言わざる
を得ません。
(4)、先の投稿での最後のテーマは日本の左翼の偏狭さについてでした。やた
らと批判を振り回す日本の左翼の悪しき性癖を偏狭さと表現したのです が、こ
こで反論した丸さんの批判がその一例になるでしょう。「国益」という用語を使
うと、すぐに階級対立を忘れた証拠のように考える条件反射的な 対応や鬼の首
でも取ったような居丈高な物言いは、失礼ながら、私には丸さんの幼児性の現れ
のように見えるのです。
前にも言いましたが、取るに足りない末節の批判ばかりをいくら旺盛にやって
も、多くの人たちの共感を得ることはできないでしょ う。