「ずいぶんと長い導入部を読んでいるときは何が言いたいのだろう と思っていましたが、後半部で私への批判がはじまるや、それはそれは批判が満 載で、やれやれと思ったものでした。」(『現状分世紀と対抗戦略』欄、 2012,9,4付 原仙作『丸さんへの回答』 以下、出典のない「」表記は すべてここからの引用)
おそらく原さんが「ずいぶんと長い導入部」といっている部分こそが、前回の 私の投稿におけるメインです。読んでいただければわかることかと思いますが、 前回の私の投稿の『1』『2』『3』(おそらく原さんの言う「長い導入部」) が、その後の『4』『補遺』(おそらく原さんの言う「後半部」)無しでも、内 容的にそれ自体で完結している事は明らかかと思います(また、『4』『補遺』 は主に『3』との関連――官僚機構への問題意識の集中、他の諸要因の後景化――で 述べたものではありますが、こちらも『4』や『補遺』それぞれで――『1』 『2』『3』が無くとも――内容的には完結しているかと思います)。それを、 「後半部で私への批判がはじまる」までの「ずいぶんと長い導 入部」としか取 れなかったのは、原さんの自意識過剰です。原さんのそのような自意識過剰が、 前回の私の投稿の『1』『2』『3』を「読んでいるとき」に、原さんが「何が 言いたいのだろうと」しか思えなかった(おそらく)原因でしょう。なるほど確 かに、原さんがそのような自意識過剰な疑心暗鬼の目でしか前回の私の投稿を読 めなかったのなら、批判はおろか原さんの主張・見解への言及すら一切ない 『1』『2』『3』は、「何が言いたい」のかわからない(“いったい私の何 を、どこを批判しようというのだ?!”)ということになるのかもしれません (たぶん)。そして『4』『補遺』でようやく自分(原さんの主張・見解)への 批判を見つけて、“これ以前はすべて、「ずいぶんと長い導入部」に 過ぎなかっ たのだ!!”と、(結局『1』『2』『3』の内容については理解もよく考えも しないまま)後付け的な解釈で思い込んでしまった、といったところでしょう か。しかし、だとすればそれは、原さんの、自己に向けられる批判や疑問、異論 に対する神経過敏、過剰反応――「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」(中島敦 『山月記』)――を示すものでしかないでしょう。
「やたらと批判を振り回す日本の左翼の悪しき性癖を偏狭さと表現 したのですが、ここで反論した丸さんの批判がその一例になるでしょう。」
このように原さんはおっしゃっている訳ですが、原さんご自身が体現なさって いるように思われる、自己に向けられる批判への自意識過剰、神経過敏、過剰反 応といったものもまた、「日本の左翼の悪しき性癖」「偏狭さ」の「一例」の中 に原さんが付け加えられることを、この場を借りてご提案します。
それにしても今回、せっかく私の「幼児性」を云々しておきながら、「それは それは批判が満載で、やれやれと思ったものでした。」「ないものねだりの八百 屋で魚を求める批判」「鬼の首でも取ったような居丈高な物言い」といった、 (使わなくとも論旨展開上何の問題もないような)感覚的、印象批判的な「物言 い」を「振り回」さずにはいられない、自身の「幼児性の現れ」(かもしれない 言動)についてはすっかり棚に上げてしまう原さんのお姿は、「日本の左翼の悪 しき性癖」や「偏狭さ」を批判することが、必ずしも自らの「悪しき」左翼的メ ンタリティの克服を保証するものでもなければ証明するものでもない、という (考えてみれば当たり前の)事実を、改めて思い知らせてくれるものでした。
「悪しき性癖」や「偏狭さ」を克服できない「日本の左翼」から、組織的・思 想的に決別し、それらに対し公然と批判するに到ったとしても、自ら自身が「悪 しき性癖」や「偏狭さ」にとらわれたままでいるのなら、結局「多くの人たちの 共感を得ることはできない」かもしれません。もしかしたらそこに、日本で左翼 だけではなくリベラルまでもが一緒になって、退潮してしまっている原因のひと つがあるのかもしれません(リベラル云々については推測の域を出ませんが)。
1、原さんの『丸さんへの回答』の(1)について
私は前回の投稿の中で、「政治的・実践的諸課題との関連から」、消費税増税 反対・阻止の運動を例に、原さんの「日本の国家権力の構造」分析は実践的な運 動とは切り結び得ないものなのではないか、という疑問を呈しました。それに対 して原さんは、
「私の投稿の主題は国家権力の構造なのですから、……「・・・実践 的に考える上で」という論点が欠けているのも当然じゃないですか。」
と、回答されています。つまり、原さんの「日本の国家権力の構造」分析が、実 際にその「国家権力の構造」への対抗運動(この場合消費税反対運動)において どんな意味があるのか無いのか?役立ち得るものなのか?という点については回 答を拒否・回避しつつ(「“論点”が欠けているのも当然」)、「日本の国家権力 の構造」分析と「実践」(それは往々にして、「国家権力の構造」への対抗運動 とならざるを得ないでしょう)は、「別問題」と主張している訳です。
しかし仮に、その「日本の国家権力の構造」分析が、実際の「国家権力の構 造」への対抗運動の発展にとって齟齬をきたすものであるならば、そもそもの 「日本の国家権力の構造」分析の事実性を疑わせる問題にもなり得るのではない でしょうか?
私の前回の投稿での「――日本の国家権力の“構造”や腐敗の“特質”といった――こ とについて、歴史的事実としての妥当性を検証したり、諸事実との整合性につい て逐一疑問や反論を唱えたりすることはここでは行いません。」「しかしなが ら、そこでの記述のいくつかに関しては、今日における政治的・実践的諸課題と の関連から、二、三述べておこうと思います。」という、原さんの「国家権力の 構造」分析全体を根底から否定・批判しない“手ぬるさ”“穏便さ”を捉えて、批判 の仕方に対する批判、と言う形で回答されるのもひとつの回答の仕方なのかもし れませんが、原さんにその意思と能力と十分な論拠さえあれば、原さんが今回最 も重要視するところに「応じて」、ご自身の主張され る「日本の国家権力の構 造」分析の事実性について、争う乃至は補強するような形での回答・反論の仕方 もできたのではないでしょうか?
それを原さんがあえてしなかったのか、それともそれをできるだけの根拠や理 論を持ち合わせていなくてできなかったのかは、私には知る由もありませんが。
2、原さんの『丸さんへの回答』の(2)について
私は前回の投稿は、日本の対米従属それ自体を否定していません。ただ、その 対米従属のあり方を、「日本の官僚機構は国内主権を握っているとはいえ、その 主権はアメリカから任命された「現地支配人」ほどのものにすぎ」ない、「日米 独占による二重支配というよりも、限りなくアメリカの一重支配に近い支配が現 在の日本で行われている」(原仙作氏 『日本の国家権力の構造と腐敗の特質、 左翼の偏狭さについて』)と見なすことについて、疑問を呈したに過ぎません。 したがって、原さんの『丸さんへの回答』において、日本の対米従属否定論や自 立帝国主義化論への批判・反論として費やされている文言はすべて、“私への回 答としては”何の意味も無い無駄な文字の羅列に過ぎません。『 回答』としては 零点です(ただし、言われてもいないことに対して相応の文字数を割いて(無意 味な)反論を繰り広げる原さんの様は、ただの風車に居もしない巨人の姿を見出 して突撃するドンキホーテを思い起こさせてくれて、私をハラハラさせてはくれ ました)。
また、「自立」と「従属」の話ししか出てこない、つまり、従属帝国主義論や 日本の従属帝国主義化論については反論や批判、否定はおろか言及もないまま に、
「日本の「帝国主義化」など妄想に過ぎません」
と、原さんは言ってしまっているのですが、ここで本来原さんが、原さん自身が 書いてきたこととの整合性を失うことなく言えたのは、せいぜい「日本の“自立” 「帝国主義化」など妄想に過ぎません」ということのはずです。つまり、飛躍が あります。
このような原さんの不思議な論旨展開の理由となりそうなのが、次の一文とい うことでしょうか。
「私のテーマは何度もいいますが国家権力の構造であって、「帝国 主義化」の程度が対米自立に到らない限り従属と言う国家権力の構造は変わりま せん。だからあれこれの「帝国主義化」の現象を“詳論”で論ずる必要は無いので す。」
しかしこれを言うためには、まずは(おそらく原さんにとっては「あれこれの 「帝国主義化」の現象」の内の一つなのであろう)従属帝国主義化は(原さんに とっての)「テーマ」たるところの「国家権力の構造」を変えない、ということ について、論証なり説明なりをした上でなければならないでしょう。なぜなら仮 に、従属関係を形成・維持するためには“従属させる側”にも相手を従属させられ るだけの「国家権力の構造」や、そのような「国家権力の構造」を獲得していく “変化”が必要であり、かつ、従属していながら他方同時に第三国を従属させると いう状態も有り得る、そして現にそのような状態になっているかなりつつあると するならば、従属させられていながら同時に、その「国家権 力の構造」に“従属 させるための”「構造」も形成されるであろうからです。つまり、原さんが「私 のテーマは何度もいいますが国家権力の構造であって」と言うところの「国家権 力の構造」(が変わるか否かの)問題になります。原さんが「「帝国主義化」の 程度が対米自立に到らない限り……あれこれの「帝国主義化」の現象を“詳論”で論 ずる必要は無いのです。」と“断定”するためには、このような仮定はあらかじめ 否定しておかなければならないはずです。でないと、どんなに断定的に言い切っ たところで(むしろ断定的に言い切れば言い切るほど)、何の根拠も無い(少な くとも根拠を示せない)「妄想」と見なされても仕方ないからです。
もっとも、原さんがあえてこのような「妄想」と取られても仕方ないような書 き方をしたのか、それともただ「妄想」を書いただけなのかは、私には知る由も ありませんが。
3、原さんの『丸さんへの回答』の(3)について
私の前回の投稿の『4』では、(原さんにとっての)「テーマ」たるところの 「国家権力の構造」分析における“国民の不在”ぶりを指摘し、それでもわずかな がら原さんが「国家権力の構造」分析とのかかわりで国民について言及している 箇所について提示した上で、しかしその言及も原さんの「国家権力の構造」分析 における“国民の不在”ぶりとその問題点をなんら解消するものではないという観 点から、批判的に言及しました。
それに対し、原さんは当該箇所における自身の「国益」という語の使用の妥当 性を(それのみを)、ここでの私への回答として主張されているようです。
これは問題の矮小化ではないでしょうか?
「国家権力の構造」分析こそが、自分(原さん)にとっての最重要のテーマで あった、という立場から回答、反論するのであれば、(当該箇所における「国 益」という語の使用の妥当性についてだけでなく)原さんの「国家権力の構造」 分析における“国民の不在”ぶりへの批判についても、回答、反論する立場にあっ たのではないでしょうか。
そのような原さんにとっての「テーマ」たるところの「国家権力の構造」分析 全体にも関わる提起を、原さんがわざと見過ごしたのか、それとも回答、反論が できないために目を背けることにして回答、反論を回避・拒否したのかは、私に は知る由もありませんが。
ただし、今回の原さんのご指摘を受けて、私の、当該箇所における原さんの 「国益」という語の使用それ自体に対する批判的言及の仕方は、不適切であった と思い至りました。その点につきましては、謝罪させていただきたいと思いま す。あわせて、ご指摘いただいたことお礼申し上げます。
4、
「例えば“「日本の官僚機構」の「国内主権」”・“「アメリカか ら」の「日本の官僚機構」に対する「現地支配人」への「任命」”・“「限りなく アメリカの一重支配に近い支配」”といった理解と、戦後日本で行われてきた普 通選挙権と秘密投票による自由選挙、それによって構成される議会制等との関 係、整合性についての解説も原氏はする気がないようです。また、「アメリカ」 が今日まで継続的に「限りなくアメリカの一重支配に近い支配」や、「日本の官 僚機構」を「現地支配人」に「任命」(という比喩を使って表現することが適切 と言えるような状態を維持)し続けられる“仕組み”についての具体的な検証も示 されていません。しかし本来それこそが、「日本の国家権力の構造と腐敗の 特 質」の最大焦点となるはずのものではないでしょうか?」(丸 『脱原発、政権 交代、「官僚支配・官僚主権」批判』『4』『(注4)』)
私は前回の投稿において、「「日本の国家権力の構造と腐敗の特質」の最 大焦点となるはずのもの」として、上記引用で示した指摘を間違いなくしていた はずです。もちろん、「本来それこそが、「日本の国家権力の構造と腐敗の特 質」の最大焦点となるはずのもの」というのは、私がそう言っているに過ぎない のかもしれません。しかし、「しかし、私のテーマは何度もいいますが、国家権 力の構造であって、……」と、自ら「何度も」「日本の国家権力の構造」を「テー マ」としていた立場を強調し、かつ、私宛の「回答」として執筆した投稿におい て、私が「本来それこそが、「日本の国家権力の構造と腐敗の特質」の最大焦点 となるはずのもの」と言っていることについて、なんらの否定や反論 ・反証を 行うこともないばかりか、一切言及することすらないままに、
「丸さんの批判は総括的に言うと、残念なことに、私の投稿の主題 に正面から切り込んでおらず、単なる“いいがかり”か、八百屋で魚を求めるよう な批判ばかりです。」
とする原さんの見解には、いかなる論理的整合性も主張の妥当性・正当性も ありません。
「私のテーマは何度もいいますが、国家権力の構造であって」としなが ら、その「国家権力の構造」に「切り込んで」いる(「しかし本来それこそが、 「日本の国家権力の構造と腐敗の特質」の最大焦点となるはずのものではないで しょうか」と問うている)私の問いについては一切の「回答」を拒否・回避する という恣意的・選別的な「回答」を行い、かつ、その「回答」においても、これ までに指摘してきたように(「私のテーマは何度もいいますが、国家権力の構造 であって」といっていたにも関わらず)自身の「国家権力の構造」分析に本質的 に関わってくる仕方での「回答」はまったく行わないでおきながら、「丸さんの 批判は総括的に言うと、残念なことに、私の投稿の主題に正面から切り 込んで おらず、単なる“いいがかり”か、八百屋で魚を求めるような批判ばかり」「私と しては、私の投稿の主題(国家権力の構造)に関連する反論を二つもやれば十分 なのですが、丸さんには不満でしょうから、もうひとつだけやりましょう。(以 下、当該箇所における自身の「国益」という語の使用の妥当性についての主 張)」と言ってみたところで、それは根拠の薄弱なレッテル張り、稚拙な印象操 作の域を出ないのではないでしょうか。
もっとも、そのようなレッテル張りや印象操作が、原さんにとって意識的なも のなのか無意識的なものなのかは私には知る由もありませんが。
原さんの今回と前回の投稿の内容、およびこれまでの原さんとの幾度かの やり取りの経験から考えて、原さんが私に再回答されることは十中八九ないで しょう。それが原さんの、大げさに言えば生き方、少なくとも討論に当たっての 態度だということなのでしょう。それについて残念ながら非力な私には原さんの ために何もして差し上げることもできません。ただ、もし仮に原さんが再回答を 寄せられるのであれば、
「日本の官僚機構は国内主権を握っているとはいえ、その主権はア メリカから任命された「現地支配人」ほどのものにすぎず・・・」(『日本の国 家権力の構造と腐敗の特質、左翼の偏狭さについて』)
「日米独占による二重支配というよりも、限りなくアメリカの一重 支配に近い支配が現在の日本で行われている」(同)
等の原さんの「国家権力の構造」分析に対しての、私の前回と今回の投稿での問 いかけに「正面から」まずは回答なさることです。ついでに、差し出がましくも ご忠告させていただけば、それが、原さんの体面のためにもなることでしょう。 あるいは、回答ができないということであれば、これまで繰り返されてきたよう に無回答を決め込んでお茶を濁すのではなく、まずは原さん自信がそれを素直に お認めになることがよろしいでしょう。それが、原さんご自身の内にある、「日 本の左翼」と通底する「悪しき性癖」や「偏狭さ」「幼児性」と原さんが向き合 う、ひとつのきっかけになるのではないでしょうか。私の投稿に対して「やたら と批判を振り回す日本の左翼の悪しき性癖を偏狭さと表現したの ですが、ここ で反論した丸さんの批判がその一例」「鬼の首でも取ったような居丈高な物言 い」「幼児性の現れ」等のご評価を下さるのは、その後でも決して遅くはないと 思います。