出典のない「」についてはすべて、現状分析と対抗戦略欄2012,7,28 付け 原仙作『日本の国家権力の構造と腐敗の特質、左翼の偏狭さについて』か らの引用です。
1、
原氏は、「サンフランシスコ条約の締結による日本の形式的独立と占領軍の撤
退以降、日本の主権を掌握してきたのは国民(その代理人としての政治家)では
なく官僚機構であった」とする。そして戦後日本の民主主義についても「日本に
おける擬制的民主主義」、官僚機構は「半世紀にわたり国民をだますことに成功
してきた」とする。また、「日本独占資本はアメリカに「従属的に同盟」してい
ても日本を支配する主体にはなっておらず、主体は官僚機構である」として「日
本を支配する主体」から独占資本を排し、「日本を支配する主体……は官僚機構」
「官僚機構が国内主権を握り」「無答責の全権を行使する存在」であるとする。
しかし、なぜ官僚機構が「日本を支配する主体」、「国内主権を握り」「無答
責の全権を行使する存在」に成り得たのか(そして今なおそうあり続けられるの
か)という、肝心の“理由”について、原氏はあまりはっきりとは示していない。
だが、おおむね次の三点が理由として挙げられているように見える。
まず一点目として、原氏は、「日本を支配する主体」として「国内主権を握
り」「無答責の全権を行使する存在」としての日本の官僚機構のあり方は、「敗
戦によって無傷で占領軍支配の手足となって以来、一貫したもの」であるとし、
「絶対権力(GHQ)に近いものほど権力を持つのは容易に理解されるところで
す。」と結論付けている。
「占領軍支配の手足となって」「絶対権力」たるGHQに最も近い位置を占めた
官僚機構が、そのGHQから強大な権力を保障される、というのは、なるほどたし
かに「容易に理解されるところで」あろう。しかし、それはあくまで占領下とい
う限定された条件の下での説明にしかならない。占領解除後、GHQという「絶対
権力」による後ろ盾を失って以降も日本の官僚機構が同様の権力を維持し続けら
れたとするなら、それはどのような理由によるものなのだろうか?少なくとも
GHQ消滅後今日に到るまでの事態を(かつての)“GHQとの近さ”だけで説明するこ
とは困難であろう。その占領解除後のアメリカと日本の官僚機構との関係につい
ては、原氏は「アメリカの現地支配人でありながら国内的には官僚主権として現
れる」「日本の官僚機構は国内主権を握っているとはいえ、その主権はアメリカ
から任命された「現地支配人」ほどのものにすぎず、……」としている。しかしな
がら、そのような(日本の「国内主権を握」る「現地支配人」に日本の官僚機構
を「任命」し続けられる――比ゆ的な表現としても――と言い得るほどの)日本の官
僚機構に対する支配力、統制力を、アメリカはどのような方法によって行使して
いる(行使できる)のだろうか?本当にアメリカは日本の官僚機構にそれほどま
でに直接的で強力な支配力・ 統制力を行使し得た(し得る)のであろうか?も
しくはアメリカが日本の官僚機構に何らかの影響力を行使し得るとしても、それ
はどの程度までに直接的であったり、強力なものであったりするのであろうか?
本来、原氏の論において最も重要な、まさに根幹部分をなすはずであろうこれら
の点について、原氏は一切言及していない。
日本の官僚機構が「日本を支配する主体」、「国内主権を握り」「無答責の全
権を行使する存在」であるとする理由を、アメリカと日本官僚機構との直接的な
指揮命令系統仮説(「頭脳はアメリカであり、日本社会の神経中枢がはしる背骨
が官僚機構」)に求める原氏の論は、その根幹ともいえる部分について、ほとん
ど根拠や説明が提示されていないと言える。
次に二点目として、原氏は日本の官僚機構が「政治家のように国民の動向で容
易に変転する存在ではなく、連綿として続くことが予定され、また当の官僚機構
もその存続に自己の利益を見いだしている存在」であるする。しかし、これは日
本のみならず官僚機構一般に当てはまることであろう。このようなあり方(また
はこのようなあり方から発生する弊害)は、原氏も述べるところの「どの国にも
発生する官僚機構の弊害」の範疇であろう。特殊日本的な状況を説明する理由と
はなりえない。
三点目として、原氏は「日本の戦前を振り返れば、この官僚機構は天皇制国家
機構の柱石、「朕が股肱」として天皇の絶対権力を行使した存在」であったと
し、そのような官僚機構が「敗戦によって無傷で占領軍支配の手足となって以
来、一貫し」て、今度は「アメリカの現地支配人でありながら国内的には官僚主
権として現れる」ようになったとする。アメリカと日本の官僚機構との関係に関
して(の疑問)はすでに触れたので、ここで問題となるのは、日本の官僚機構の
戦前との連続性が戦後の「官僚主権」を根拠付ける理由となるのか?である。
戦後改革の不徹底が、日本の官僚機構における戦前との人的・組織的な連続性
を大きく損なわなかったことは確かであろう。しかしながら、官僚機構自体の人
的・組織的継続性は保たれ続けたとして、それだけで、戦前官僚機構の権力・権
限の延長上に戦後の「官僚主権」を根拠付けることは、はたして可能だったのだ
ろうか。例えば、戦後天皇制は戦前の絶対的とも言える強大かつ広範囲に及ぶ政
治的権力・権限を、制度的にはほぼ完全に喪失し、少なくとも制度上の地位・権
能はあくまで“象徴”に過ぎないものとされた。したがって戦後日本の官僚機構
は、戦前の官僚機構のように「天皇制国家機構の柱石、「朕が股肱」として天皇
の絶対権力を行使」する事はできない。戦後官僚機構はその活動に おいて、戦
前のように制度的に保障された天皇の絶対的権力に依ることは基本的に不可能で
ある。天皇の(絶対的権力という)後ろ盾は失われたのである。また、戦後改革
は国会ひいては政治家の権限の明文化、拡大強化をもたらした。少なくとも官僚
機構に対する政治主導についての制度的な保障、官僚機構にとっての制度的な制
約要件は戦前に比べ大幅に増大したと言える。つまり、官僚機構における戦前と
の人的・組織的連続性は維持されていても、官僚機構の権力を規定し、権限を行
使するに当たっての周りの条件・環境の方は明らかに“変わった”のである。それ
にもかかわらず、あくまで原氏の言う戦後の「官僚主権」なるものが戦前官僚機
構の権力・権限の延長上に根拠付けられるとするならば、このような官僚機構を
取り巻く環境、官僚機構が権限を行使する上での条件の変化についても対応する
説明がなされなければならないだろう。もっとも原氏は、「私が以前、日本の官
僚機構を戦前天皇制の「転化形態」と言ったのは、無答責でありながら主権を掌
握(独裁)する姿を指しています。」と、官僚機構の戦前戦後の連続性について
一定の留保を付しているとも取れる言及をしている。だが、戦後日本の官僚機構
が「戦前天皇制の「転化形態」と言」えるほどの「無答責でありながら主権を掌
握(独裁)する姿」を取ることを可能にしたその理由は何なのか?という点につ
いて、原氏が(官僚機構が戦後も「無傷」であったこと、と、占領期における
GHQとの“近さ”以外)何らも示さない以上、本質的な疑問はまったく解消されな
い。
ところで(原氏は直接には言及していないものの)、戦前と戦後の官僚機構を
中心とする諸制度の連続性を強調する見解に、いわゆる1940年体制論があ
る。戦前戦中の総力戦体制を構築した諸制度(およびその拡大・拡充)こそが、
戦後の高度経済成長に大きく寄与したとする説である。戦後の高度経済成長の要
因に着目した戦前戦後連続重視・強調論である。「官僚機構もその権力行使が経
済成長に結びついていたかぎりでは有能な役割を果たしてきたと言える」とする
原氏の見解とも合致しそうである。しかしながら、国家統制的な総力戦体制の構
築は、第二次大戦の主要参戦国においてはほぼ共通して見られる現象であろう
し、戦後の大きな経済成長も日本だけに限った現象ではない。1940 年体制
論が合致するのは(各国ごとで体制成立年代のばらつきはあるにしても)決して
特殊日本的な場合だけではないのではないだろうか。もっとも、日本の高度経済
成長が当時の他の先進諸国と比べてもより大きく持続的なものであった点には特
殊日本的な要因が推察されるかもしれない。その要因の一端として、日本の官僚
機構の「有能な役割」や「日本を支配する主体」として「国内主権を握り」「無
答責の全権を行使する存在」ぶりを挙げることはできるだろうか?しかしなが
ら、菊池信輝『財界とは何か』(平凡社)によれば、戦時統制経済の当事者であ
る財界人たちや戦後“所得倍増計画”を立案した官僚の下村治らは、戦時統制経済
をそもそも失敗とみなしていたという。そして実際、政府の策定する経済計画は
官僚の介入・統制を極力忌避するものとなり、またそもそも戦後政府の経済計画
自体が財界の意向を色濃く反映したものだったと いう。一方で、経済界の一部
(経済同友会系)にもあった安定成長路線が経済政策の持続的な主流となること
はなく、結果、野放図なまでの経済成長が達成されたとする。菊池氏の論は、そ
もそも「官僚機構もその権力行使が経済成長に結びついていたかぎりでは有能な
役割を果たしてきた」とすることすら否定していると言える。ここでは菊池氏の
論に全面的に依拠することは控えるにしても(注)、経済界の猛反発を受けて挫
折した(資本自由化をにらんで外資からの国内資本防衛を名目に通産省主導で企
業合併・資本増強も可能とする)特定産業振興臨時措置法案の例や、証券不況に
おける大蔵省の不手際(企業の株式発行方式を額面増資から時価発行による増資
へ移行させようとするも証券業界の反発で進められなかった)、それと鮮やかな
対比をなす党人派政治家・田中角栄蔵相主導での日銀特融決定と(私大卒で官僚
経験を一切持たない戦後初の民間出身総裁)宇佐美洵日銀総裁によるその実行が
大きく寄与した恐慌回避、等、「官僚機構もその権力行使が経済成長に結びつい
ていたかぎりでは有能な役割を果たしてきた」とすること自体、慎重な議論の余
地がありそうな――少なくともその まま無条件に前提にできるかどうかには疑問
の余地があるもの、とは言えるかもしれない。
ともかく、日本の官僚機構の戦前との連続性から戦後の「官僚主権」を理由付
けるには、原氏の言及はあまりに乏しく、貧弱であるように思える。
(注)菊池氏の『財界とは何か』は、これまであまり取り上げられてこなかった ように思われる財界(“団体”)の果たして来た歴史的役割を示そうとした点で、 決して無碍にはできないと思うが、入門向け、と言うか、説明や根拠の提示が大 雑把な気もする。現段階での私自身の意見としては“戦後日本の経済成長に果た した官僚機構の役割をどこまで見積もるかについては、なお議論の余地がある” (ゆえに、戦後の経済成長の多くを官僚機構の果たした「優秀な役割」や「官僚 主権」によるものとする見解を無条件に前提とすることはできない)というとこ ろにとどめたい。
2、
原氏は、「日本独占資本は……独立不羈の精神もなければ国家を担う胆力もな
く、今では消費税の還付金(輸出戻し税)や減税にたかって事態を乗りきろうと
しているようです。」(現状分析と対抗戦略欄2012,9,4付け 『丸さん
への回答』)と述べる。しかし、救貧法の時代から、資本主義が自己矛盾とそれ
によって引き起こされる危機(この場合貧困層の増大)に直面して、その解決
(この場合貧困対策)を国家等に「たかって」乗り切ってきたこことも「歴史の
事実」であろう。資本主義のシステムが国民国家によって提供される法制度や複
数の国民国家間で結ばれる条約や協定による制度的保障に本質的に依存している
ことは明らかである。それは“たかり”で片付けられるものなのだ ろうか。同様
に、少なくとも「日本独占資本」が国家からの「還付金」や「減税」を享受して
いることだけをもって、「独立不羈の精神もなければ国家を担う胆力もなく」と
決め付けられるのだろうか?それどころか、財政赤字がこれだけ喧伝される中に
あってさえ、もっぱら「日本独占資本」ばかりが「消費税の還付金(輸出戻し
税)や減税」等を享受できているとすれば、それはむしろ政治や官僚機構に対す
る独占資本の“優越”(逆に言えば、政治や官僚機構の独占資本への従属、“たか
り”ではなく“貢ぎ”)をこそ現していると解釈することすら可能だろう。少なく
とも原氏の論からは、そこまで踏み込んでの考慮の跡は伺えないように思われ
る。
また原氏は、「ここ20年来のアメリカによる金融的収奪や為替操作による円
高攻勢を受けて、「商人国家」の土台・足たる日本独占資本の急速な疲弊をもた
らしており、その疲弊がアメリカの現地支配人たる官僚機構(ここでは財務省・
日銀)を通じて行われていることが特筆されるべきことです。<原文改行>本来
なら日本の支配者たるべき日本独占資本の予想される当然の反撃(金融政策の大
転換やリフレ政策の強制、デフレ政策を推進する日銀総裁の更迭強行等)があっ
ても不思議ではないところですが、その反撃は見る影もなく、奴隷的なまでに官
僚機構に引きずり回されています。」とも述べている。確かに、「金融政策の大
転換やリフレ政策の強制、デフレ政策を推進する日銀総裁の更迭強行等」の諸施
策の実施は、日本の国民経済にとっての利益ではあるだろう。だが、それらは日
本資本主義にとっても、「予想される当然の反撃」であるのだろうか?
例えば円高は日本企業が海外進出・海外展開をする上ではそれらを割安なもの
としてくれるだろうし、国内だけではなく世界中から資金を集めることを考える
ならその点でも有利となるだろう。輸出競争力という観点からすればデフレはそ
れを底上げするであろうし、日本市場への外資の新規参入を難しくするかもしれ
ない(消費の低迷した市場で日本向けの十分なノウハウもないまま海外から新規
参入して利益を上げるのは簡単なことではないだろう。対して、日本企業の海外
進出はインフレ傾向にある国――言い換えれば消費意欲の旺盛な市場――に対して行
われてきた)。つまり、原氏が「当然の反撃」とするものは、多国籍化した(あ
るいは多国籍化へ向かおうとしている)資本にとっては必ずし も「当然」行う
べきものとは言えないのではないだろうか。原氏が、円高への「反撃」や「金融
政策の大転換やリフレ政策の強制、デフレ政策を推進する日銀総裁の更迭強行
等」を、「本来なら日本の支配者たるべき日本独占資本の予想される当然の反
撃」とするのは、日本資本主義と国民経済の利害は一致しているはず、と言う前
提、または日本資本主義が今日なお日本独占資本段階にとどまっている、という
前提に立っているからであろう。しかし、ひとたびその前提を疑い出せば(日本
資本主義と国民経済との利害の不一致、独占資本段階から多国籍資本段階への移
行、一国主義的資本蓄積様式からの転換)、「当然」と考えられたことも、必ず
しも「当然」ではなくなる。
また、原氏は円高をもっぱら外的要因としてのみ説明しようとしているようだ
が(「アメリカによる金融的収奪や為替操作による円高攻勢」)、円高は一面で
は戦後日本の輸出産業の劇的発展、日本の輸出立国路線の必然的帰結でもあるの
ではないか?むしろ輸出有利の1ドル360円という円安レートがあれほどの期
間継続できたことこそ特異なことだったのではないのか。これは、原氏が
「1985年のプラザ合意での円高容認にはじまる自己犠牲的なアメリカ支援を
皮切りに、冷戦崩壊後のアメリカの対日政策の転換(保護・育成から日本収奪
へ)で、この官僚機構が否応なしに「売国行政」を強いられる」としている点に
も関係してくるが、1950年代のワンダラー・ブラウス(1着1ドルの格 安
日本製ブラウス)問題からの日米貿易(摩擦)史を俯瞰するならば、先行する日
本の対米輸出攻勢(とアメリカ国内産業・労働者雇用の危機)に対するアメリカ
の「反撃」としての一面をプラザ合意に見いだすことすら可能かもしれない。一
方日本の輸出産業は、国内生産・組み立て品の輸出から欧米現地生産販売方式、
さらに東南アジア諸国への工場進出・そこからの対欧米輸出(迂回的対欧米輸出
方式)という海外展開・多国籍化戦略によって貿易摩擦や円高問題の回避を図っ
ていった。だが、そのような多国籍化した(多国籍化していく)日本企業・資本
の利害と国民経済の利害とは必ずしも一致するとは限らなくなっていくのではな
いか?
戦後日本の輸出産業の劇的発展と輸出立国路線、その延長線上としての日本企
業の多国籍化・日本資本主義と国民経済の利害の不一致について問い直すことな
く、円高や国民経済の危機をただただアメリカの「攻勢」や「売国行政」として
のみ語ることが、果たして本当に事態の解明や問題の解決につながるのだろう
か?
3、
原氏は、「マスコミや御用学者が官僚機構に操られる取り巻きと言うべき無残
な姿をさらしているのも今日の特徴として指摘されてしかるべきです。」として
いる。しかし、その「マスコミ」によって形成されたと言っても過言ではないで
あろう、今日世間一般に広く流布していると思われる官僚イメージに寄り添っ
て、原氏の論もまた展開されている、と言えはしないだろうか?そのような“イ
メージとしての官僚観”を、「日本を支配する主体」「国内主権を握り」「無答
責の「全権」を行使する存在」としての官僚機構観にまで純化させたものが、原
氏の「日本の国家権力の構造と腐敗の特質」論における官僚機構観と言えるので
はないだろか。だが、それはどの程度まで、理由や根拠の検証と提示の上に組み
立てられたものなのだろうか?
誤解の無いようにあらかじめ断っておくが、私は、日本の対米従属や官僚機構
の問題について不問に付したり、免責したり、ましてや否定しようなどというつ
もりは一切無い(対米従属の問題については今回触れることができなかったの
で、機会があればまた別途論じたいと思う)。例えば原氏の、日本共産党「新綱
領(2004年)では日本独占資本を「大企業・財界」というように言い換え、
非常にまずい誤った再規定(日本の官僚機構が排除されている)を行いまし
た……」という批判に、私は同意する。しかし原氏はその返す刀で「日本独占資本
はアメリカに「従属的に同盟」していても日本を支配する主体にはなっておら
ず、主体は官僚機構である」と、今度は「日本独占資本」を「支配する主体」か
ら「排除」してしまうのである。それによって原氏は、日本の官僚機構を「日本
を支配する主体」「国内主権を握り」「無答責の全権を行使する存在」に位置づ
けつつ「その主権はアメリカから任命された「現地支配人」ほどのものにすぎ」
ないとして「限りなくアメリカの一重支配に近い支配が現在の日本で行われてい
る」とする、非常に単線的でシンプルな指揮命令系統関係(「頭脳はアメリカで
あり、日本社会の神経中枢がはしる背骨が官僚機構、その腕が万年与党の自民党
や野田政権で、独占資本はその足にすぎません。アメリカの支配は主にその背骨
である日本の官僚機構を通じて貫徹されるのだということです。」)を提示する
ことを可能にし、私たちに「日本の国家権力の構造と腐敗の特質」についての実
にわかりやすい説明を提供してくれているように見える。だが、その“シンプル
さ”や“わかりやすさ”は、独占資本や戦後民主主義の諸制度とその果たしてきた
役割等々、多くのものを切り捨てもしくは過小評価することによって成り立って
いる。そのため原氏の論は、「日本の国家権力の構造と腐敗の特質」についての
一見わかりやすい説明のようでいて、実は“よく考えるとよくわからない”、ある
いは“説明しているようで(十分な)説明になっていない”ものとなってはいない
だろうか?
原氏および原氏の「日本の国家権力の構造と腐敗の特質」論に賛同する方々に
おかれては、今回私が指摘したような諸点も含めて――「限りなくアメリカの一重
支配に近い支配」の下、「アメリカから任命された「現地支配人」」たる官僚機
構が「無答責でありながら主権を掌握(独裁)する」(というのはあくまで原氏
の論によるならば、だが)戦後日本国家において、選挙や(今後の)“選挙によ
る政権交代”には何の意味があるのか?それも含めて「擬制」に過ぎないのか?
なぜ、長期にわたってあれだけ多額の”政治”に対しての献金が(とりわけ、経団
連方式によって個別企業や個別業界の痕跡をわざわざ消してまで)行われてきた
のか?政府の各種審議会や諮問会議とその財界代表委員・議員の果たして来た役
割はどう評価するのか?個別業界や経済政策の枠を超えるような財界団体の提言
や要望書の意味は何なのか?とりわけ、近年財界団体が憲法改正にまで踏み込ん
だ提言すら出すようになったことをどう位置づけるのか?等々、疑問とすべき点
は今回私が指摘したことだけでは到底不十分であろう――、再度「日本の国家権力
の構造と腐敗の特質」について検討・検証されることを望みたい。