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「現状分析と対抗戦略」討論欄

田村秋生さんへの再回答

2012/11/2 丸 楠夫

 田村秋生さんよりいくつかご質問いただきましたので、お返事させていただき たいと思います。

1、

①<上からの新自由主義的改革(改悪)を推進する立場からの「官僚支配・官僚 主権」批判と、生活擁護・民主主義の拡大という観点からの「官僚支配・官僚主 権」批判>をそれぞれ担っているのは「主に誰」なのか?
 私は、『脱原発、政権交代、「官僚支配・官僚主権」批判』(「現状分析と対 抗戦略」欄2012,9,1付)の中で、「“政治家による”政治主導の下での新 自由主義的な方向性による「官僚支配・官僚主権」打破こそが、実はいつのまに か現在の現実の政治情勢と政治力学における、政治主導論・「官僚支配・官僚主 権」批判・打破の基調となってはいないでしょうか。」「生活擁護・生活が第一 (反貧困・反新自由主義)と民主主義の(より直接参加型、当事者主義的な)拡 大という観点からの主張と運動を目的意識的に追及して、それを大きな声と運動 にしてかない限り、政治主導論・「官僚支配・官僚主権」打破の政治課題は容易 に上からの新自由主義的改革に回収されてしまうといえるのでは ないでしょう か」と述べました。したがって、それを踏まえて、かつ田村さんの質問に則して 言うなら、後者の<生活擁護・民主主義の拡大という観点からの「官僚支配・官 僚主権」批判>については、現状においては“誰も”(少なくとも「現在の現実の 政治情勢と政治力学」への有効な対抗運動たり得るほどには)担えていない、 が、私の回答ということになります。また、前者の<上からの新自由主義的改革 (改悪)を推進する立場からの「官僚支配・官僚主権」批判>については、もと もとが、田村さんの質問のような担い手論としてではなく、「実はいつのまにか 現在の現実の政治情勢と政治力学における、政治主導論・「官僚支配・官僚主 権」批判・打破の基調となってはいないでしょうか」という、「現在の現実の政 治情勢と政治力学」として私は述べました。ですから仮に、ここで特定の政治家 や政党の名前を挙げたり、あるいは“マスコミこそがその担い手だ”と言ってみた としても、「生活擁護・生活が第一(反貧困・反新自由主義)と民主主義の(よ り直接参加型、当事者主義的な)拡大という観点からの主張と運動を目的意識的 に追及して、それを大きな声と運動にしてかない限り」、事態はなんら改善する ものではない。そうでない限り、「政治主導論・「官僚支配・官僚主権」 打破 の政治課題」に対する個々の善意なり思惑、本来の意図を超えて、それは「容易 に上からの新自由主義的改革に回収されてしまう」(のではないか)というの が、私の意見です。ですから、強いて田村さんの質問の型(「「前者」は主に誰 を指すのか」)に押し込むとするならば、「ここまで述べてきたような点にまっ たく無自覚に、現在の現実の政治情勢における政治主導論・「官僚支配・官僚主 権」打破論に臨もうとする限り」(『脱原発、政権交代、「官僚支配・官僚主 権」批判』)においての私たち国民・主権者一人一人も含めた全員が、結果的に 「前者」の担い手になり得る(あるいは現に――自覚しているかどうかにかかわり なく――なっている)、ということになるでしょう。重要なのはあくまで、「生活 擁護・生活が第一(反貧困・反新自由主義)と民主主義の(より直接参加型、当 事者主義的な)拡大という観点からの主張と運動を目的意識的に追及して、それ を大きな声と運動にして」いくことです。
 この辺りについて詳しくは、再度『脱原発、政権交代、「官僚支配・官僚主 権」批判』をご一読ください。

②「“下からの「官僚支配・官僚主権」批判”は誰が、どんな行動で示しているの か」?
 例えば脱原発運動は、(それだけに止まるものではもちろんないにしろ)重要 問題が「官僚」をはじめとするごく一部の者の恣意的な利害関係だけによって決 定される(されてきた)ことへの批判・抗議、一般国民・住民への民主主義的決 定権奪還のための闘い、という要素も孕まずにはおかない運動であると思いま す。あるいはそれは脱原発運動に限らず、多くの社会運動がそれぞれそのような 要素をも担っていると言えるのではないでしょうか。
 ただ、それらにおいておそらく「官僚支配・官僚主権」としてイメージされて いるようなあり方に替わる政策決定のあり方として、「生活擁護・生活が第一 (反貧困・反新自由主義)と民主主義の(より直接参加型、当事者主義的な)拡 大という観点からの主張と運動を目的意識的に追及して、それを大きな声と運動 にして」いく点で弱さ、立ち遅れがある。それが、「官僚支配・官僚主権」批判 の点であたかも新自由主義的改革の方向と一見一致可能であるかのような見せ掛 け(ないし幻想)を生じさせているのではないでしょうか。あるいは政治家・政 党に対して、絶えず世論と運動の力によって圧力をかけ、規制しコントロールす べき存在、としてではなく、一方的に期待を寄せ(たい)、支持する(支持した い)存在(としての政治家・政党を探し求める)とする認識にもつながっている のではないでしょうか。そのような認識は上からの改革に期待する感覚ともつな がっていくでしょう(しかし、そのような上からの改革が新自由主義的方向性と 親和的となりがちなものである点については、すでに『脱原発、政権交代、「官 僚支配・官僚主権」批判』で指摘しました)。
 しかし、「民主主義の(より直接参加型、当事者主義的な)拡大という観点か ら」すれば、橋下徹のリーダーシップや小沢一郎の豪腕(注)に“お任せ”したが る発想には(その“お任せ”の対象が仮に(政権交代前の)民主党であろうと日本 共産党であろうと同じことですが)批判的にならざるを得ないでしょう。「民主 主義の(より直接参加型、当事者主義的な)拡大という観点から」重要なのは、 世論と運動・一般国民・当事者の力がより強くより直接的に政策決定の場に介入 していく機会の(運動面、制度面含めての)拡大であるはずだからです。

(注)ちなみに、以前わたしは「現状分析と対抗戦略」欄2011,10,29 付『原さん、人文学徒さんへの回答―原仙作氏の「丸さんの批判への回答」の検 討を通して』の「3、政治主導の分別」で、小沢の国会会期の通年化・官僚の国 会答弁禁止論について批判的に検討しています。よろしければ参照してくださ い。また私は、『脱原発、政権交代、「官僚支配・官僚主権」批判』の「4、」 の「(注)3」で、「民主党政権の“生活が第一”路線のつまずきの石となったの が財源問題でした。そしてなぜ民主党政権が財源問題で挫折に追い込まれたかと いえば、「官僚支配・官僚主権」に阻まれて財源問題で主導権を掌握できなかっ たこともさることながら、それと並んで(あるいはそれ以上に)、財界・大企業 ないし日本独占資本に対し、応分の負担を求めることができなかった(そもそも そのような発想があまりなかった)からではないでしょうか(そこにさらに “「成長戦略」――が民主党・鳩山政権にはない、と言う――批判”を切り口に、“生 活が第一”的諸政策の尻すぼみに追い込まれていったのではないでしょうか)? 社会保障財源や労働・雇用の問題において財界・大企業ないし日本独占資本との 対決も辞さずにそれらに応分の負担を強いることができるかどうか(再配分政 策・応能負担原則を貫徹できるかどうか)、そのような構想を体系的に示せるか どうか、こそが、新自由主義に決別して“生活が第一”の道に進めるか、それとも 再び新自由主義に回帰するかの決定的な分岐点なのではないでしょうか。」と述 べましたが、小沢を中心とする新党、“国民の生活が第一”は、その“生活が第一” 論において、このような欠陥も含めた“政権交代時の民主党の原点”を踏襲してい はしないでしょうか?

2、

 私は、前回の田村さん宛てのお返事で、「まず私が田村さんの見解を読んで単 純に思いついたことは、そもそも田村さんが言うところの脱原発依存派を、脱原 発運動・世論内の相違という範疇で捉える必要があるのか?そこにまず無理があ るのではないか?ということです。」「そうではなく、(田村さんが言うところ の)脱原発依存派イコール「可能な限り原発を存続させようとしている派」、と 捉えた方が、事態をより明確にするのではないでしょうか。」「このような見方 を、私は今回、田村さんに逆提案したいと思います。」と、述べました。
 それを踏まえて、例えば今回田村さんが「僕が最も攻撃したい」と言う「「菅 直人」派」についても、それを「可能な限り原発を存続させようとしている派」 として捉えるなら、「これは「同床異夢」と言う表現では全く言えない、そこに “欺瞞”があると言っているのです。」「それは「同床異夢」という表現で許せる ものではありません」という言い方が、そもそも当らないのではないでしょう か。むしろ田村さんの「「菅直人」派」認識から考えれば、それを田村さんが 「脱原発依存派」「という表現で許せる」ことが、正直私には不思議です。それ こそ田村さんの「「菅直人」派」認識に則るなら、「それは“「脱原発依存派」” という表現で許せるものではありません」、となりそうなもののように私には思 えました。
 私の提案した、「可能な限り原発を存続させようとしている派」の呼称を退け ての、田村さんのあえての「脱原発依存派」という呼称へのこだわりについて は、これ以上私がとやかく述べることはありませんが、「同床異夢」という語の 使用法については一言述べておきたいと思います。
 「同床異夢」という語の意味について、田村さんは「そしてそれ「同床異夢」 ということは“同類”“同質”であると言い、……」としています。なるほど確かに 「同床異夢」を「“同類”“同質”」の意で解するなら、「これは「同床異夢」と言 う表現では全く言えない、そこに“欺瞞”がある」「それは「同床異夢」という表 現で許せるものではありません」という言い方にもつながるのかもしれません。 しかしそもそも、「同床異夢」に「“同類”“同質”」の意味はないでしょう。むし ろ、“本来であればまったく異質な相容れない考え・目的を持つはずのもの達 が、(一時的にせよ)一見するとあたかも同じ立場に立っているかのように見え る”というのが、「同床異夢」の意味でしょう。少なくとも「同床異夢」と言う 語の使用に対し、田村さんのようにもっぱら、「“同類”“同質”」の意を読み取る 方が、「同床異夢」の用例としては異質であるように思います。

 最後に、私からも田村さんへいくつか質問・要望させていただきたいと思いま す。

①朝日新聞2012年8月26日付(三面)によると、2030年時点での原発 比率について、新党“国民の生活が第一”所属国会議員37人中34人が「0パー セント案」を支持しているそうです。その一方でなぜか、「国民の生活が第一は 「10年後をめどに原発全廃」を掲げているのに、核燃料サイクルの廃止には慎 重な議員が目立った。7割近い25人が「なお検討が必要」(牧義夫・幹事長代 行)と回答。ほかの野党議員の多くが廃止を選んだのとは対照的で、……」とのこ とらしいのです。この不可解な「慎重」さについて、田村さんはどのようにお考 えでしょうか。ぜひともお聞かせください。
 念のために言っておきますが、別に私は、この報道からだけで新党“国民の生 活が第一”全体を判断しようとか、ましてや全体として否定しようという意図は ありません。
 ただ田村さんが、政治家の脱原発への姿勢を評価するに当たって非常に厳格な お考えをお持ちのようであり、なおかつ、「小沢ら」について「「脱原発=原発 ゼロ」派思考」と評価・位置づけられていることから、この点について、田村さ んがどのような整理・評価・お考えをお持ちなのか、ぜひともお聞きして、判断 材料のひとつとしたいと考えています。

②田村さんは「「菅直人」派」の言動を挙げつつ、それについて「得てして、そ れは“左”的人間の裡にある偽善であり、欺瞞、そしてそれは国民(昔は「人民」 という言葉を使ったけど)への“裏切り”へと連なります。僕はもっとも“侮蔑し たい”言葉が、「裏切り」です。僕には、報復さえ意味するほど、許せない対極 にある人間です。」と述べています。そこでぜひとも田村さんには、「「菅直 人」派」に裏切られた=つまりは一時的にせよ「「菅直人」派」に対してそれだ けの信頼・幻想を寄せてしまっていた、(それはなぜだったのか?)ということ について、自己省察、自己分析も踏まえた教訓、忠告をわれわれ下の世代の者に 申し送っていただきたいのです。そうすれば、それによって今度また(「「菅直 人」派」とは)別の誰かに再び裏切られる事態を防ぐことができるかもしれない からです(例えば振り込め詐欺において、個々の犯人グループの逮捕と並んで、 犯行の手口や被害者の“思わず振り込んでしまう際の状況・心理”などについても 研究、啓発が大切なように)。

③田村さんは、「孫崎享『戦後史の正体』は、実際は僕は読んでいません」との ことですが、同時に、「「戦後史」の孫崎氏言及があらましわかってい」るとの ことですので、その立場から、前回私が紹介した書評(Valdegamas侯日常 過剰 に大きな星条旗―孫崎享『戦後史の正体』を読む http://d.hatena.ne.jp/Donoso/touch/20120811 /1344673761)について田村さんのお考えをお聞かせください。