はじめに
原仙作氏は、日本のアメリカへの従属をもたらす要因とその構造について、まず国
内的に「日本独占資本はアメリカに「従属的に同盟」していても日本を支配する主体
にはなっておらず、主体は官僚機構である」とし、しかしその「日本の官僚機構は国
内主権を握っているとはいえ、その主権はアメリカから任命された「現地支配人」ほ
どのものにすぎず」(それを「人体になぞらえて言えば次のようになります。頭脳は
アメリカであり、日本社会の神経中枢がはしる背骨が官僚機構、その腕が万年与党の
自民党や野田政権で、独占資本はその足にすぎません。アメリカの支配は主にその背
骨である日本の官僚機構を通じて貫徹されるのだということです。」)、そのため
「日米独占による二重支配という よりも、限りなくアメリカの一重支配に近い支配
が現在の日本で行われている」と説明する(『現状分析と対抗戦略』欄 2012,
7,28付け 原仙作『日本の国家権力の構造と腐敗の特質、左翼の偏狭さについて』
以下、原『特質』)。
本稿では、日本の対米従属の要因や構造を、そのような外在的にシステム化された
指揮命令関係――アメリカが日本の官僚機構を「現地支配人」へ「任命」する・「任
命」できる(と言っても過言でないほどの直接的な統制力・指揮権限を行使している・
行使できる)。「頭脳」である「アメリカの支配」が、「日本社会の神経中枢がはし
る」「背骨である日本の官僚機構を通じて貫徹される」――仮説からではなく(注1)
、戦後日本の立脚点とその歩んできた道のりから、より内在的・内発的な問題として
の説明を試みたい。
この試論が、日本の対米従属問題を論じるにあたってのひとつの踏み台、たたき台
となれれば幸いである。
(注1)原氏はこのような説を提示するに当たって、アメリカはどのようにして日本 の官僚機構を「現地支配人」に「任命」する(できる)――(「任命」は比ゆだとし ても)と言い得るほどの日本の官僚機構に対する直接的な支配・統制力を行使してい る(できる)――のか?「頭脳」であるアメリカは、“いかにして”「日本社会の神 経中枢がはしる」「背骨である日本の官僚機構」と――「アメリカの支配」を「貫徹」 させられるほどに――“接続”されているのか?といった、最も重要な、根幹をなす 部分についてほとんど説明していない。また、この原氏の「日本の国家権力の構造と 腐敗の特質」論への支持を表明する(「原さんの考えとほとんど同じです。」 『現 状分析と対抗戦略』欄 2 012,9,10付け 『丸さんの“脱原発”運動の見 方に対する異論』)田村秋生氏も、この点については何も言及しないままに、原氏へ の支持を表明している。原氏の対米従属論の土台であり、また、それにもとづく実践 的な対抗運動を行うにあたっては最大の焦点とせざる得ないであろう部分について明 らかにしない(できない)ところに、原氏の論のそもそもの致命的な弱点ないし破た んがあると言える。
1、「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」」からは最も遠い形態とし ての日本の対米従属
・(資本主義的な)植民地支配
原氏は、日本のアメリカに対する「「従属」は20世紀初頭の植民地全盛時代の
「植民地的従属」とは違いますが、それに近いと言ったほうが実態をより良く表現す
るものだと思われます。」「日本の官僚機構は国内主権を握っているとはいえ、その
主権はアメリカから任命された「現地支配人」ほどのものにすぎず、……植民地を彷
彿させるに十分」なものとする(原『特質』)。
さて、1945年の敗戦を迎えるまで、日本は植民地宗主国であった。複数の海外
領土・民族を統治する、文字通りの“大日本帝国”であった。その大日本帝国が、敗
戦によって、広大な軍事占領地からの軍人・軍属の「復員」の問題と並んで直面する
ことになったのが、「引き揚げ」であった。植民地(朝鮮、台湾、いわゆる「南洋諸
島」、実質的植民地としての「満州国」等)には文字通り、膨大な日本人(日本出身
者)が植民していた。また、大日本帝国から植民地に対して行われたことは植民だけ
ではなかった。戦後、日韓国交交渉第三次会談(1953年10月)の席で日本側首
席代表・久保田貫一郎は次のように発言する(以下、日韓交渉に関しては朝日新聞2
000,8,21付『日韓交 渉 米の仲介裏付ける公文書』による)。
「日本としても朝鮮の鉄道や港を作ったり、農地を造成したり、大蔵省は多い年で二 千万円も持ち出していた。」
久保田が言っていることは嘘ではないであろう。なぜなら、比較的短期間に富の源 泉そのものを破壊し、枯渇させてしまう単純で原始的な収奪ではなく、資本主義的な 植民地支配(「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」」(原『特質』)) を行うのであれば、植民地に対する宗主国からの資本投下は必須だからである。資本 主義的な植民地支配とは、軍隊・警察等の強制力を背景に領土・人民を政治的に直接 統治することで資本主義システムのもとでの資本投下―搾取(投資分を回収し利潤を 得る)の関係を導入するものだからである。もちろん資本投下は支配する側の都合と 利益のためにおこなわれるのであり、それも含めて強制的な支配の一環であった。し たがって当然のことながら、 会談の席での久保田の発言に対しては韓国側から、 「二千万円とかの補助は韓人のために出したのではなく、日本人のために出したので、 その金で警察や刑務所を作ったではないか」「なぜカイロ宣言に「朝鮮人の奴隷状態」 という言葉が使われているのか」と反論・追及されることになるのだが、「警察や刑 務所」といった、植民地支配への反抗を押さえ込み、領土・人民を政治的に直接支配 する上でのコスト(統治のコスト)も含めて、資本主義的な植民地支配が、宗主国側 からの持ち出しを不可欠としていることは疑い得ない。そして、「20世紀初頭の植 民地全盛時代の「植民地的従属」」(原『特質』)を解消する(植民地からの宗主国 の撤退、植民地の解放)ということは、宗主国からのそれら持ち出し をすべて棒に 振りかねない行為だった。資本主義的な植民地支配とは、長年にわたる莫大な資本投 下、植民地に在住する膨大な宗主国人(宗主国出身“同胞”)の生命と財産(注2) の“重み”を、支配する植民地宗主国の側も背負い込むことで、宗主国にとってもお いそれと“引くに引けない”状況を作り出すものでもあった。つまり、「20世紀初 頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」」(原『特質』)とは、植民地に対する支配 の継続以外の選択を採ることを宗主国にとっても困難にさせるものでもあった。だか らこそ、例えば日本軍復員後のフランス領インドシナ(現ベトナム、ラオス、カンボ ジア)で、あるいはオランダ領東インド(現インドネシア)で、それぞれの植民地宗 主国は解放・独立運動に対 する頑迷なまでの抵抗を繰り広げた(一面では、繰り広 げざるを得なかった)と言えよう。大日本帝国の場合は、敗戦に伴って短期間で一気 に、他律的に植民地を喪失したために、宗主国としての持ち出し(本国からの植民者 の生命、現地での生活・財産含む)について、ほとんど意識される暇(時間的、状況 的余裕)がなかっただけである(注3)。
(注2)アメリカ映画「地獄の黙示録」はベトナム戦争を舞台としているが、作中、
奥地のプランテーションに残り続ける(ベトナムの旧宗主国である)フランス人の農
園主一家が登場する。この作品はもちろんフィクションなのだが、異国の地であれ、
そこで一旦生活を確立してしまった者はおいそれとそれを捨てて帰ることはできない
であろうことは想像に難くない。
これとはまた逆に、日本の植民地支配下時代の朝鮮半島出身者で、戦中に強制連行
等によって日本に連れて来られた者は戦後比較的早期に帰国するが、戦前の時点で植
民地朝鮮を出て、すでに日本での生活を確立してしまっていた者は、多くが日本在留
を選択した(せざる得なかった)という(宮崎学『不逞者』(幻冬舎アウトロー文庫)
参照)。
(注3)「引き揚げ」が植民地(喪失)問題として語られることはあまりないのでは ないだろうか。(大日本帝国敗)戦後の“日本国”において、植民地の喪失やそれに よる喪失感(かつての“植民地宗主国(民)としての”屈折や複雑な感情等)が、政 治的にも文化的にも大きくクローズアップされることはなかったように思われる。
・非植民地的支配形態
第一次、第二次両大戦は世界の主要国が植民地・国外領土の直接的な支配権をめぐっ て争った戦争だった。しかし、その二つの世界大戦後に新たな世界の覇権国家として 浮上したのは、ほとんど植民地を持たないアメリカ(アメリカにとって最大にしてほ とんど唯一の植民地らしい植民地フィリピンは、1934年の時点で10年後の独立 が決定していた)であり、ソ連だった。ソ連が、とりわけスターリン体制化において 領土拡張主義を採ったことは確かであるが、それでも、ソ連の国際的な覇権、他国へ の影響力・支配力の主要因を、ソ連一国としての領土の広大さ、領土の拡張に求める ことはできないだろう。アメリカの(そして少なくともある程度まではソ連の)世界 覇権は、かつての大英帝国 のように広大な海外領土とその人民を直接に統治するこ とによってではなく、戦後の国際的な(少なくとも多国間の)政治・軍事・経済シス テム作りを主導し、そこでの重要な役割を独占的に担い、かつそのシステムの存立を 実質的に保障することによっていた。もちろんそれらが、究極的にはアメリカ(また はソ連)の強大な軍事力を担保として維持されてきた面も疑い得ないだろう。だがそ の軍事力は、アメリカが直接に統治できる領土の拡大のために用いられたわけではな かった。アメリカの世界覇権、国際的な支配力は、少なくとも植民地帝国の場合と比 べれば、同胞たる植民者達の生命や生活、直接統治の一環として行われる(行わざる を得ない)長期にわたる莫大な持ち出し、統治に対する現地住民の反 抗といった、 「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」」(原『特質』)における支配 国のようなコストやリスクを抱え込むことの少ない支配形態だった。実際、1990 年代初頭、アメリカはフィリピンのスービック海軍基地の継続使用を望みながら、フィ リピンに拒絶され、ついにフィリピン駐留米軍は完全撤退することになるが、その後 もアメリカはフィリピンにおいて(少なくともかつての少なからぬ植民地宗主国が被っ たほどの)人的・経済的損失を被ることはなかったようであるし、また、フィリピン は2000年代に入ってもアメリカの対テロ戦争やイラク戦争に協力している。アメ リカのフィリピンに対する支配力、影響力は、軍隊の駐留といった直接的な軍事的圧 力(とそれに付属する 種類の政治的支配力)によって担保されているわけでは必ず しもないようである。これがもし、「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従 属」」において、宗主国が植民地駐留軍を完全撤退させるようなことがあったら、少 なくともその支配の動揺、そしておそらくは支配の崩壊も避けがたかったのではない だろうか。しかしアメリカにとっては、海外に軍隊を派遣し、駐留させるにしても、 その派遣や駐留の継続に関しては(少なくともかつての植民地駐留軍と比べれば、相 当に)流動的な要素の強いもののようである。アメリカは、海外領土の直接的な統治 に関心がないのと同じく、ある特定の国への軍隊駐留にも、固執しているわけではな いのかもしれない。少なくとも、アメリカの国際的支配・世界覇 権の形態は、かつ ての植民地宗主国が必然的に自ら追い込まれていった、特定の領土に対しての“引く に引けない”支配形態と違って、よりフリーハンドの余地が大きく、より選択の幅も 広いようである。
・「撤退」という恫喝?
1952年の段階で、アメリカ国家安全保障会議(NSC)は、「将来日本が、本土
の基地使用を著しく制限・排除する可能性がある」とする文書(NSC125/2)を採択し
ていた(以下、冷戦下の日米安全保障条約をめぐる日米関係については朝日新聞20
0,8,30付『同盟半世紀 機密解除の米公文書と高官40人インタビュー』によ
る)。55年1月、極東軍司令官ハルはアメリカ本国へ宛て、「日本人の間に、中立
主義に行き着く現実離れの傾向が強まっている。米国の最善の利益のため、この障害
が克服されるべきだ。」「日本は今も米国にとって死活的に重要で、防衛の強力な前
哨基地として役立つ。日本が共産化すれば、経済・軍事力が共産側に大きく移り、島
嶼防衛線は破られ、韓国、沖縄、台湾も失うことになるだろう」と電文を送り、10
月にはNSC実施調整局からも、日本について「政府指導者の無力などに加え、中立主
義感情の深刻な増大、反米感情の周期的な激発が見られる」、と対日政策についての
警告が発せられる。同年4月、大統領アイゼンハワーは、「米国と固く結ばれ、共産
中国への対抗勢力として役立ち、極東の自由世界の力に貢献する強い日本が、最も国
益にかなう」「より健全で積極的なナショナリズムが発展することは、日本が大国と
して再生するうえで緊要だ。このナショナリズムを日米提携の文脈に取り込むことが、
政策の基本問題である」とする新対日政策(NSC5515/1)を承認する。日本本土への
アメリカ軍の駐留を維持・継続するために、いかにして日本国内の「中立主義」に対
処していくか?が、当時のアメリカの対日方針・極東戦略における大きな課題となっ
ていたのだった。
ところが、57年6月の日米首脳(岸信介・アイゼンハワー)会談で大統領アイゼ
ンハワーは、「われわれは、どこであれ、望まれぬ場所にはいたくない。従って、兵
力撤退の開始を考慮する用意がある」と発言。さらに翌日、統合参謀本部議長ラドフ
ォードも岸に、「日本の国内政治の目的に役立つなら、日本からの全兵力撤退も可能
だ」と述べる。また、別の場で国務長官ダレスも、「米国が日本から離縁するのが望
みなら、米国はその願望にこたえよう」と発言したという。確かに、当時アメリカは
予算上の理由から、在日米軍地上部隊の一部撤退の検討をしてはいた。だが、首脳会
談直前の軍の報告書でも、「日本への前方展開は、極東における米国の立場にとって
不可欠」とし、「全兵力撤退」 を検討した形跡はないという。この日米首脳会談か
ら1年後、アメリカのマッカーサー駐日大使は、「もし必要なら、日本から全兵力を
撤退するとわれわれが同意した時、米軍撤退運動は力を失った」、とアメリカ本国へ
電文を送る。つまり、アメリカ側の一連の「全兵力撤退」発言は、アメリカが懸念し
ていた日本の「中立主義」、「米軍撤退運動」への“対処”として行われたものであ
り、その言葉とは裏腹に、“日本本土へのアメリカ軍の駐留を維持・継続することを
目的とした”外交的駆け引き、早く言えば日本への“ハッタリ”であった。
しかしここで奇妙なのは、アメリカは日本に対して自らの目的を貫徹するために、
支配国として従属国たる日本に、例えば現に今駐留している兵力(の存在)で威圧し
たり、“軍隊を(さらに)送り込む”という様なことを示唆して――つまり日韓併合
条約締結に当たって、日本が当時の韓国に対して行ったような手法で――“恫喝”す
るのではなく、逆に日本から「全兵力を撤退する」――相手国に自国軍を駐留させる
ことに伴って一般的に生じるであろうと考えられる、相手国に対しての圧力、影響力
をむしろ自ら進んで放棄する――と言っていることである(それが実際には“ハッタ
リ”にすぎなかったにしても)。その上、「全兵力撤退」の申し出を日本側が受け入
れることをアメリカ側ははじめ から想定していない=日本側は米軍撤退の申し出を
受け入れない(受け入れられない)、と最初から踏んでいる節すらある(受け入れら
れてしまう可能性があれば“ハッタリ”にならない)。それで通用するとアメリカは
判断し、また実際それで――マッカーサー駐日大使によれば――通用した(とアメリ
カが判断するだけの、アメリカにとっての成果があった)。
原仙作氏によれば、日本のアメリカに対する「「従属」は20世紀初頭の植民地全
盛時代の「植民地的従属」とは違いますが、それに近いと言ったほうが実態をより良
く表現するものだと思われます。」「日本の官僚機構は国内主権を握っているとはい
え、その主権はアメリカから任命された「現地支配人」ほどのものにすぎず、……植
民地を彷彿させるに十分」なものである(原『特質』)、とする。だが「、20世紀
初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」」において、植民地の「中立主義」や宗主
国軍「撤退運動」に対し今後とも宗主国軍の駐留を維持するために、仮にその植民地
から宗主国の「全兵力を撤退すると……同意した時」、その宗主国の目的は果たして
達成されるものだろうか?普通 に考えれば、(たとえ“ハッタリ”のつもりで「全
兵力撤退」を言ったとしても)植民地従属体制のいっそうの動揺すら招きかねないの
ではないだろうか?日本の対米従属の形態は、「20世紀初頭の植民地全盛時代の
「植民地的従属」とは」“まったく”異なる、むしろ「それに近い」どころか、その
ような「植民地的従属」からは最も遠い形態としての「従属」、と言うべきなのでは
ないだろうか。
本来、日本本土へのアメリカ軍の駐留の維持・継続というアメリカの要求は、「中
立主義感情の深刻な増大、反米感情の周期的な激発が見られる」当時の日本の国内事
情に明らかに反するものであった。そのような要求を日本側に飲ませる、強いる(つ
まりは従属させる)ための言葉として、アメリカ側の一連の「全兵力撤退」発言がな
されたのであれば、(普通には思いもよらないことであろうが)「全兵力撤退」発言
にはそれだけの威力――日本側に対して一種の“恫喝”として機能する力があったと
いうことになるのではないだろうか。だが問題は、「全兵力撤退」が一種の“恫喝”
として機能する「従属」が日米において成立するのはなぜか?ということである。
(中)に続く