2、戦後日本の二重の免責――戦争責任者・戦争指導者たちの復権と、戦後日本国家 の国際社会への復帰の構造
・戦後日本国家の成り立ち――国内において。戦後保守勢力の形成。
大日本帝国の無条件降伏と連合国軍=事実上のアメリカ軍による占領が、戦後日本 を形成する出発点となった。大日本帝国において、憲法の明文化された規定によって 最高の権威と広範囲にわたる絶大な権限を有していたのが天皇であることは疑いを得 なかった。その天皇の権限を、実際に戦前戦中の天皇がどれだけ行使したか(行使で きたか)は見解の分かれるところかもしれないが、明文化された最高の権威と広範囲 にわたる絶大な権限を有する者が、その権限の「不行使」も含めて、戦争と国家運営 における最高の責任を問われることは当然のことであっただろう。しかし、アメリカ は天皇の存在が占領の円滑な遂行に資するとの判断から、天皇の――単に天皇制だけ でなく、戦時中一貫して天皇の 地位にあった個人に対しても――戦争責任を完全に 免責した。しかも、一度はアメリカ自身が戦犯(容疑者)や公職追放に当たると認め た戦争責任者たちすら、アメリカの占領方針の転換によって復権していくこととなる。 こうして、大日本帝国を美化ないし肯定し、過去の植民地支配と戦争について正当化 しまたは開き直って(自己)免責しようとする勢力と思想が、戦後日本国家において もその中枢、指導的地位に温存されることとなった。このような勢力と思想を形成し、 継承し、または支持ないし容認する立場を主流・底流として、日本の保守政治家、保 守政党、保守層は形成され、それが今日まで基本的に引き継がれている。一方で、大 日本帝国の肯定・免責を対英米戦の肯定=反米と結びつける方向性が 、このような 日本保守勢力の主流となることはなかった。何しろ、日本の戦争責任者、戦争指導層 の復権がそもそも冷戦下におけるアメリカの世界戦略に伴うアメリカの意向と後ろ盾 によるものであり、アメリカの対冷戦システム、アメリカの国際的覇権(例えばブレ トン・ウッズ体制等、アメリカが提供する日本の戦後復興に有利な経済的・国際的諸 条件など)に依存・従属、ないしそれを“利用”することによって、このような大日 本帝国から戦後日本国への乗り継ぎ的・横滑り的な国内支配体制の再編は実現された ものだったからである。反米は、「戦後」日本保守勢力の主流にとって自己否定に他 ならなかった。
・戦後日本国家の成り立ち――国際社会において
アメリカに従属することによって戦争責任を免責されたのは、かつての戦争責任者・
戦争指導者たちだけではなかった。戦後日本国家それ自体が、アメリカに従属するこ
とによって過去の戦争責任や植民地支配責任を極力忌避・回避したのだった。アメリ
カの主導する日本の国際社会への復帰・単独講和=サンフランシスコ平和条約は、日
本の植民地支配や軍事侵攻・軍事占領、それに伴う日本の対英米戦における戦場化に
よってアジア諸国の一般民衆に与えた損害については直接省みることなく、国家間の
賠償と請求権放棄によって一切を解決済みとするものだった。それはその後のアジア
各国との個別条約における「戦後処理」においても同様であった。また賠償・請求権
処理は経済協力方式、生産物 と役務による支払い(原材料が必要な倍は相手国が供
給した)によって行われた。それがそのまま日本製品のアジアへの普及、日本の経済
復興への足がかりとなった。日本の賠償はアジア各国現地支配層を潤し、またその後
の政府開発援助(ODA)や日本企業・資本の直接投資、アジア展開へと続く先駆とは
なったが、そのような形での「戦後処理」は、アジアの一般民衆に対する植民地・戦
争責任を忌避・回避し、日本資本主義の復興と拡大を促すものに過ぎなかった。
首相として東南アジア歴訪後の施政方針演説(1958年1月29日 第28回国
会)で、岸信介は次のように述べる。
「当面する東西の緊張の中にあって、アジアは、その歴史にかつて見ない重要な地位 と役割を持つに至りました。」
「これらの国々の大部分は、過ぐる大戦によって大きな痛手を受けたのであり、また、 この戦争を契機として、長年にわたる隷属から解放されたのであります。」
「反植民地主義の旗じるしのもとに結集する民族主義運動は、ともすれば国際共産主 義宣伝の場に利用されがちであり、その原因が、主として、経済基盤の弱さと、国民 の生活水準の低さにあることを見のがしてはなりません。私が、多年の懸案であった インドネシアとの賠償問題の早期解決をはかり、また、東南アジア開発のための諸計 画の早急な実現を提唱しておりますのはこのような見地に立つからであります。」
岸の言う、「アジアの一国としての立場を固持する」「アジアへの関心」「親善の
復活」(同第28回国会施政方針演説)が、「東西の緊張」や「国際共産主義」への
対抗という冷戦の文脈、アメリカの世界・アジア戦略の枠組みの中への日本の同調・
同一化において語られていることは明らかである。その文脈と枠組みへの同調・同一
化、つまりはアメリカ(の世界戦略、覇権システム)への従属によって、「過ぐる大
戦」を引き起こし、アジア諸国に「大きな痛手」を与え、戦前からの植民地支配と戦
中の軍事侵攻・占領で、欧米植民地宗主国と並んでアジアの「長年にわたる隷属」化
の一端を担った日本への責任追及を極力回避し、なおかつ、戦前の大日本帝国独力で
の円ブロックや大東亜共栄圏構 想を代替する、新たなアジアへの経済進出を戦後日
本国家は実現したのだった。
戦後日本国家が戦争責任・植民地責任を忌避・回避しながら、なおかつ、かつて自
らが「大きな痛手」を与えたアジア諸国への経済進出を実現し、また世界屈指の経済
大国としての国際的地位を獲得したのは、アメリカの冷戦戦略、アメリカの国際的覇
権構造への同調、同一化、従属によるものであった。したがって、戦後日本における
反米は、根本において(あるいは本来であれば)戦後日本国家のこのような歩みへの
自己否定を孕まざるを得ないものに他ならなかった。また、戦争責任・植民地責任を
極力忌避・回避し、アメリカの冷戦戦略を介してアジアと結ぶと言う戦後日本国家の
姿勢は、アメリカ抜きでアジア諸国に向き合うことを困難にし、対アジアにおける対
米依存・対米従属傾向を強める 方向に作用した・作用する、と言えるのではないだ
ろうか。
・日韓交渉
もう少し具体的に、ここでは戦後の日韓国交交渉について見てみたい。日韓国交交 渉は14年間にわたり中断と決裂を繰り返しながら、7次会談まで続けられた末によ うやくの合意に到るのだが、交渉を難航させた最大の要因のひとつが日本の朝鮮半島 に対する植民地支配認識の“かたくなさ”であり、一方で、合意に至る上でのアメリ カによる介入の影響は多大であった。第三次会談の席で日本側首席代表・久保田貫一 郎は
「日本としても朝鮮の鉄道や港を作ったり、農地を造成したり、大蔵省は多い年で二 千万円も持ち出していた。」
「36年間というものは資本主義経済機構の下で平等に扱われたものである。」
(韓国側からの「なぜカイロ宣言に「朝鮮人の奴隷状態」という言葉が使われている のか」という追求に対して)「私見であるが、それは戦争中の興奮した心理状態で書 かれたもので、私は奴隷とは考えない。」
と発言し、交渉は決裂する。また交渉も終盤となっていた1965年1月におい ても、高杉晋一・首席代表は外務省記者クラブで
「日本は善行をするために、朝鮮をより豊かにするために支配した。」
「謝罪うんぬんは不当な話である。日本は朝鮮に工場、家屋、山林などを置き去りに した。創氏改名にしても、それは朝鮮人を同化して日本人扱いするためであって、決 して悪事だったとはいえない。」
等と発言している。このような朝鮮半島の植民地支配認識における日本のかたくなさ
は、時にアメリカをも困惑させていた様子さえ窺える。1964年6月8日付の在日
アメリカ大使館からアメリカ国務省宛の電文「会話覚書」によると、大使館職員二人
と当時の日本外務省北東アジア課長・前田利一とが会談を持ち、「どうしたら日本の
イメージが韓国でよくなるか」について意見を出し合ったという。その席で、「韓国
人は日本人から、支配期のいわゆる犯罪について謝罪がほしいのだ」という話になっ
たのだが、前田は「日本政府が支配下の行為について謝罪声明を出すのは非常に微妙
で難しい」と述べたという。在日アメリカ大使館から国務省への電文には、それ以前
にも日本が謝罪に否定的な見 解を示したことが繰り返し見られるというし、また、
駐日大使ライシャワーにいたっては国務省宛電文で再三、「圧力をかけ過ぎるとかえっ
て悪影響になる」との考えを示していたという。
アメリカは1952年の段階ですでに韓国(の主張する対日賠償請求)に対しても、
「韓国内に残された日本の財産は米軍が没収後、韓国政府に引き渡された。日本はサ
ンフランシスコ平和条約によって、この財産に対する請求権を放棄したのだから、韓
国も日本に法外な請求をすべきではない」とクギを刺していた。また、61年11月
の池田隼人・朴正煕会談で朴が「日本に求める財産請求権には賠償の意味はない」と
述べて(かねて日本側が主張していた)経済協力方式による請求権問題解決で合意
(「請求権を絞り込む代わりに、韓国の経済再建五カ年計画に応じて、韓国側に有利
な経済協力をすること」)後は、交渉の焦点は支払額へと移ったが、アメリカは時に
は具体的な金額を提示すること までして両者の仲介を続けた。そこにはベトナム戦
争の本格化を背景としたアメリカの事情が作用していた。1962年4月23日付の
アメリカ国家安全保障会議スタッフからケネディ大統領に宛てた覚書は、日韓会談の
行方について「我々の利害は早期終結にかかっている。そうすれば、日本が韓国への
資金援助という重荷を共に担うことができる。」としていた。
64年10月4日付の電文でバンディ国務次官補は在日アメリカ大使館へ「椎名
(悦三郎外相)の韓国訪問は、雰囲気を改善するために期待できる次の手だろう」と
提案。日本に「圧力をかけ過ぎるとかえって悪影響になる」と言っていたライシャワー
も、11月に椎名に招かれた朝食の席で、「度量の大きさを示すもっとも有益な方法
は、過去に対する謝罪」と説得を試みている。翌65年2月17日、訪韓した椎名は
日本政府として初めて「両国間の長い歴史の中に不幸な期間のあったことは誠に遺憾
な次第であり、深く反省する」という「謝罪」の言葉を述べ、4日間の交渉の後、基
本条約に仮調印することとなる。
(財産)請求権問題とは、そもそも植民地時代の韓国内の企業や個人から日本へ持
ち出された現金、朝鮮銀行を通じて持っていかれた地金や地銀、韓国人労働者への未
払い賃金などを対象とするものだった(注4)。だが、日韓条約は、日本が韓国に3
億ドル分の生産物・役務を提供し、2億ドルを貸し付ける(財産請求権の解決並びに
経済協力協定)ことで、「両国および国民の財産、権利、利益、請求権に関する問題
が、完全かつ最終的に解決された」とした。この条文が、日本が個人補償を拒む根拠
となっている。こうして、アメリカの冷戦戦略の下、植民地支配についての認識に深
い溝を抱えたまま、日本と韓国の関係は「正常化」したのだった(以上、日韓交渉に
関しては朝日新聞2000,8 ,21付『日韓交渉 米の仲介裏付ける公文書』に
よる)。
(注4)日本は交渉終盤でも請求権ではなく経済協力への一本化を求めていた。
こうして、国内で戦争責任者・戦争指導者たちがアメリカに同調・従属することで 戦争責任を免責され、復権していったのと同じように、戦後日本国家自体もまた、ア メリカに同調・従属することで、国際的に戦争・植民地責任を回避し、――戦前の軍 事大国から今度は――経済大国としてアジアと世界へ復権していった。
・「歴史的に固有の領土」主張の現代史的出発点
大日本帝国が受諾し、それによって戦後日本の基点ともなったポツダム宣言に よれば、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局 限セラルヘシ」(第8項)とされていた(ここでいう「吾等」は、「合衆国大統領、 中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣」――ポツダム宣言第1項― ―)。だが、実際には「吾等」による決定はないままに、サンフランシスコ平和条約 によって(条約が調印されたサンフランシスコ講和会議には、アメリカ(ポツダム宣 言で言うところの「合衆国」)とイギリス(同「「グレート・ブリテン」国」)の対 立のため、台北の「中華民国政府」も北京の中華人民共和国政府も招請すらされなかっ た)、日本の領有権の範囲が規 定された。だが、このサンフランシスコ条約は、日 本が放棄した「朝鮮」「台湾及び澎湖諸島」「千島列島」の中に、北方領土や竹島、 尖閣諸島が“入るとも入らないとも”書いていなかった(注5)。その上、「放棄」 後の帰属先についても一切触れられていなかった(さらに言えば、これら日本が「放 棄」した領域にそれぞれ隣接する、ソ連、韓国、中国はいずれもこの条約に調印して いない)。
(注5)ポツダム宣言第8項で言及されているカイロ宣言でも、(「満州・台湾 及澎湖島」以外)個々の具体的な島嶼名などは出てこない。
こうして、ポツダム宣言に基づく「吾等」による決定が行われないまま、サンフラ
ンシスコ平和条約でも日本が領有権を放棄した範囲について(島嶼名を逐一挙げたり、
経緯線で示したり等)具体的に記載されることがなかった(しかも放棄した範囲につ
いてその後の帰属先も定められていない)ことによって、日本は北方領土や竹島、尖
閣諸島の領有権を失わずに済んだ、とも言えるが、一方でこのことが、竹島について
日本と韓国との間で、尖閣諸島について日本と中国との間で、“歴史的に固有な領土”
性をめぐって争う余地を生じさせたとも言える(ただし北方領土については、“歴史
的に固有な領土”性を主張するのはもっぱら日本側である)。
当時のアメリカが、サンフランシスコ平和条約のこのあいまいな日本の領有権放棄
(範囲)規定について、どのような意図を持っていたのかについては、私に論じられ
るだけの準備がない。しかしこのサンフランシスコ平和条約の“あいまいさ”に起因
する“歴史的に固有な領土”性をめぐる争いが、(結果的なものにせよ)日露、日韓、
日中、それぞれの関係の間に打ち込まれた楔のひとつとなったのは間違いない。しか
もそれが今日においてますます、日本と近隣各国との緊張・対立の大きな要因となっ
ていることが、「日米同盟」やアメリカのアジアにおける軍事プレゼンスに対する日
本の「期待」と「依存」を深めさせる方向へと作用している。だがそもそもこの領有
権問題自体が、アメリカの主 導した単独講和・サンフランシスコ平和条約(による
日本の領有権範囲規定)に起因するものなのである。
3、日本の対米交渉力
・アメリカの「気遣い」と「落胆」
すでに触れたように、日韓国交交渉における日本の朝鮮半島に対する植民地支配認 識・謝罪拒否姿勢のかたくなさは、当時速やかな交渉成立を必要としていた(「日韓 両国に言いたいことは単純だ。合意せよ、合意せよ、合意せよ」ラスク国務長官、1 962年10月29日付の金鍾泌・韓国中央情報部長との会談録)アメリカにとって、 到底好ましからざる“問題”だった。しかしそれでも、駐日大使ライシャワーは再三 にわたって、日韓交渉についてアメリカが日本に「圧力をかけ過ぎるとかえって悪影 響になる」、との考えを示しさえしていた。他にも日韓交渉においては、1964年 の外相・大平正芳と国務長官ラスクとの会談で、大平はラスクに、日本はすでに条約 締結の準備ができている旨 韓国に伝言を頼むとともに、「記者会見をするときは、 交渉を日本と韓国の純粋な二国間交渉として語って欲しい。米国が条約締結への希望 を表明してもいいが、米国自身は交渉にかかわっていないことを強調して欲しい」と 要求し、それにラスクは同意している。また、ブラウン駐韓大使の来日に際しては、 駐日大使ライシャワーは「ブラウンが椎名(悦三郎外相)に会えばメディアの目は避 けられない。外務省の後宮アジア局長なら取り上げられないだろう」(アメリカ国務 省にあてた意見)と、「米国自身は交渉にかかわっていないことを強調して欲しい」 という日本政府の立場に相当の気遣いを見せている。ライシャワーは日韓交渉へのア メリカの関与に関して、国務省に宛てた64年7月23日付電報で次 のように述べ る。
「日本政府は米国が積極的な役割を果たすことを嫌うだろう。少しでも日本が米国の 圧力に屈する兆候が見て取れれば、世論と国会から最終的な合意を容認してもらえな いというのが最大の理由だ」(以上、日韓交渉に関しては朝日新聞2000,8,2 1付『日韓交渉 米の仲介裏付ける公文書』による)
原仙作氏の主張によれば、「サンフランシスコ条約の締結による日本の形式的独立 と占領軍の撤退以降、日本の主権を掌握してきたのは国民(その代理人としての政治 家)ではなく官僚機構であったということになります。日本における擬制的民主主義 の根源がここにあります」とし、その「日本を支配する主体」として「国内主権を握 り」、「無答責でありながら主権を掌握(独裁)する」官僚機構を、アメリカが「現 地支配人」に「任命」し、また「頭脳はアメリカであり、日本社会の神経中枢がはし る背骨が官僚機構……アメリカの支配は主にその背骨である日本の官僚機構を通じて 貫徹される」ことで、「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」とは違い ますが、それに近いと言ったほ うが実態をより良く表現するものだと思われ」るよ うな、「限りなくアメリカの一重支配に近い支配が現在の日本で行われている」はず だが(原『特質』)、それにしては、日韓交渉に際してアメリカが日本に示す気遣い はずいぶんと細やかで、そして(原仙作氏の主張するような「支配」を「貫徹」させ るやり方にしては)ずいぶんと“まだるっこしい”印象はぬぐえない。また、駐日ア メリカ大使としての職に在って少なくともライシャワーは、日本の国内政治体制につ いて、「擬制的民主主義」、「日本の主権を掌握してきたのは国民(その代理人とし ての政治家)ではな」い、とは考えていなかった(「少しでも日本が米国の圧力に屈 する兆候が見て取れれば、世論と国会から最終的な合意を容認してもらえ ない」) ようである。
朝日新聞2000年8月30日付『同盟半世紀 機密解除の米公文書と交換40人 インタビュー』によれば、「1963年4月3日。東京・赤坂にあった米軍用施設 「山王ホテル」に防衛問題を担当する日米両政府の高官がひそかに集ま」り、防衛研 究グループ(DSG)なる常設の政策調整機関を秘密裏に発足させていたという。防衛 研究グループは、アメリカ国務省文書によれば少なくとも63年9月までに4回の会 合を開いていたという。「扱ったテーマは、東アジアにおける脅威の認識、自衛隊の 役割の定義、米国から輸入すべき装備、後方支援など多岐にわたった。」「背景には 中国の核開発(中国は翌64年に原爆の実験に成功)に対する日米共通の懸念、そし て日本の防衛費を増やして米国の装備品を輸入させ、国際収支を改善しようという米 側の思惑があった」という。さらに、この防衛研究グループの存在は、「ときの防衛 庁長官の耳にさえ報告がいっていないということだった」。
「防衛庁で知っているのは、私(海原治・防衛局長)と事務次官、統合幕僚会議議 長、防衛参事官の4人だけだ。」
ここまでだと、「サンフランシスコ条約の締結による日本の形式的独立と占領軍の
撤退以降、日本の主権を掌握してきたのは国民(その代理人としての政治家)ではな
く官僚機構であったということになります。日本における擬制的民主主義の根源がこ
こにあります」「日本を支配する主体……は官僚機構である」「とはいえ、その主権
はアメリカから任命された「現地支配人」ほどのものにすぎず、」「頭脳はアメリカ
であり、日本社会の神経中枢がはしる背骨が官僚機構、」「アメリカの支配は主にそ
の背骨である日本の官僚機構を通じて貫徹されるのだということです。」という原仙
作氏の一連の主張(原『特質』)を裏付ける証拠がついに発見されたかのように思え
る。ところが、当のアメリカ 側は、「日本側の極端な秘密主義が共同研究の妨げに
なるかもしれない」(在日米大使館から国務省あて電報)と、今後の先行きにむしろ
懸念すら抱いている(そもそも上記の海原の発言自体が、「研究を進めるため、いく
つか作業委員会をつくりましょうか」という駐日公使エマーソンの提案に対する――
「防衛庁で知っているのは、私と事務次官、統合幕僚会議議長、防衛参事官の4人だ
けだ。作業委員会をつくると機密が漏れる」という――拒否回答である)。各論にお
いても海原は、防衛力整備計画の修正を求めるアメリカ側に「いまのような構成の内
閣では非常に難しい」「防衛庁はとても弱い役所なんです」と回答し、また、「米国
が日本の東と南500カイリに及ぶ水域における哨戒、偵察、対潜水艦 作戦の遂行
を求めるなど、米軍と協力する形で自衛隊の任務の明確化を迫ると」、安藤吉光・外
務省アメリカ局長は「そのような包括的定義が必要か日本政府は疑問視している」と
答えたという。ついにはアメリカ国務省も、在日大使館あて電報において「はっきり
いって日本側の対応には落胆した」と表明するに至る。
これはつまり、この「防衛研究グループ」の場において日本は、少なくともアメリ
カ国務省を「落胆」させるほどには米側要求を拒否した(できた)、それだけの対米
交渉力を発揮した・行使した(できた)、と理解して良いであろう。
日本の対米従属問題を、「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」とは
違いますが、それに近いと言ったほうが実態をより良く表現するものだと思われ」る
ような、「限りなくアメリカの一重支配に近い支配」(原『特質』)と解釈するのは、
一見単純でわかりやすいストーリーのようではあるが、ここまで見てきた限り無理が
多いように思われる。そのような一方的な指揮命令的関係(「頭脳はアメリカであり、
日本社会の神経中枢がはしる背骨が官僚機構」「アメリカの支配は主にその背骨であ
る日本の官僚機構を通じて貫徹される」(原『特質』))としてではなく、むしろ、
少なくとも冷戦下において日本は(アメリカに従属しながら同時に)アメリカに対し
て一定の交渉の余地と能力 を保持していたと考えるほうが、より妥当ではないだろ
うか。
・日本に一定の対米交渉余地と交渉力を付与した要因――国内世論と運動の力
すでに触れたように、アメリカ国家安全保障会議(NSC)は1952年時点で、 「将来日本が、本土の基地使用を著しく制限・排除する可能性がある」とする文書を 採択していた。上の文章は次のように続く。
「将来日本が、本土の基地使用を著しく制限・排除する可能性があるため、琉球・小 笠原の基地を長期に保持する必要がある」(NSC125/2)
その後、54年にはアイゼンハワー大統領によって沖縄基地の無期限保持が宣言さ
れ、また、57年の日米首脳(岸信介・アイゼンハワー)会談前日の大統領を囲む会
議の席ではダレス国務長官も、「もし米国が日本での立場を放棄するなら、いっそう
沖縄にとどまる理由がある」と発言する。ダレスは岸に対しても、「日本と自由諸国
防衛のため、沖縄の支配を放棄するいかなる可能性もない」と宣言する。このように
アメリカは、「将来日本が、本土の基地使用を著しく制限・排除する可能性」も視野
に、沖縄支配の無期限化によって日本本土の基地・駐留軍の代替とすることを検討し
ていた。だが一方で、55年1月に極東軍司令官ハルがアメリカ本国へ宛てた電文は、
「日本人の間に、中立主義に 行き着く現実離れの傾向が強まっている。米国の最善
の利益のため、この障害が克服されるべきだ。」「日本は今も米国にとって死活的に
重要で、防衛の強力な前哨基地として役立つ。日本が共産化すれば、経済・軍事力が
共産側に大きく移り、島嶼防衛線は破られ、韓国、沖縄、台湾も失うことになるだろ
う」としていた。また、同年4月には、「米国と固く結ばれ、共産中国への対抗勢力
として役立ち、極東の自由世界の力に貢献する強い日本が、最も国益にかなう」「よ
り健全で積極的なナショナリズムが発展することは、日本が大国として再生するうえ
で緊要だ。このナショナリズムを日米提携の文脈に取り込むことが、政策の基本問題
である」とする新対日政策(NSC5515/1)が、アイゼンハワー大統領によって承認さ
れている。当時、アメリカは予算上の理由から在日米軍地上部隊の一部撤退こそ検討
してはいたものの、日米首脳会談直前の軍の報告書でも、「日本への前方展開は、極
東における米国の立場にとって不可欠」とし、日本本土からの全兵力撤退を検討した
形跡はなかったという。日本本土での米軍駐留・基地使用を、沖縄支配の無期限化に
よって代替させる案は、アメリカの冷戦戦略にとってかなりのリスクを伴うことが認
識される、あくまでも“次善の策”であった。沖縄絶対確保と日本本土への米軍駐留
継続(そのための日本の「中立主義」への対処)の二つは、アメリカにとって共に、
極東戦略上の重要課題であった。57年6月の日米首脳(岸・アイゼ ンハワー)会
談での「われわれは、どこであれ、望まれぬ場所にはいたくない。従って、兵力撤退
の開始を考慮する用意がある」(アイゼンハワー)、「日本の国内政治の目的に役立
つなら、日本からの全兵力撤退も可能だ」(統合参謀本部議長ラドフォード)、また、
ダレスの「米国が日本から離縁するのが望みなら、米国はその願望にこたえよう」と
いったアメリカ側の一連の発言は、言葉とは裏腹に、あくまで日本本土への米軍駐留
継続のための、日本国内の「中立主義」への対処としてなされたものだった。そして、
少なくとも日本政府の中枢と国会の多数派を占める日本の「戦後」保守勢力(の主流)
にとって、アメリカの冷戦戦略・アメリカの国際的覇権構造における日本の周縁化=
アメリカに同調・従 属することで確立された「戦後」保守勢力による国内支配構造
と日本の国際的地位の動揺、をも想定させる(本稿『2、戦後日本の二重の免責――
戦争責任者・戦争指導者たちの復権と、戦後日本国家の国際社会への復帰の構造』参
照)日本本土からの米軍「全兵力撤退」は受け入れがたいものだった。この日米首脳
会談から1年後の、アメリカのマッカーサー駐日大使による、「もし必要なら、日本
から全兵力を撤退するとわれわれが同意した時、米軍撤退運動は力を失った」という
アメリカ本国への電文は、アメリカの一連の「兵力撤退」発言が、日本の出方を見越
してのものであったことを示唆していると言えよう。(以上、冷戦下の日米安全保障
条約をめぐる日米関係については朝日新聞200,8,30付 『同盟半世紀 機密
解除の米公文書と高官40人インタビュー』(以下、『同盟半世紀』)による)。
だが一方で、冷戦戦略上大きなリスクが予想された、日本本土での米軍駐留・基地
使用を沖縄支配の無期限化によって代替させる案をアメリカに検討させ、また、首脳
会談という場において(外交上の“ブラフ”“ハッタリ”だったにせよ)アメリカが
その本来意図するところであった日本本土への米軍駐留継続方針に反する「全兵力撤
退」発言をしなければならなくなったのは、日本国内の「中立主義」と「米軍撤退運
動」への対処を迫られたためであった。つまり、日本国内の世論と運動の力は、日米
関係に重大な影響を及ぼし得る要因として機能していたのである。このような世論と
運動の力が、この後さらに、日本本土の「中立主義」「米軍撤退運動」に備えたアメ
リカの沖縄支配の無期限化方 針までをも脅かすことになる。
1965年前後から、在日アメリカ大使館は沖縄の祖国復帰運動の激しさに気付い
ていたという。65年7月には、国務省と軍の会議で駐日大使ライシャワーが、「沖
縄問題は70年以前に爆発点に達するだろう」と警告するまでに至る(『同盟半世紀
』)。おりしも、1970年から日米安保条約は日米どちらか一方による一年の事前
通告で失効することとなっていた。アメリカの対日、対沖縄方針は、安保条約を維持
し、沖縄での従来の権益を極力確保できる形で沖縄を日本へ「返還」する方向へと、
修正を余儀なくされる(注6)。もちろん、返還後の沖縄の実態は、日米両政府間で
交わされた密約の存在も含めて、復帰運動の目指していた姿とはかけ離れたものであ
り、そこに結果としての、日 本・沖縄内での世論と運動が日米関係に及ぼす影響力
の限界を見ることもできるかもしれない(ただしそれはあくまでも事後的・結果論的
な見方であろう)。しかし、そもそも復帰運動の存在がなかったなら、沖縄返還自体
が無かった(か、もっともっと後になっていた)のではないだろうか。「限りなくア
メリカの一重支配に近い支配が」行われ、「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民
地的従属」とは違いますが、それに近いと言ったほうが実態をより良く表現するもの
だと思われ」る(原『特質』 日本の対米従属を言い表すとする原仙作氏の表現)、
アメリカの直接統治下に在った沖縄を、アメリカが日本と沖縄の世論と運動の力に押
されて返還せざるを得なくなったのは紛れもない事実である(注7)。
そして今日においてもなお、沖縄と米軍の問題、例えば沖縄・辺野古の基地建設反
対の世論と運動の力は、日米関係における無視し得ないファクターのひとつとなり続
けている。
(注6)実は67年にも、アメリカは日本に「撤退」発言を繰り出している。外務省 が2012年7月31日付で公開した在米日本大使館の極秘公電によると、67年3 月23日、アメリカのマクナマラ国防長官は、訪米した岸信介・元首相に、在沖縄米 軍について「日本が米国の基地保有を欲しなくなった日から、1日といえども長くい るべきではない」「米国と政治的関係で共同しつつ、軍事面にもこれを及ぼすことに 日本が賛成なら沖縄にとどまるが、そうでなければ引き揚げる」と述べたと言う。そ れに対し岸は、「米国が利己的動機で沖縄を占拠しているのではなく、日本やアジア の安定と安全保障のため(沖縄に)にいることを理解している」と応じる(読売新聞 2012,7,31付 夕刊 による)。だが当時、ベトナム戦争を戦うアメリカに とって大きな役割を果たしていた沖縄の基地から撤退することを、アメリカが本気で 検討していたとは思えない。これもまた、日本政府・保守勢力に対する、沖縄返還交 渉をにらんでの“恫喝”としてなされたものだろう。
(注7)沖縄を日本に返還したことで、アメリカは、沖縄にある米軍基地も含めてす
べて在日米軍基地として、日米安保条約に基づいて(あるいは安保条約から実際上逸
脱するにしても、その場合には日本国政府と密約を交わすなどして)あくまで日本国
政府を介して軍を駐留させ、基地を使用することになった。これは、かつて懸念され
た、「中立主義」によって「将来日本が、本土の基地使用を著しく制限・排除する可
能性」が(アメリカが直接統治することで、日本政府・本土から沖縄を分離すること
が出来ていた時代とは違い)沖縄での「基地使用」においても、直接及びかねなくなっ
たということでもあった(それがあくまで、「将来」の「可能性」であるにしても)。
また、沖縄返還後のアメ リカとっての日米関係は、“沖縄も含むこととなった”日
本との関係、“沖縄も含むこととなった”日本との安保条約体制、“沖縄も含むこと
となった”日本での駐留・基地使用の問題、等々となった。それは、沖縄を直接に統
治して(日本本土・政府から隔離できて)いた時のように、“仮に本土から撤退して
も沖縄で代替すればよい”と簡単には――沖縄返還前でも、決して簡単な話ではなかっ
たが、以前にも増して――いかなくなったということにもなるかもしれない(仮に
“同じ日本国内で”、沖縄県内での基地使用“だけを”継続するとなれば、沖縄の不
公平感、反基地感情を徒に増大させかねず、結局“沖縄県だけでの”基地使用すら―
―かつての祖国復帰運動の時と同じような――危機にさらされるか もしれない)。
これは、日本の「死活的」な重要性が、(さらに沖縄までがその「日本」の内に含ま
れることになったことで)アメリカにとっていっそう増したということになり、引き
続きアメリカの冷戦戦略にとって日本と沖縄での米軍の駐留・基地使用が「死活的に
重要」であるかぎり、(72年以降は沖縄まで含むことになった)日本の一定の対米
交渉力は、沖縄返還で強まりこそすれ弱まることはなかったであろう。もちろんその
対米交渉力も、実際には、アメリカの冷戦戦略への同調と自己同一化・従属を前提と
した戦後日本国家と戦後日本保守勢力に取っての(故にあらかじめ限界の設定された)
対米交渉力にとどまったのだが。
一方で、沖縄からの視点に立てば、“祖国復帰”後の現実は、それまでの沖縄対ア
メリカという構図にさらに(アメリカに同調・従属する)日本政府が介在する、より
複雑な三者関係という新たな困難ももたらした。またアメリカからすれば、沖縄の民
意の反発という統治コストを日本政府に丸投げ出来た(少なくとも、日本政府にも共
有させることで責任を分散させられた)という面もある。
・日本に一定の対米交渉余地と交渉力を付与した要因――アメリカの冷戦戦略におけ る、日本の「死活的」重要さ
日本――政府の中枢と国会の多数派を占める日本の「戦後」保守勢力(の主流)― ―にとって、在日アメリカ軍の「全兵力撤退」は受け入れがたいものであった。だが 一方で、冷戦下において「日本は今も米国にとって死活的に重要で、防衛の強力な前 哨基地として役立つ。日本が共産化すれば、経済・軍事力が共産側に大きく移り、島 嶼防衛線は破られ、韓国、沖縄、台湾も失うことになるだろう」ほどの存在でもあっ た。つまり、アメリカが「全兵力撤退」の“ハッタリをかました”1957年の日米 首脳会談は、アメリカにとってはチキンレースとも言えるものであった(アメリカは このチキンレースでの勝利はあらかじめ確信していた節があるが)。このような“ア メリカにとっての”日本の「死 活的」重要さは、日本にとっては一定の対米交渉力 を付与する要因ともなる。日本の戦争指導者・戦争責任者たちの復権はもちろんアメ リカの後押しがあってこそのものだったが、そもそも彼らは、他ならぬ“対米戦争” の指導者・責任者たちであった。アメリカは切迫する冷戦への対応上、そんな彼らで あっても大目に見るしかなかった。戦後日本の国際社会・アジア諸国への復帰もまた、 アメリカの後押しによるものであったが、そこでもアメリカは日本の戦争責任につい て寛大に対処し(注8)、さらにアジア諸国への戦争責任・植民地支配責任を極力忌 避・回避しながら各国との“戦後処理”を進める日本に対して、時に積極的な仲介の 役まで果さなければならなかった。60年代、防衛力整備計画の修正を アメリカに 求められた時、防衛局長の海原は「いまのような構成の内閣では非常に難しい」「防 衛庁はとても弱い役所なんです」と否定的な回答をするが、そもそも「いまのような 構成の内閣」や、防衛庁を「とても弱い役所」たらしめたのは、「米軍撤退運動」や 「中立主義感情の深刻な増大、反米感情の周期的な激発」、時には、「少しでも日本 が米国の圧力に屈する兆候が見て取れれば、世論と国会から最終的な合意を容認して もらえない」ことも起こり得るような、日本国内の世論と運動と政治状況だった(注 9)。アメリカの冷戦戦略への同調と自己同一化・従属によって国内支配体制の維持 と日本の国際的地位の確立、日本資本主義の復興と拡大を目指す戦後日本政府・保守 勢力といえども、そのような 国内情勢に影響を受けざるを得なかった。だがそれは 消極的な形でだけではなく、戦後日本政府・保守層はそのような国内情勢をアメリカ に対する交渉力(アメリカの対日要求の拒否)へと変換する――「いまのような構成 の内閣」だから、「防衛庁はとても弱い役所」だから、アメリカの要求を呑めない― ―事も一定可能であり、一定実行してもいた。同じく60年代に、「日本の東と南5 00カイリに及ぶ水域における哨戒、偵察、対潜水艦作戦の遂行」など「米軍と協力 する形で自衛隊の任務の明確化」をアメリカから迫られた時、外務省アメリカ局長・ 安藤は「そのような包括的定義が必要か日本政府は疑問視している」とつれない答え を返し、そしてアメリカはただ日本側の対応に「落胆」するよりなかっ たが、それ は冷戦下におけるアメリカの戦略対応上、日本の存在が「死活的に重要」である限り、 基本的にアメリカへの同調・従属を前提とする日本にも、アメリカとの間に一定の交 渉の余地とそこでの一定の交渉力は生じざるを得なかった(アメリカにとって、日本 側の言い分や事情を一定聞き入れ、配慮することの必要やメリットもそれなりに大き かった)からである、と言えよう。
(注8)「1999年、ドイツや日本によって捕虜にされたり強制労働させられた連
合国国民の賠償請求を2010年まで可能とするカリフォルニア州法が成立した(ヘ
イデン法)。すでにドイツでは政府と企業が補償基金を創設し、イギリス政府は日本
軍の捕虜になった者に二万ドル相当の補償をおこなっていたから、ヘイデン法にもと
づく訴訟の被告は日本企業が中心となった。アメリカ人、英国人、韓国人、オランダ
人、などアメリカ在住者数百人が、新日鉄や三菱など14社を被告に訴訟を起こした
……しかし、原告たちを阻む壁になったのは、多くの日本人が「寛大」と受け取った
サンフランシスコ講和条約であった。同条約は、日本と連合国が、それぞれの「国民」
の「請求権」を相互に放棄 すると定めた(第19条・14条)。そのため米連邦裁
判所は、捕虜への補償問題はすでに解決済みとし、米政府は、サンフランシスコ講和
条約は上院が66対10で承認したもので、それを自国の都合でひっくりかえすと
「米国の対外的信用に重大な問題が生じる」(フォーリー元駐日大使)という立場か
ら、補償請求に消極的な態度をとっている。(『朝日新聞』2002年4月3日)。
安保条約と引き換えに実現した「寛大」なサンフランシスコ講和条約は、誰にとって
「寛大」であったのかという疑問が、今も提起されているのである。」(吉川弘文館
『日本の時代史26 戦後改革と逆コース』 三浦陽一「?サンフランシスコ体制論
日本の再出発と日米鏡像関係の成立」)
アメリカ国民に対する戦争責任も含めて、アメリカは日本を大目に見たようである。
(注9)海原が、「いまのような構成の内閣では非常に難しい」、「防衛庁はとても 弱い役所なんです」と言った1963年とは、「寛容と忍耐」をモットーに「所得倍 増計画」をかかげて60年安保闘争・三池争議後の日本の社会統合の回復を目指す池 田内閣の時代に当たる。
・冷戦の終結と日本の対米交渉力の低下――「地理的な」概念から「事態の性質に着 目した」概念への転換
アメリカにとって日本が「死活的に重要」であったのは、東西冷戦下において日本 が地理的に東側陣営に直接に対峙する、アメリカ・西側陣営にとっての最前線を形成 して「防衛の強力な前哨基地として役立つ」と共に、「日本が共産化すれば、経済・ 軍事力が共産側に大きく移り、島嶼防衛線は破られ、韓国、沖縄、台湾も失うことに なるだろう」という地政学的な重要性によるものだった。そうである以上、冷戦終結、 東側陣営の崩壊以後、アメリカにとっての日本の重要性が大幅に低下することは避け られないことであった。
「良くも悪くも冷戦は日本に有利な国際環境を作り出していた。「資本主義になれ ばこんなに豊かになれる」という西側の「看板娘」を演じ続けることができ、米国も 防衛費分担や保護貿易的な日本の諸制度については大目に見ていた。ところが、ソ連・ 東欧圏が崩壊したので、日本が共産化する心配はなくなり、日本も市場経済の中の一 競争相手にすぎなくなったのである。」(菊池信輝『財界とは何か』平凡社)
「日米安全保障協議委員会」が1997年9月23日に「了承し、公表した」、 「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)には次のようにある。
「周辺事態は、日本の平和と安全に重要な影響を与える事態である。周辺事態の概 念は、地理的なものではなく、事態の性質に着目したものである。……なお、周辺事 態に対応する際にとられる措置は、情勢に応じて異なり得るものである。」
ここにおいて、日米安保体制は冷戦時代とは異なるものへと“再定義”された。冷
戦時代、アメリカが敵対し、封じ込めるべき相手であった東側陣営とは、基本的には、
地理的に規定された範囲を領有する国家群のことであった。だから、東側陣営との間
には地理的に限定された範囲としての最前線が存在したし、そこに「防衛の強力な前
哨基地」を構築することが可能であり、有効であり、不可欠でもあった。日本は極東・
アジア地域におけるそのような最前線の一角、「防衛の強力な前哨基地」として、ア
メリカにとって「死活的に重要」なのであった。だが、東側陣営の崩壊・消滅は、ア
メリカにとってそのような地理的に限定された最前線をもはや不要なものとした。ま
た、東側陣営の消滅、中 国などの改革開放路線への転換などによって、アメリカ資
本・多国籍企業が展開できる世界市場の範囲は格段に広がった。かつての西側陣営の
各国も、今やそれぞれが「市場経済の中の一競争相手にすぎなくなった」。ここで東
西の緊張、冷戦に変わって新たな問題となったのは、全地球規模のグローバル自由市
場の秩序と安定の維持のために必要とされる、――したがって、ひとかたまりの固定
された地理上の範囲では到底収まりきらない、その時々の各地域における、より流動
的で不確定、不定形な――脅威への対応だった。冷戦時代の、もっぱら固定された地
理的対象範囲へのみ向けられた「防衛の強力な前哨基地」では、アメリカの新たな世
界戦略上の必要――全地球規模のグローバル自由市場世界における アメリカの優位
の維持――はまったく満されず、むしろ(予算上の都合、軍事資源の費用対効果など
の面でも)足手まといにさえなった。だからこそ、アメリカにとって日米安保条約体
制もまた、冷戦時代に想定していた「地理的なものではなく」、全地球規模のグロー
バル自由市場世界時代にふさわしい「事態の性質に着目したもの」へ、そして「情勢
に応じて異なり得る」対応が可能なものへ、再定義される必要があった。だが、たと
えそのようなモデルチェンジが図られたにしても、アメリカ軍が駐留し続ける場所が
“日本でなければならない必然性”が、少なくとも冷戦時代と比べて低下したことは
明らかと言わざるを得ないだろう。それはつまり、戦後日本の対米交渉力の源泉のひ
とつが機能しなくなるこ とも意味した。
また、かつてアメリカを真剣に懸念させた日本国内の「米軍撤退運動」や「中立主
義感情の深刻な増大、反米感情の周期的な激発」、「少しでも日本が米国の圧力に屈
する兆候が見て取れれば、世論と国会から最終的な合意を容認してもらえない」こと
も起こり得るような政治状況さえ作り上げた世論と運動の力、また良くも悪くもそれ
を牽引した戦後革新勢力の国会内外での影響力は、冷戦終結を待たずして共に後退・
停滞の淵へと沈んでいく。かつて、日本政府・保守勢力にとっても時には対米交渉力
として変換可能だった国内世論、運動、政治状況の多くが消失、弱体化してしまった
のだった。
一方、戦後日本の経済・資本主義は、輸出産業の劇的発展と輸出立国路線によって、
冷戦期からアメリカを始め西側欧米各国との間で貿易摩擦問題を抱えるとともに円高
問題も招いていた。それへの対応としてすでに冷戦後期には、国内生産・組み立て品
の輸出から欧米現地生産販売方式、さらに東南アジア諸国への工場進出・そこからの
迂回的対欧米輸出という海外展開・多国籍化戦略が進められていった。このような多
国籍化した(多国籍化していく)日本企業・日本資本主義にとっても、全地球規模の
グローバル自由市場における秩序と安定の維持は自らの利害にも直結する問題であっ
た。日本の大企業・財界団体は、従来からの対米従属路線の延長線上にそれをさらに
深化させ、自衛隊の積極的な 海外展開推進等、軍事貢献を含むより能動的なアメリ
カの世界戦略への日本のコミットメント、アメリカの主導する経済グローバルスタン
ダードへの同化を、むしろ自ら進んで求めていく立場となった。日本資本主義にとっ
て、経済ナショナリズム的観点から対米従属に抵抗する要因・動機も、すでに弱くなっ
ていたのである。
(下)へ続く