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「現状分析と対抗戦略」討論欄

丸さんの投稿・『日本の「対米従属」についての一試論』について

2012/11/16 原 仙作

 丸さん、こんにちは
 さっそくですが、冒頭と末尾に私のHNをあげて批判されているので、私の小論「日本の国家権力の構造・・」(7月28日付)への批判投稿のようですね。おそらくは、丸さんによる批判への反論「丸さんへの回答」(9月4日付)で、丸さんの批判は問題を正面から論じていないと、私が回答したことへの対応投稿なのでしょう。

(1)、題名が『日本の「対米従属」についての一試論』とありますから、私への批判の根拠としてアメリカに従属する日本の国家権力の構造について、なにがしかの見解が対置されているのかと期待しましたが、何も書かれていません。丸さんによる批判の主要な論点、すなわち私が無視しているという日本資本主義の「帝国主義化」という主張はどこへ行ってしまったのでしょうか?

(2)、 丸さんのこの投稿(上、中、下)で長々と述べられている「対米従属」とは従属の一側面というものです。要約的に言えば、冷戦の影響もあり、アメリカは日本に一定の配慮を示したし、従属しているが日本の側もそれなりの主張もし、国民運動を背景に自主性を貫いたこともあるということです。
 しかし、日本の側にあるそれなりの自主性の事例を挙げることが、どうして私の小論への批判の論拠になるのでしょうか?
 こんなことは、60年代に盛んだった「自立・従属」論争の頃から論じられてきたことにすぎません。現実的なものはすべて多面的なものですから、従属する日本にもそれなりの自主性があるのは当然のことです。社会現象について従属と規定することは自主性を排除しません。
 マッカーサーの占領時代にも中止されたとはいえ「2.1ゼネスト」(1947年)がありましたし、丸さん好みの日本独占資本の事例を取り上げれば、60年代に難航した日米繊維交渉をあげることもできるでしょう。田中角栄による日中国交回復(1972年)もあります。
 最近でいえば、「米国からの圧力」を軸に、日本の戦後史を読み解いたと語る孫崎享氏の著作・『戦後史の正体』でも、自民党政権には「追随」路線ばかりでなく「自主」路線があり、両者の「相克だった」と言われています(同書Ⅳページ)。この著作で示されている事例の多くも、左翼の長い凋落で忘れられた事実を再発掘したものです。
 私はここに要約したような丸さんの主張を否定する議論を一度も展開したことはありません。だから、丸さんがこのような主張をもって「原氏の論のそもそもの致命的な弱点ないし破たん」と批判することは根拠がなく、”お門違い”な批判だと言わなければなりません。

(3)、 丸さんが日本の自主性の事例をもって私の小論を批判できると”錯覚”した原因は二つあります。一つは私の規定する日本の従属を丸さんは植民地従属だと誤解したこと、もうひとつは、奇妙なことに丸さんにあってはその植民地従属を自主性のまったくない奴隷的従属だと観念していることです。私はこう書いています。

『その「従属」は20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」とは違いますが、それに近いと言った方が実態をより良く表現するものだと思われるのです。』

 丸さんが何度も引用するこの文言を丸さんは”植民地従属”と規定していると解釈しているのです。私は「それに近い」とは言っていますが、植民地従属だと言っているわけではありません。私がわざわざ『20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」とは違いますが』と言っているにもかかわらず、この前置きは無視されています。 また、私はこの文言の後に次のように書いています。

『世界第二位になったほどの独占資本主義国のこの「従属」や従僕官僚の日米支配ヒエラルキー上の地位を何と呼ぶべきかということなのです。』

 旧来理解されてきた様々な従属範疇には収まらない独特な日本の従属なのだと言っているのですが、この文言も丸さんには無視されています。

(4)、 その結果、丸さんは次のように私を批判するわけです。

『“支配者・悪役として万能の”――あまりに万能すぎる――「アメリカ」や「日本の官僚機構」を思い描き、戦後日本民主主義を「擬制」として貶める、倒錯した日米関係認識・日本の国内体制認識からは(「一定の対米自主性」の「展望」は:引用者補足)切り開きようがないだろう。』

 丸さんが一旦、植民地従属と解釈すると、アメリカは「あまりに万能すぎる」ほど「万能」になるようです。「万能すぎる」アメリカに対しては日本は奴隷か無になるほかなく、原は「倒錯」している? 原は自主性のない植民地従属と規定するのだから、日本の側の自主性の事例提示は痛烈な批判になると丸さんは錯覚するわけです。
 丸さんにあっては、誤解したものではあれ、ひとたび、ある観念を得るとその独りよがりな観念が一人歩きをしてしまうようです。
 仮に丸さんが誤解する植民地従属だとしても、奴隷だって反乱を起こす(スパルタクスの反乱)し、フランス帝国主義の植民地支配下にあってもホーチミンは独立運動を起こしたことくらいは思いめぐらしてもよさそうなものです。何度も言いますが、従属は決して自主性を排除しないのです。
 そういうわけで、国内諸勢力の反抗や自主的対応、運動があることを主張するだけでは、私の小論への反論にはならないのです。

(5)、植民地従属国にさえ、国内諸勢力の自主的な動向は”絶対にある”のですから、丸さんが自分の錯覚に気がつかないのは実に不思議なことなのです。
 丸さんがその錯覚に気がつかない理由は、私が日本の国家権力の構造をわかりやすく示すために擬人化し、頭脳はアメリカだとした表現に囚われたこともありますが、もう一つには、丸さんが60年代に旺盛に行われた「自立・従属」論争を概括的にでもフォローしていないことがあるのです。
 植民地従属論の主張は占領下とその直後にはありましたが、1952年にまがりなりにも独立し、高度経済成長の途について以後は植民地従属論は論外となり、発達した資本主義国の従属問題、同じ敗戦国でありながらも西ドイツ(当時)とは異なり、深くアメリカに従属した日本の従属をどうとらえるのかが焦点に登ってきたのです。
 たとえば、当時、従属論の最右翼であった日本共産党の61年綱領でさえ、二段階革命論を唱えていますが日本を植民地国とは規定していないのです。丸さんが批判する私の小論でも、国家権力の構造というかぎり、こうした議論の蓄積を念頭に置いているのです。その証拠に私の小論には次のような文言があります。

『・・・・60年代の自立・従属論争で自立論の側が主張したような「従属」です。ところが、日本の場合は、当時の論争者が”誰も予想していなかった”官僚機構が国内主権をにぎりアメリカに「従属」しているのですから、その「従属」は独占資本による「従属」とは自ずから性格が違ってきます。』

 それゆえ、「自立・従属」論争の経過を概括的にでも知っておれば、私が植民地従属と規定しているとは丸さんも解釈せず、丸さんが無視した私の文言に目が行ったことでしょう。
 丸さんの投稿の題名が『日本の「対米従属」についての一試論』とあるのですから、少なくとも、従来の「自立・従属」論争を概括的にでも把握しておくべきでした。

(6)、最後に、丸さんは投稿の末尾で、私が鳩山による普天間基地の県外移設表明を評価したことに対し、「鳩山や鳩山民主党を支持したり期待した自分自身を、(結果としての鳩山や民主党の期待外れぶりから)免責したい意識」の現れ、「現実逃避と政治的退廃」だと言っていますが、想像力を逞しくした非難はやめた方がいいでしょう。