「現状分析と対抗戦略」欄11月16日付で、原仙作氏より、『丸さんの投 稿・『日本の「対米従属」についての一試論』について』(以下、「原」)と題 する投稿を寄せていただいた。そこで原氏が提示している6つの項目分けに沿っ て、私からの回答・反論を行うこととする。
(1)「題名が『日本の「対米従属」についての一試論』とありますから、私へ の批判の根拠として、アメリカに従属する日本の国家権力の構造について、何が しかの見解が対置されているのかと期待しましたが、何も書かれていません。丸 さんによる批判の主要な論点、すなわち私が無視しているという日本資本主義の 「帝国主義化」という主張はどこへ行ってしまったのでしょうか?」(「原」)
「日本のアメリカに対する「従属」は20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民
地的従属」とは違いますが、それに近いと言ったほうが実態をより良く表現する
ものだと思われます。」「日本の官僚機構は国内主権を握っているとはいえ、そ
の主権はアメリカから任命された「現地支配人」ほどのものにすぎず、……植民地
を彷彿させるに十分」なもの」という、原氏の主張するところの「アメリカに従
属する日本の国家権力の構造」に対置して、私は、日本の対米従属の形態は
「「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」」からは最も遠い形態」
の従属であること(『日本の「対米従」についての一試論』(上)参照)、今日
まで基本的に引き継がれることとなる日本の保守政治家、保守政党、保守 層の
形成と構造、戦後日本国家の国際社会への復帰と戦前の大日本帝国独力での円ブ
ロックや大東亜共栄圏構想を代替する新たなアジアへの経済進出の構造(『日本
の「対米従」についての一試論』(中)参照)「尖閣諸島問題をはじめとする日
本の個別利益・独自利益を、日米安保体制への依拠、戦後日本国家成立以来のア
メリカの世界戦略への同調・(自己)同一化によって実現しようとする」、日本
(政府・保守勢力)側からの自発的とも言える対米従属の構造・要因(『日本の
「対米従」についての一試論』(下)参照)等について、戦後日本の立脚点とそ
の歩んできた道のりからの、より内在的・内発的な問題としての説明を試みた。
原氏によれば「題名が『日本の「対米従属」についての一試論』とあり ますか
ら、私への批判の根拠として、アメリカに従属する日本の国家権力の構造につい
て、何がしかの見解が対置されているのかと期待しましたが、何も書かれていま
せん」とのことであるが、日本の「対米従属」についての一試論を述べるに当
たっても、また原氏の主張に対する「批判の根拠として」も、すでに述べた以上
の、「アメリカに従属する日本の国家権力の構造について、何がしかの見解」を
対置しなくとも、それで不足はないものと私は考える。
また、原氏の主張に対する私の「批判の主要な論点」は、日本資本主義の「帝
国主義化」に対する無視、などではない(それも論点のひとつとすることは否定
しないが)。
「例えば原氏の、日本共産党「新綱領(2004年)では日本独占資本を「大 企業・財界」というように言い換え、非常にまずい誤った再規定(日本の官僚機 構が排除されている)を行いました……」という批判に、私は同意する。しかし原 氏はその返す刀で「日本独占資本はアメリカに「従属的に同盟」していても日本 を支配する主体にはなっておらず、主体は官僚機構である」と、今度は「日本独 占資本」を「支配する主体」から「排除」してしまうのである。それによって原 氏は、日本の官僚機構を「日本を支配する主体」、「国内主権を握り」「無答責 の全権を行使する存在」に位置づけつつ「その主権はアメリカから任命された 「現地支配人」ほどのものにすぎ」ないとして「限りなくアメリカの一 重支配 に近い支配が現在の日本で行われている」とする、非常に単線的でシンプルな指 揮命令系統関係(「頭脳はアメリカであり、日本社会の神経中枢がはしる背骨が 官僚機構、その腕が万年与党の自民党や野田政権で、独占資本はその足にすぎま せん。アメリカの支配は主にその背骨である日本の官僚機構を通じて貫徹される のだということです。」)を提示することを可能にし、私たちに「日本の国家権 力の構造と腐敗の特質」についての実にわかりやすい説明を提供してくれている ように見える。だが、その“シンプルさ”や“わかりやすさ”は、独占資本や戦後民 主主義の諸制度とその果たしてきた役割等々、多くのものを切り捨てもしくは過 小評価することによって成り立っている。そのため原氏の論は、 「日本の国家 権力の構造と腐敗の特質」についての一見わかりやすい説明のようでいて、実は “よく考えるとよくわからない”、あるいは“説明しているようで(十分な)説明 になっていない”ものとなってはいないだろうか?」(『原仙作氏の「日本の国 家権力の構造と腐敗の特質」論へのいくつかの疑問――その官僚機構観についてを 中心に』)
まず原氏の主張がそもそも、単に日本資本主義の「帝国主義化」を無視するに とどまるものではなく、「日本独占資本」を「支配する主体」から「排除」する ものなのである。そこからすでに(つまり「帝国主義化」云々以前の段階で)原 氏の主張には問題がある、と私は言っているのである。
「例えば“「日本の官僚機構」の「国内主権」”・“「アメリカから」の「日本 の官僚機構」に対する「現地支配人」への「任命」”・“「限りなくアメリカの一 重支配に近い支配」”といった理解と、戦後日本で行われてきた普通選挙権と秘 密投票による自由選挙、それによって構成される議会制等との関係、整合性につ いての解説も原氏はする気がないようです。また、「アメリカ」が今日まで継続 的に「限りなくアメリカの一重支配に近い支配」や、「日本の官僚機構」を「現 地支配人」に「任命」(という比喩を使って表現することが適切と言えるような 状態を維持)し続けられる“仕組み”についての具体的な検証も示されていませ ん。しかし本来それこそが、「日本の国家権力の構造と腐敗の特質 」の最大焦 点となるはずのものではないでしょうか?」(丸 『脱原発、政権交代、「官僚 支配・官僚主権」批判』『4』『(注4)』。この文章については『原仙作氏の 『丸さんへの回答』について』でも引用している)
「原氏はこのような説を提示するに当たって、アメリカはどのようにして日本 の官僚機構を「現地支配人」に「任命」する(できる)――(「任命」は比ゆだと しても)と言い得るほどの日本の官僚機構に対する直接的な支配・統制力を行使 している(できる)――のか?「頭脳」であるアメリカは、“いかにして”「日本社 会の神経中枢がはしる」「背骨である日本の官僚機構」と――「アメリカの支配」 を「貫徹」させられるほどに――“接続”されているのか?といった、最も重要な、 根幹をなす部分についてほとんど説明していない。また、この原氏の「日本の国 家権力の構造と腐敗の特質」論への支持を表明する(「原さんの考えとほとんど 同じです。」 『現状分析と対抗戦略』欄 2012,9 ,10付け 『丸さ んの“脱原発”運動の見方に対する異論』)田村秋生氏も、この点については何も 言及しないままに、原氏への支持を表明している。原氏の対米従属論の土台であ り、また、それにもとづく実践的な対抗運動を行うにあたっては最大の焦点とせ ざる得ないであろう部分について明らかにしない(できない)ところに、原氏の 論のそもそもの致命的な弱点ないし破たんがあると言える。」(『日本の「対米 従属」についての一試論』(上)「(注1)」)
原氏は、「日本資本主義の「帝国主義化」という主張はどこへ行ってしまった
のでしょうか?」などと論点を拡散させずに、「本来それこそが、「日本の国家
権力の構造と腐敗の特質」の最大焦点となるはずのものではないでしょうか?」
「原氏の論のそもそもの致命的な弱点ないし破たんがあると言える」と、わざわ
ざ明示されているその論点こそを、素直に、私からの原氏の主張に対する「批判
の主要な論点」としてまずは受け取れば良いであろう。そして、原氏が自説の
「致命的な弱点ないし破たん」を認めないのであれば、上記の私の指摘に応える
形で自説を論証して見せればよいだけのことである。それもしないで、「丸さん
による批判の主要な論点、すなわち私が無視しているという日本資本主義 の
「帝国主義化」という主張はどこへ行ってしまったのでしょうか?」などとい
う、白々しい“おふざけ”をするのはやめていただきたいものである。
以上のように、「日本資本主義の「帝国主義化」」を主題的に扱って対置させ
るまでもなく、原氏の主張はそもそも最初から内在的に破たん(主張の根幹をな
す部分での説明・論証の欠落)しているものと私は考える。また、『日本の「対
米従属」についての一試論』では、(日本資本主義の)「帝国主義化」という言
葉は確かに使っていないものの、「戦前の大日本帝国独力での円ブロックや大東
亜共栄圏構想を代替する、新たなアジアへの経済進出を戦後日本国家は実現した
のだった。」「戦後日本の経済・資本主義は、輸出産業の劇的発展と輸出立国路
線によって、冷戦期からアメリカを始め西側欧米各国との間で貿易摩擦問題を抱
えるとともに円高問題も招いていた。それへの対応としてすでに冷戦後 期に
は、国内生産・組み立て品の輸出から欧米現地生産販売方式、さらに東南アジア
諸国への工場進出・そこからの迂回的対欧米輸出という海外展開・多国籍化戦略
が進められていった。このような多国籍化した(多国籍化していく)日本企業・
日本資本主義にとっても、全地球規模のグローバル自由市場における秩序と安定
の維持は自らの利害にも直結する問題であった。日本の大企業・財界団体は、従
来からの対米従属路線の延長線上にそれをさらに深化させ、自衛隊の積極的な海
外展開推進等、軍事貢献を含むより能動的なアメリカの世界戦略への日本のコ
ミットメント、アメリカの主導する経済グローバルスタンダードへの同化を、む
しろ自ら進んで求めていく立場となった。日本資本主義にとって、経済ナ ショ
ナリズム的観点から対米従属に抵抗する要因・動機も、すでに弱くなっていたの
である。」(『日本の「対米従属」についての一試論』(中))等、日本資本主
義の(従属)帝国主義的なあり方・役割にも一応は言及している。従って、原氏
の、「私が無視しているという日本資本主義の「帝国主義化」という主張はどこ
へ行ってしまったのでしょうか?」という指摘も、あまり的を射たものとは言い
難いように思われる。
(2)「私はここに要約したような丸さんの主張を否定する議論を一度も展開し たことはありません。だから、丸さんがこのような主張をもって「原氏の論のそ もそもの致命的な弱点ないし破たん」と批判することは根拠がなく、“お門違い” な批判だと言わなければなりません。」(「原」)
原氏の言う、「原氏の論のそもそもの致命的な弱点ないし破たん」という語句 は、『日本の「対米従属」についての一試論』(上)の「(注1)」からの引用 であろう。そこで私は次のように述べている。
「原氏はこのような説を提示するに当たって、アメリカはどのようにして日本の 官僚機構を「現地支配人」に「任命」する(できる)――(「任命」は比ゆだとし ても)と言い得るほどの日本の官僚機構に対する直接的な支配・統制力を行使し ている(できる)――のか?「頭脳」であるアメリカは、“いかにして”「日本社会 の神経中枢がはしる」「背骨である日本の官僚機構」と――「アメリカの支配」を 「貫徹」させられるほどに――“接続”されているのか?といった、最も重要な、根 幹をなす部分についてほとんど説明していない。また、この原氏の「日本の国家 権力の構造と腐敗の特質」論への支持を表明する(「原さんの考えとほとんど同 じです。」 『現状分析と対抗戦略』欄 2012,9 ,10付け 『丸さん の“脱原発”運動の見方に対する異論』)田村秋生氏も、この点については何も言 及しないままに、原氏への支持を表明している。原氏の対米従属論の土台であ り、また、それにもとづく実践的な対抗運動を行うにあたっては最大の焦点とせ ざる得ないであろう部分について明らかにしない(できない)ところに、原氏の 論のそもそもの致命的な弱点ないし破たんがあると言える。」
原氏の「要約」についてはここでいちいち引用はしないが(各自、『丸さん
の投稿・『日本の「対米従属」についての一試論』について』の(2)を直接確
認してください)、私は、原氏が「要約したような」主張をもってして、「原氏
の論のそもそもの致命的な弱点ないし破たん」を言っているわけではない。従っ
て、「私はここに要約したような丸さんの主張を否定する議論を一度も展開した
ことはありません。だから、丸さんがこのような主張をもって「原氏の論のそも
そもの致命的な弱点ないし破たん」と批判することは根拠がなく、“お門違い”な
批判だと言わなければなりません」、として原氏が私に対して「批判することは
根拠がなく、“お門違い”な批判だと言わなければなりません」。
わたしが「原氏の論のそもそもの致命的な弱点ないし破たん」として指摘して
いるのは、あくまで、「アメリカはどのようにして日本の官僚機構を「現地支配
人」に「任命」する(できる)――(「任命」は比ゆだとしても)と言い得るほど
の日本の官僚機構に対する直接的な支配・統制力を行使している(できる)――の
か?「頭脳」であるアメリカは、“いかにして”「日本社会の神経中枢がはしる」
「背骨である日本の官僚機構」と――「アメリカの支配」を「貫徹」させられるほ
どに――“接続”されているのか?といった、最も重要な、根幹をなす部分について
ほとんど説明していない」「明らかにしない(できない)」という点に対してで
ある。だから原氏がどうしても、「「原氏の論のそもそも の致命的な弱点ない
し破たん」と批判することは根拠がなく、“お門違い”な批判だと言わなければな
りません」という言葉を私に対して用いたいというのであれば、まずは「アメリ
カはどのようにして日本の官僚機構を「現地支配人」に「任命」する(でき
る)――(「任命」は比ゆだとしても)と言い得るほどの日本の官僚機構に対する
直接的な支配・統制力を行使している(できる)――のか?「頭脳」であるアメリ
カは、“いかにして”「日本社会の神経中枢がはしる」「背骨である日本の官僚機
構」と――「アメリカの支配」を「貫徹」させられるほどに――“接続”されているの
か?といった」、原氏の主張において「最も重要な、根幹をなす部分について」
さっさと説明なり論証なりすれば良いことで ある。というか、それがないこと
にはそもそも話が始まらない。あわせて、今回の、原氏が「要約したような」主
張をもって私が「原氏の論のそもそもの致命的な弱点ないし破たん」として批判
した、などという印象操作まがいの稚拙なすり替え行為についても、原氏は速や
かに撤回し、潔く謝罪すべきであろう。
私からすれば、この撤回・謝罪要求に原氏がこれまで同様逃げとダンマリを繰
り返す事の方が、よほど原氏の名誉を損なう惨めな行為のように思えるが、当の
原氏にとっては、そんなことは恥とも思わない“よくある事”に過ぎないのであろ
うか。
(3)「丸さんが何度も引用するこの文言を丸さんは“植民地従属”と規定してい ると解釈しているのです。私は「それに近い」とは言っていますが、植民地従属 だと言っているわけではありません。私がわざわざ『20世紀初頭の植民地全盛 時代の「植民地的従属」とは違いますが』と言っているにもかかわらず、この前 置きは無視されています。また、私はこの文言の後に次のように書いています。 (原文改行)『世界第二位になったほどの独占資本主義国のこの「従属」や従僕 官僚の日米支配ヒエラルキー上の地位をなんと呼ぶべきかということなので す。』(原文改行)旧来理解されてきたさまざまな従属範疇には収まらない独特 な日本の従属なのだといっているのですが、この文言も丸さんには無視 されて います。」(「原」)
ここで原氏が、「丸さんが何度も引用するこの文言」と言っているのは、(日
本がアメリカに「従属的に同盟」しているとはいえ)「その「従属」は20世紀
初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」とは違いますが、それに近いと言った
ほうが実態をより良く表現するものだと思われるのです。」という、原氏の『日
本の国家権力の構造と腐敗の特質、左翼の偏狭さについて』中の文言である。だ
が、そもそも私はこの文言について、(原氏は)「“植民地従属”と規定してい
る」などとは解釈していない。原氏は、「丸さんが何度も引用するこの文言を丸
さんは“植民地従属”と規定していると解釈しているのです」と断定しているが、
なぜそのように断定できるのか、根拠や理由について一切明らかにし ない。そ
うである以上、これは根拠の(示せ)ない言いがかり以外の何物でもない。私
は、原氏の文言を字義通りそのまま受け取った上で、日本の対米従属の形態は
「「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」」からは最も遠い形態」
であると主張し、またそう主張する上で、「「20世紀初頭の植民地全盛時代の
「植民地的従属」」からの“遠さ”について論証を試みたまでである。従って、仮
に原氏が日本の対米従属を「“植民地従属”と規定」していようがいまいが、私の
主張の前提を揺るがすものではない。そもそもここで論点となっているのは、
「「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」」から「遠い」(丸)か
「近い」(原氏)かであるのだから、原氏がいくら自説について、「 私は「そ
れに近い」とは言っていますが、植民地従属だと言っているわけではありませ
ん」、「旧来理解されてきたさまざまな従属範疇には収まらない独特な日本の従
属なのだといっている」などと力説したところで、私の主張に対するなんらの反
論・批判にもならない。それらは従前の主張(「植民地的従属」に「近い」)を
同義反復するだけの、言葉遊びの域をまったく出るものではない。日本の対米従
属の形態は「「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」」からは最も
遠い形態」である、という私の主張に対して批判・反論するのであれば、なによ
りも、「その「従属」は20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」とは
違いますが、それに近いと言ったほうが実態をより良く表現する」と 原氏が言
う、その「近さ」について、まずなによりも原氏が(私の「遠い」という主張に
対置させて)論証して見せることこそが、最も手っ取り早いであろう。それもし
ないで、原氏がただ面白半分のおふざけ(同義反復の言葉遊び)をしているので
あれば、私としては到底付き合いきれるものではない。
また原氏は、『世界第二位になったほどの独占資本主義国のこの「従属」や従
僕官僚の日米支配ヒエラルキー上の地位をなんと呼ぶべきかということなので
す』という文言について、「旧来理解されてきたさまざまな従属範疇には収まら
ない独特な日本の従属なのだといっているのですが、この文言も丸さんには無視
されています」、とも述べている。しかしながら、そもそも『世界第二位になっ
たほどの独占資本主義国のこの「従属」や従僕官僚の日米支配ヒエラルキー上の
地位をなんと呼ぶべきかということなのです』という文言における、「この「従
属」」(の「この」)が何を指しているのかといえば、「日本の官僚機構は国内
主権を握っているとはいえ、その主権はアメリカから任命された「現地支 配
人」ほどのものにすぎず、……売国性は露骨なもので植民地を彷彿させるに十分
で、」(以下、「世界第二位になったほどの独占資本主義国のこの「従属」や従
僕官僚の日米支配ヒエラルキー上の地位をなんと呼ぶべきかということなので
す。」と続く)ということである。さらにその文章を受けて、「そういうわけ
で、日米独占による二重支配というよりも、限りなくアメリカの一重支配に近い
支配が現在の日本で行われている考えており、……」と、あることからも(『日本
の国家権力の構造と腐敗の特質、左翼の偏狭さについて』参照)、『世界第二位
になったほどの独占資本主義国のこの「従属」や従僕官僚の日米支配ヒエラル
キー上の地位をなんと呼ぶべきかということなのです』という文言もまた、日
本の対米従属形態は「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」とは違
いますが、それに近いと言ったほうが実態をより良く表現するものだと思われる
のです」という文言の同義反復といってよいものである(それどころか、「植民
地的従属」との“違い”よりも、むしろ“近さ”についてより一層強調された文脈の
中に置かれた文言ですらある)。まして、「なんと呼ぶべきかということなので
す」などというあまりに漠然とした問いかけ(?)の文言に、わざわざ取り上げ
なければならないような価値は認めがたい(一体どう取り上げろというのだろ
う?取り上げようがない)。
原氏がまずやるべきことは、「日本の官僚機構は国内主権を握っているとはい
え、その主権はアメリカから任命された「現地支配人」ほどのものにすぎ」ない
と言える根拠、「売国性は露骨なもので植民地を彷彿させるに十分」と言える理
由、日本の対米従属形態は「20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」
とは違いますが、それに近いと言ったほうが実態をより良く表現する」と言える
事の証明、等々を早急に公開することであろう。それをしない・できないのであ
れば、そもそもの主張自体を速やかに撤回すべきであろう。
(4)「その結果、丸さんは次のように私を批判するわけです。(原文改行) 『“支配者・悪役として万能の”――あまりに万能すぎる――「アメリカ」や「日本の 官僚機構」を思い描き、戦後日本民主主義を「擬制」として貶める、倒錯した日 米関係認識・日本の国内体制認識からは(「一定の対米自主性」の「展望」は: 引用者補足)切り開きようがないだろう。』(原文改行)丸さんが一旦、植民地 従属と解釈すると、アメリカは「あまりに万能すぎる」ほど「万能」になるよう です。「万能すぎる」アメリカに対しては日本は奴隷か無になるほかなく、原は 「倒錯」している?原は自主性のない植民地従属と規定するのだから、日本の側 の自主性の事例提示は痛烈な批判になると丸さんは錯覚するわけです。」 (「原」)
私(丸)が『日本の「対米従属」についての一試論』の中で、「原は自主性の
ない植民地従属と規定」している(としてそれを批判している)、とする原氏の
議論の前提がそもそも原氏の「錯覚」(ないし妄言、もしくは論旨のすり替えに
よる稚拙な印象操作行為)にすぎないものであることはすでに指摘した通りであ
る。また、私の文章からの引用に付された原氏の手による「引用者補足」も誤り
である。ここで私が、(原氏の主張するような認識からは)「切り開きようがな
いだろう」と言っているのは、「さらにそこから一歩進んで、本格的に対米従属
からの脱却を図るには、このような世論と運動の力をより自覚的に対米交渉力と
して変換し外交に当たることを政権に強いる、あるいはそのような外交 を行う
ことができる政権を、私たち国民・有権者が自覚的に作っていく」(必要があ
る)という「展望」のことである。「一定の対米自主性」の発揮される余地と機
会は“すでに”冷戦期において存在し、(冷戦期から低下・減少したとは言え)現
在でも存在している、というのが『日本の「対米従属」についての一試論』で私
が述べたことである。それを受けての、「さらにそこから一歩進んで……」という
今後の「展望」なのだから、そこで再度「一定の対米自主性」を云々しても新た
な「展望」にはならない。原氏は、私の投稿の内容はおろか、自分が書いている
文章の内容もいまいち理解・把握できていないのではないだろうか?
また私は、「「万能すぎる」アメリカに対しては日本は奴隷か無になるほかな
く」などとは言っていない。これも原氏の思い込みか何かであろう。原氏に散見
される、このような記述の解釈や論旨のすり替え、不正確な引用等が故意ではな
く無意識・無自覚のものだとすれば、原氏に何らかの「倒錯」の可能性を疑って
もあながち見当外れとは言えまい。
「だが、そのような展望(「本格的に対米従属からの脱却を図るには、このよ うな世論と運動の力をより自覚的に対米交渉力として変換し外交に当たることを 政権に強いる、あるいはそのような外交を行うことができる政権を、私たち国 民・有権者が自覚的に作っていく」という展望――引用者注)は、「頭脳はアメリ カであり、日本社会の神経中枢がはしる背骨が官僚機構、その腕が万年与党の自 民党や野田政権で、独占資本はその足にすぎません。アメリカの支配は主にその 背骨である日本の官僚機構を通じて貫徹されるのだということです。」「サンフ ランシスコ条約の締結による日本の形式的独立と占領軍の撤退以降、日本の主権 を掌握してきたのは国民(その代理人としての政治家)ではなく官僚機 構で あったということになります。日本における擬制的民主主義の根源がここにあり ます。」「日本が「従属的に同盟」しているとはいえ、その「従属」は20世紀 初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」とは違いますが、それに近いと言った ほうが実態をより良く表現するものだと思われます。」「日本の官僚機構は国内 主権を握っているとはいえ、その主権はアメリカから任命された「現地支配人」 ほどのものにすぎず、アメリカの意向を斟酌して自国の総理大臣を放り出す画策 をするのですから、売国性は露骨なもので植民地を彷彿させるに十分で、……」 「限りなくアメリカの一重支配に近い支配が現在の日本で行われている」(日本 の官僚機構は)「無答責の「主権」を行使する存在」「無答責でありな がら主 権(独裁)を掌握する」等々(原『特質』)の、“支配者・悪役として万能の”―― あまりに万能すぎる――「アメリカ」や「日本の官僚機構」を思い描き、戦後日本 民主主義を「擬制」として貶める、倒錯した日米関係認識・日本の国内体制認識 からは切り開きようがないだろう(注14)。」(『日本の「対米従属」につい ての一試論』(下))
原氏は“なぜか”引用しなかったが、上のより正確な引用で明らかなように、私 は、原氏自身が述べる所の「頭脳はアメリカであり、日本社会の神経中枢がはし る背骨が官僚機構、その腕が万年与党の自民党や野田政権で、独占資本はその足 にすぎません。アメリカの支配は主にその背骨である日本の官僚機構を通じて貫 徹されるのだということです。」「サンフランシスコ条約の締結による日本の形 式的独立と占領軍の撤退以降、日本の主権を掌握してきたのは国民(その代理人 としての政治家)ではなく官僚機構であったということになります。日本におけ る擬制的民主主義の根源がここにあります。」「日本が「従属的に同盟」してい るとはいえ、その「従属」は20世紀初頭の植民地全盛時代の「植民 地的従 属」とは違いますが、それに近いと言ったほうが実態をより良く表現するものだ と思われます。」「日本の官僚機構は国内主権を握っているとはいえ、その主権 はアメリカから任命された「現地支配人」ほどのものにすぎず、アメリカの意向 を斟酌して自国の総理大臣を放り出す画策をするのですから、売国性は露骨なも ので植民地を彷彿させるに十分で、……」「限りなくアメリカの一重支配に近い支 配が現在の日本で行われている」(日本の官僚機構は)「無答責の「主権」を行 使する存在」「無答責でありながら主権(独裁)を掌握する」等々の主張を、 「“支配者・悪役として万能の”――あまりに万能すぎる――「アメリカ」や「日本の 官僚機構」を思い描き、戦後日本民主主義を「擬制」として貶 める、倒錯した 日米関係認識・日本の国内体制認識」ものとして批判した。原氏に対するこの批 判は果たしてそれほど不当なものだろうか?続く原氏の反論を見てみよう。
「丸さんにあっては、誤解したものであれ、ひとたび、ある観念を得るとその独 りよがりな観念が一人歩きをしてしまうようです。
仮に丸さんが誤解する植民地従属だとしても、奴隷だって反乱を起こす(スパ ルタクスの反乱)し、フランス帝国主義の植民地支配下にあってもホーチミンは 独立運動を起こしたことくらいは思いめぐらしてもよさそうなものなのです。何 度も言いますが、従属は決して自主性を排除しないのです。
そういうわけで、国内諸勢力の反抗や自主的対応、運動があることを主張する だけでは、私の小論への反論にはならないのです。」(「原」)
原氏は、奴隷“一般”が“恒常的に”どのような状態にあったかについては“一切
触れず”、「反乱」という、(奴隷の置かれていた一般的・全般的状況からすれ
ば)イレギュラーな事例を提示する。また、フランス領インドシナ(の内、ベト
ナム)“総体として”や、あるいは当時のベトナムの現地支配層・現地支配体制総
体としての動向にはこれまた“一切触れず”、「独立運動」が当時のベトナムの国
内諸勢力のひとつとして誕生した、という事例を提示する。そして、「奴隷だっ
て反乱を起こす」し「植民地従属」の下でも独立運動は起きた、という事をもっ
て、戦後日本の対米従属のあり方についても「国内諸勢力の反抗や自主的対応、
運動があることを主張するだけでは、私の小論への反論には ならない」と言
う。だがそもそも、私の意見は、「国内諸勢力の反抗や自主的対応、運動がある
ことを主張するだけ」にとどまるものではない。原氏はここでも相変わらず、議
論の前提そのものを違えている。戦後日本政府、およびその中枢を占めた(国内
支配勢力としての)戦後日本保守勢力もまた、時には「国内諸勢力の反抗や自主
的対応、運動」を一定の対米交渉力へと変換してきた(主体的に国内世論と運動
を利用してそうしたのか、それとも世論と運動の力に強いられてなし崩し的にそ
うした・そうせざる得なくなったか、等は別にして)、とも、私は主張していた
はずである。また、項目順は前後してしまうが、原氏が(2)で述べる、「孫崎
享氏の著作・『戦後史の正体』でも、自民党政権には「追随 」路線ばかりでは
なく「自主」路線があり、両者の「相克だった」と言われています」と関連付け
て言えば、私は、孫崎氏のように個々の政治指導者やその時々の内閣の性向に着
目しての「自主」や「追随」を論じているのではない。アメリカの国際的覇権の
構造と戦後日本国家の立脚点、進路、立ち位置から、「「20世紀初頭の植民地
全盛時代の「植民地的従属」」からは最も遠い形態」としての日本の対米従属の
形態と、一定の対米交渉の余地と機会、そこでの交渉力が生じる構造を見ている
のである。『日本の「対米従属」についての一試論』で論じられているのは、あ
くまで戦後日本国家“総体として”の“恒常的な”対米従属関係についてなのであ
る。従って、今回原氏が挙げるような奴隷反乱や「植民 地従属」下での一部
「国内諸勢力の反抗や自主的対応、運動」の例を提示されたところで、「私の小
論への反論にはならないのです」。
また、「何度も言いますが、従属は決して自主性を排除しないのです。」と原
氏は述べている。しかしそもそも原氏の主張するところの「従属」とは、「20
世紀初頭の植民地全盛時代の「植民地的従属」とは違いますが、それに近いと
言ったほうが実態をより良く表現するものだと思われ」るような「従属」、「日
本の官僚機構は国内主権を握っているとはいえ、その主権はアメリカから任命さ
れた「現地支配人」ほどのものにすぎず、アメリカの意向を斟酌して自国の総理
大臣を放り出す画策をするのですから、売国性は露骨なもので植民地を彷彿させ
るに十分」なほどの「従属」、「限りなくアメリカの一重支配に近い支配が現在
の日本で行われている」という「従属」、である。そこで、「近いと言 ったほ
うが実態をより良く表現する」「彷彿させるに十分」と言われている「植民地」
(従属のあり方)とは、当然のことながら――イレギュラーな奴隷反乱や、「植民
地従属」下での一部「国内諸勢力の反抗や自主的対応、運動」ではなく――植民地
一般の恒常的な従属のあり方と言うことになるであろう。従って「植民地」(一
般の恒常的な従属のあり方に「近いと言ったほうが実態をより良く表現する」
「彷彿させるに十分」)という文言は、「自主性」の欠如をことさらに強調する
意味でこそ使用されるべきものであろうし、またそのような文脈の中で用いてこ
そ、整合性・一貫性を保ち得るものであろう。原氏が、「何度も言」うほど日本
の対米「自主性」について強調したいのであれば、「自主性」の欠 如をことさ
らに強調するこれまでの自らの主張なり文言なりをまずは撤回・修正することこ
そが、己が真っ先になすべきことであろう。あるいは、奴隷反乱並みに恒常的・
一般的とは言いがたい状況や、植民地総体・一般ではない、あくまで植民地従属
国内の「運動」における反抗的・自主的動向の事例をもっぱら想定して、「植民
地」に「近いと言ったほうが実態をより良く表現する」とか「彷彿させるに十
分」とか言っていたのであれば、そもそも「植民地」という言葉の使用法が不適
切なのであるから、やはり文言の撤回・修正は不可避だろう。原氏は私のことを
批判(原氏の前提がことごとく誤っているので、そもそも批判の体を成していな
いが)している場合ではない。
「誤解したものであれ、ひとたび、ある観念を得るとその独りよがりな観念が
一人歩きをしてしまうようです」という言葉は、まさしく原氏自身にとってこそ
最もふさわしい言葉である。原氏の反論からは、己自身を省みる能力の欠如と、
自身が犯している過ちをさも他人が犯しているかのように擦り付ける倒錯性があ
ふれている。
(5)「私が植民地従属と規定しているとは丸さんも解釈せず、丸さんが無視し
た文言にも目が行ったことでしょう」という、原氏の議論・私への批判の前提が
そもそも原氏の「錯覚」の類であることは、すでに述べたとおりである。
一方この項目で原氏は、自身の主張が、「国家権力の構造というかぎり」
「60年代に旺盛に行われた「自立・従属」論争」「の蓄積を念頭においてい
る」ことを強調するとともに、私(丸)がそれを「概括的にでもフォローしてい
ない」として、そこに、原氏の主張を批判する上でさも問題があったかのように
語っている。
原氏は、自身の主張が「国家権力の構造というかぎり、こうした議論の蓄積を
念頭においている」「その証拠」として、「私の小論には次のような文言があり
ます」と言って以下の一文を自ら引用する。
『・・・・60年代の自立・従属論争で自立論の側が主張したような「従属」で す。ところが、日本の場合は、当時の論争の当事者が“誰も予想していなかった” 官僚機構が国家権力をにぎりアメリカに「従属」しているのですから、その「従 属」は独占資本による「従属」とは自ずから性格が違ってきます。』
原氏の主張の最大のポイントは、「官僚機構が国家権力をにぎりアメリカに
「従属」している」という点である。そして私が原氏の主張について批判する最
大のポイントも、まさしくそこである。そして原氏自身の明言(“”を打って強
調)に従えば、それは「当時の論争の当事者が“誰も予想していなかった”」とい
う、原氏が新たに打ち出したまったくの新機軸である。「当時の論争の当事者が
“誰も予想していなかった”」という、原氏が新たに打ち出したポイントを最大の
焦点として批判するに当たって、かつての自立・従属論争の枠に必ずしも則らな
い事が、果たしてそれほど重大な瑕疵や問題となるのであろうか?しかも原氏
は、その同じ「小論」=『日本の国家権力の構造と腐敗の特質、左翼の 偏狭さ
について』の中で、「日本独占資本はアメリカに「従属的に同盟」していても日
本を支配する主体にはなっておらず、主体は官僚機構である」とも言っている。
このような日本資本主義認識、(国内)権力認識は、「60年代に旺盛に行われ
た「自立・従属」論争」における前提としての資本主義・権力認識をそもそも否
定する(少なくとも大きく踏み越える)ものなのではなかろうか?
従来の自立・従属論争における大きな前提としてあったであろうものを、かよ
うに豪快にひっくり返して見せた上で打ち出された原氏の主張は、当然過去のそ
の論争を踏まえて生み出されたものであろう。従ってその原氏の主張を、従来の
自立・従属論争の経緯と文脈に忠実に則って批判することも、もちろん可能では
あろう。だが、そうするかどうかは最早原氏の論を批判する上での必要条件とは
言えないのではないだろうか。原氏の主張自体が、すでに従来の自立・従属論争
の枠を踏み越えてしまっているからである。
その“パイオニア”(「当時の論争の当事者が“誰も予想していなかった”」!!
云々)たる当の原氏自身が、自分で前提をひっくり返して見せた「60年代の自
立・従属論争」を盾に取って自らへの批判に応じようするかのごとき有様を、今
度は見せている。それを矛盾や不整合とまでは言わないが、いささか拍子抜けは
させられる。ただいずれにしろ、私への反論とはなり難いもののように思われ
る。
(6)「最後に、丸さんは投稿の末尾で、私が鳩山の普天間基地の県外移設表明 を評価したことに対し、「鳩山や民主党を支持したり期待した自分自身を、(結 果としての鳩山や民主党の期待外れぶりから)免責したい意識」の現れ、「現実 逃避と政治的退廃」だと言っていますが、想像力を逞しくした非難はやめた方が いいでしょう。」(「原」)
まず、原氏の犯している明確な誤りから指摘していくと、私は、原氏が「鳩山 の普天間基地の県外移設表明を評価したことに対し」て、「……免責したい意識」 の現われ、「現実逃避と政治的退廃」などとは言っていない。私が、「……免責し たい意識」の現われ、「現実逃避と政治的退廃」と言ったのは、「鳩山(由紀 夫)内閣による沖縄普天間基地の辺野古移設中止・(最低でも)県外移設の方 針・動向とその頓挫について、「ポイントは官僚が政府の意向を妨害する秘密電 報を米政府に送っていたことです」「日本の官僚機構は……アメリカの意向を斟酌 して自国の総理大臣を放り出す画策をするのです……」とし、そこから(「この事 実を知って、これまで知り得ていた日米関係の諸事実を私の頭の中 でいっぺん に整理することができるようになりました」)、上記のような“支配者・悪役と して万能の”「アメリカ」像や「日本の官僚機構」像を展開していく。だがその 一方で、そもそも鳩山(内閣)が公式にせよ非公式にせよ、アメリカ政府高官に 対してやその他外交ルートを通して、普天間基地の辺野古移設中止・(最低で も)県外移設方針をアメリカに対しまともに提起したことがあったのか?といっ た、鳩山の無為無策、(対米)行動の欠如には一切触れようとしない」、原氏の (この期に及んでの)“不整合ぶり”に対してである。「鳩山の普天間基地の県外 移設表明」自体は私も評価するし、また仮にそうでなかったとしても、「移設表 明を評価した」だけで「現実逃避と政治的退廃」とまで非難する のは理不尽す ぎるだろう。そして現に私はそんな理不尽なことは言っていない。私が問題とし ているのはあくまで、「普天間基地の県外移設」に向けた鳩山の行動(および行 動の欠如)に対する原氏の評価・分析姿勢についてである。原氏には今一度、自 分自身の言葉を良く噛み締めていただきたいものである。
「誤解したものであれ、ひとたび、ある観念を得るとその独りよがりな観念が一 人歩きをしてしまうようです」
「想像力を逞しくした非難はやめた方がいいでしょう。」
また、私が、「……免責したい意識」の現われ、「現実逃避と政治的退廃」と 言ったのは、「ここからは個人的推測の域を出ないが」、と断った上でのことで ある。そしてその「推測」は、上に挙げた原氏の不整合ぶりを前提としてのもの である。つまり、まったくの「想像力」のみに依った「非難」などではない。 従って、原氏がこの「推測」を否定するからには、私の「推測」に代わる、自身 の不整合ぶりについての“真の理由”を明らかにすることが不可欠である。だが、 原氏はそれをまったくしていない。何の論拠も示さずに、ただただ、「想像力を 逞しくした非難はやめた方がいいでしょう」と、言いっ放しの言辞を弄するだけ である。だが、私の、少なくとも一定の論拠ないし前提を示した上での 「推 測」に対し、何の論拠も示さない・示せない原氏が、「想像力を逞しくした非難 はやめた方がいいでしょう」などと言える資格はないのである。
結びにかえて
ここまで述べてきたことから、この度の原氏の投稿は、私の主張に対する批
判・反論としての内実をまったく欠いた、ただ表面的に“反論っぽさ”を取り繕っ
ただけの、“反論モドキ”といっても過言ではない。原氏が、このような“反論モ
ドキ”しか返せないことからも、「原氏の論のそもそもの致命的な弱点ないし破
たん」は明らかであるように思われる。だが、原氏の対応において問題とすべき
点はこの度の投稿にとどまるものではない。
原氏はこの度の投稿の冒頭で、私(丸)の『日本の「対米従属」についての一
試論』について、「冒頭と末尾に私のHNをあげて批判されているので、私の小論
「日本の国家権力の構造・・」(7月28日付)への批判投稿のようですね。お
そらくは、丸さんの批判への反論「丸さんへの回答」(9月4日付)で、丸さん
の批判は問題を正面から論じていないと、私が回答したことへの対応投稿なので
しょう」と述べている。だが私は、すでに『日本の「対米従属」についての一試
論』以前に、――「「丸さんへの回答」(9月4日付)で、丸さんの批判は(「日
本の国家権力の構造・・」で取り上げられている)問題を正面から論じていない
と、私(原氏)が回答したことへの対応投稿」として――「原仙作氏の『丸さんへ
の回答』について」(9月14日付)、「原仙作氏の「日本の国家権力の構造と
腐敗の特質」論へのいく つかの疑問――その官僚機構観についてを中心に」
(10月5日付)、の二つの投稿を行っている(いずれも「冒頭と末尾に私(原
氏)のHNをあげて批判」している)。とりわけ後者の投稿については、タイトル
にもある通り、原氏の「官僚機構観について」を正面から取り上げている。また
その末尾には、「対米従属の問題については今回触れることができなかったの
で、機会があればまた別途論じたいと思う」ともあるわけだから、原氏の「日本
の国家権力の構造と腐敗の特質」論への正面からの批判としては、『一試論』と
併せて一続きということになる。
前者の投稿についても、これは、原氏の「丸さんへの回答」への最も直接的な
「対応投稿」である。
にもかかわらず、原氏は、一足飛びならぬ“二足飛び”に、(一番最後に投稿さ
れた)『一試論』についてのみ、反論(モドキ)投稿を行うのである。もちろん
『さざ波通信』への投稿は原氏にとっての義務ではないし、実生活上の“忙しさ”
等、投稿しようにも投稿できない事情がある場合もあろうから、原氏が先の私か
らの二つの投稿に対して回答・反論投稿しないことそれ自体をとやかく言うつも
りは毛頭無い。しかし今回、原氏は、『一試論』に対する反論投稿を行ってい
る。つまり原氏は、私の批判投稿を受けて以降、時間的・物理的事情により新た
な投稿自体が出来なくなった、という事ではないのである。また、私の三つの投
稿はそれぞれ異なる論点から論じたものであるから、最後の『一試 論』につい
てだけの反論では先の二つの私の投稿への反論にはなりようが無い。新規の投稿
自体が出来ない訳ではなく、また三つの批判投稿がそれぞれ別個の回答・反論を
必要とするものであるならば、原氏が自らの主張を擁護する上で、先の二つへの
反論をすっ飛ばす合理的理由は無いはずである。と、すれば、原氏は、先に投稿
されている二つの批判意見に対しては、“逃げとダンマリ”を決め込んだ=反論不
能、自らの主張の破たんを認めた、と(客観的には)見なすよりほかない。ただ
それを原氏が、私からの“問い”(批判投稿)に対する自身の直接の回答によって
は“語らない”というだけである。だが、このようにして「問うに落ち」ない代わ
りに、原氏は、先の二つの私の投稿に対する逃げとダンマ リという行動、そし
て『一試論』への反論の体をなさない反論モドキぶりによって、自らの主張の破
たんについて自ら「語るに落ちる」のである。
今回の私の投稿のタイトルから「破たん」や「退廃」という語句だけを拾い出
して見れば、ずいぶんと不穏当な物言いに思えるかもしれない。だが、自らの主
張に加えられる批判や疑問に対してまともに反論が出来ないのであれば、それは
主張の「破たん」と評されても致し方ないであろう。また、批判や疑問にまとも
に答えられないにもかかわらずそれを「正面から」認めず、主張の撤回・修正も
行わない、あるいは、自らに寄せられた批判・反論・疑問に対する“逃げとダン
マリ”を決め込んだまま、新規投稿だけは繰り返すというのであれば、それは
「退廃」的対応というものであろう。このような評価が不当だというなら、私の
これまでの一連の批判・疑問に論拠を挙げて「正面から」答える自説の 論証
を、原氏が行って見せれば良いだけの事である。それが出来ないのであれば、今
回もまた、これまでたびたび繰り返してきたお馴染みの“逃げとダンマリ”によっ
て、「問うに落ちずに語るに落ちる」ということなのだろう。