鎌田慧さん執筆の「巧言令色鮮仁」(東京新聞コラム)を読み、うなづきながら考えた。「巧言令色鮮仁」という 言葉は、中国の古典が由来ではないかと思う。かざった言葉は、きらびやかであるけれど、人間味はとてもうすい。 そんな意味と思う。鎌田さんはこう述べている。
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「戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉には意味をなさない。私は若い世代の 人々に特に呼び掛けつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く思いを寄せる努力をなすべ きだと訴えようと思う」
二十八日、安倍晋三首相の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」での式辞である。六十一年前のこの日を、首相は「主権を取り戻し、日本を日本人自身のものとした日」というのだが、その二年十一カ月後、沖縄・伊江島の東海岸に、三隻の大型上陸用舟艇が乗り上げ、三百人の米兵が、カービン銃を両手に抱えて上陸してきた。
ブルドーザーで家は押しつぶされ、畑は焼き払われ、抵抗するものは逮捕された。ちょうどその十年前にも、上陸してきた米軍に「島の半分以上の人は戦争で殺され」(阿波根昌鴻『米軍と農民』)ていた。
この「主権を取り戻してから」の侵攻があっても、「日本を日本人自身のものにした」とアッケラカンの安倍首相に、あの穏やかな笑顔ながら、眼光鋭い阿波根さんはどういうのだろうか。
阿波根さんは十一年前、百一歳で他界している。ご存命なら「沖縄が経てきた辛苦に ただ深く思いを寄せる努力をなすべきだ」という巧言令色を、哀れに思うであろう。
人間性においては、生産者である農民の方が軍人に勝っている、というのが、阿波根 さんの信念だった。
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安倍首相の言葉は、福島に行ってもアメリカに行っても、ロシアに行ってもなかなか多彩で満遍なく言い及んでいる。けれども、言葉と安部晋三という政治家との緊張関係がない。中東のトルコやエジプトに原発を自らトップセールスマンとなって購買の約束を、とくとくと記者会見した時に口がふさがらなかった。
自分が対象に対して真剣に自分の政治家としてのまっとうな誠意を尽くして取り組み続けるというそんな信念も責任感も薄っぺらなものしか感じられない。
だから、言葉は「責任ある実行を最後まで努力し続ける」と手をふりあげ、眼は聴衆を意識して視線をふりまきながら、絶叫して訴えても、言葉に「なあんちゃって!!」と舌の奥でへらへらとしている無責任さと実行停止と最初だけの言葉だけさ、という無言の本音がへんに笑っている笑顔とは異なるにやけた眼が確かに正直に表現している。
「TPPは不参加だ」「憲法96条は盟友の公明党との信頼を尊重して変えない」。
すべてがその場限りである。TPPは参加し、公明党との駆け引きでとうとう公明党に譲歩を引き出す策略を駆使した。
「巧言令色仁すくなし」。
その言葉をさほど時間をおかずに再度思いおこされる事態が発生した。
石原慎太郎前都知事がぶちあげた東京オリンピック誘致。石原都政を継承した猪瀬直樹都知事は、熱心に東京にオリンピックを誘致するために熱心に取り組み続けた。しかし、他の候補地であるイスタンブールとその国家トルコに対して、イスラム教批判とイスラム文化批判とを公式会見でおこなった。
猪瀬直樹には、都知事選の時にも他の宇都宮健児候補への高飛車な物言いなど前々から相手を見下す物の言い方が、なにか洒落たような勘違いが見られた。最もこれは前都知事石原慎太郎に顕著であり、芸能人北野武も体制の権威に迎合するスタンスから庶民や自分よりも格下と思い込んだ相手への罵詈雑言が目立った。日本の国内に、そのような物の言い方がなにか洒落た「かっこ いい」ものと勘違いしたコミュニケーションが目立つ。それは、弱者をいじめたりいじったりすることが学校から社会にまで及ぶ社会病理とつながっている。
オリンピックに話を戻すと、日本が本家とする柔道で、オリンピック女性選手に対するパワハラやセクハラが内部からの告発により、IOCにまで届く大問題となった。金メダルをとるためにはすべてが許容され、勝つことがなによりも優先されていた。ふりかえれば、1964年東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉氏の自死も、所属する自衛隊体育学校の足場で、金メダル獲得と自分の状態の葛藤に悩んでいたことと無縁ではない。
猪瀬都知事は、トルコに対して謝罪表明をおこない、相手のトルコ国家とIOCが寛大に許容したことによって、この問題は終息してかに見えた。ところが猪瀬直樹は、そのあとに「敵が誰かわかった」と発言して、「少しも反省していない」と世論から批判されている。
安部晋三、猪瀬直樹、石原慎太郎とこの国の政治家たちの言動は、国内では「うけねらい」とされて本人達は少しも反省はしていないばかりか、それを「かっこいい」とうけとめる国民の社会心理がある。言葉と実態が遊離して乖離現象をおこしている。言葉は駆け引きの道具であり、国民を懐柔したり恫喝したりするひとつの手段としか見なされていない。
このことは、世界人権宣言と精神をひとつにする日本国憲法が、日本国内では少しも尊重されず、憲法改悪を一気に決行しようとする国内の反動極右政治家と政治世論によってひきおこされている。さらにそれは、日本国憲法よりも日米安保条約が優先され、さらに「日米地位協定」の存在が日本を自立させずアメリカの隷属国家とされていることによる本質的な政治情勢の戦後史に由来する。
市民スボーツを楽しみ、熱心にスポーツを楽しみ努力するスポーツマン、スポーツウィメンの努力を無に帰すような政治家やスポーツ指導者たちは、阻害され畸形の日本社会の特質を社会にもだらしている。猪瀬都知事等は、東京湾に近距離にオリンピック施設を建設して便利なことを強調するが、そのかげでさまざまな文化施設や居住施設、産業施設がのきなみ追放させられつつある。しかも、ほぼ東京湾に隣接する施設は、地震や災害への防災施策をどのように考慮しているのか、見えてこない。
このような状態でもなおも東京オリンピックを強行しようとする背景に、偏狭なナショナリズムをいっそう活性化して、日本国憲法改憲を容易に遂行させる条件づくりを整えようとする目論見が透けてみえる。
言葉と実際の乖離を解決する上で、言葉の理念に向けて政治社会を向上させるのではなく、ゆがんだ現在の日本社会に合わせて言葉と社会文化を無理強いさせていく。その方向に見えるものは、未来社会に再来するナチス・アウシュビッツの檻の中であり、フランクルが描いた「夜と霧」の形象である。