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「現状分析と対抗戦略」討論欄

京都府知事選と政治の闘争的課題~「2013/5/4 高額所得者 50代 医師」さんへ

2014/5/10 櫻井智志

高額さん、
京都に所在していらっしゃるだけに生活感覚や政治感覚に鋭い叙述と思いました。神奈川にいて、的外れなところも私の側に多々あると思います、いくつか応答できる箇所を応えさせていただきます。
高額さんの立てた評論の柱に即して述べさせていただきます。

1)首長選において、日本共産党と他党との共闘は可能か?
過去36年間計10回の府知事選挙は、すべて共産党単独推薦でした(96年京都市長選では新社会党も共闘したが、京都では名前だけで実態はないに等しい党でした)。
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 戦後の公選制になってからの知事は、以下のとおりです。
公選
33 木村惇 1947年4月 - 1950年4月 1期目
34 蜷川虎三 1950年4月 - 1954年4月 東京府 1期目
35 蜷川虎三 1954年4月 - 1958年4月 2期目
36 蜷川虎三 1958年4月 - 1962年4月 3期目
37 蜷川虎三 1962年4月 - 1966年4月 4期目
38 蜷川虎三 1966年4月 - 1970年4月 5期目
39 蜷川虎三 1970年4月 - 1974年4月 6期目
40 蜷川虎三 1974年4月 - 1978年4月 7期目
41 林田悠紀夫 1978年4月 - 1982年4月 京都府 1期目
42 林田悠紀夫 1982年4月 - 1986年4月 2期目
43 荒巻禎一 1986年4月 - 1990年4月 福岡県 1期目
44 荒巻禎一 1990年4月 - 1994年4月 2期目
45 荒巻禎一 1994年4月 - 1998年4月 3期目
46 荒巻禎一 1998年4月 - 2002年4月 4期目
47 山田啓二 2002年4月 - 2006年4月 兵庫県 1期目
48 山田啓二 2006年4月 - 2010年4月 2期目
49 山田啓二 2010年4月 - 2014年4月 3期目
50 山田啓二 2014年4月 - 現在     4期目

 これを見ますと、過去36年間というのは、1978年をさしていますから、蜷川虎三知事から林田悠紀夫知事に交代してから後の時期をさしていますね。
四期務めている荒巻禎一氏や現職の山田啓二氏に比べて、蜷川虎三氏は七期24年間を京都府の知事として君臨してきました。
 私は高額さんが述べていない蜷川氏の部分について述べます。

以下にウイキペディアで検索したことを抜粋して記します。

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第34代~第40代 蜷川虎三(にながわとらぞう)
就任期間:昭和25年(1950)4月~昭和53年4月

 旧制東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)、農商務省水産講習所(現東京海洋大学)卒業後、京都帝国大学経済学部に入学。1927年、同助教授となる。
当初はマルクス経済学から漁業経済学を研究していたが、ドイツに留学後、『統計利用に於ける基本問題』で経済学博士号を取得するも教授に昇格するのはずっと遅く1942年(昭和17年)だった。1945年(昭和20年)に経済学部長となるも翌年、戦争責任を自認し辞職する。
その後、1948年(昭和23年)に初代の中小企業庁長官となったものの、吉田茂首相と中小企業政策をめぐって対立し1950年(昭和25年)に辞任。同年、日本社会党公認・全京都民主戦線統一会議(民統)推薦で京都府知事選挙に立候補し当選、以後7期28年間知事を務める。なお、同年には参議院議員選挙と京都市長選も行われ、それぞれ民統が推した大山郁夫・高山義三が当選する。しかし高山市長はその後保守系に軸足を置き始め、高山が市長を退き国立京都国際会館館長になった後でも確執が続いた。
府政に於いては、「憲法を暮らしの中に生かそう」の垂れ幕を京都府庁に掲げた。憲法記念日には日本国憲法前文を記した屏風を背に訓示するなど、地方自治の現場でも一貫して護憲の立場を実践し続けた。それは、施策にもあらわれている。
教育行政では「十五の春は泣かせない」というスローガンの下、戦後直後の「高校三原則」を原則堅持して、高校の小学校区・総合選抜入試をうちだした。これにより、受験戦争を緩和し、中学卒業者に広く中等教育への門戸を開いた。こうした教育政策によって高校進学率は上昇し、京都大学へ合格者を輩出する高校数も増加したが、他方、洛北高校等古参の名門高の進学実績は悪化した。また、学校教職員の勤務評定の実施も「政府権力からの府教育への干渉」だとして断固拒否した。
福祉行政に関しても全国で初めて「65歳以上のお年寄り医療費助成制度」をつくるなど手厚い予算をつけた。公害対策でもかなり厳しい基準を設けた。これらは、国を上回る基準を定めることで、国の福祉政策や環境政策をリードするという戦略だった。また、現業公務員を大量に採用し、組合を保護した。
また産業振興策は、蜷川自身が中小企業庁初代長官として中小企業政策に携わっていたため、国の政策を先進的にとりいれた。また、京都府独自でも産業振興計画を策定。その中で「政・官・学・財」が一体となってバックアップし企業が京都に根付くような体制(府の融資条件の緩和や工業団地設立など)をつくっていく。金融政策では府の資金管理を地元銀行(京都銀行)に任せ、公共事業の資金も地元銀行から借り受けるなど、地元金融機関の育成をはかった。繊維産業をはじめとする地場産業の保護・活性化にも力を注いだ。また、「民力培養」をキーワードに生活や産業のための道路はどんどん建設するとの方針がだされ、地元建設業者に工事の仕事が割り振られた。また、国の大型開発行政と住民の反対運動が対立した際には、度々住民側に理解を示した。
農業・漁業などに関しては、国が推し進める稲作減反に反対の姿勢を取り、独自の「京都食管」と呼ばれる価格保障制度や育成策をだす。その事で第一次産業の人たちが安心して京都に住めるような環境もつくった。観光客が京都の観光でお金を落としてくれるような施策もうち、京都ブランドを全国に売り出していく。
このように、政策運営は総じて手堅く、産業振興に注力しつつも大規模公共事業には消極的であった。この運営方針が当たった事と高度成長が重なった事で、税金が豊かに集まり、また、予算編成のさいは歳出削減に重点が置かれたため、財政不振に苦しむことがほとんどなかった(1956年に山城大水害の影響で一度財政再建団体に転落したが、1962年に自力で立ち直っている。その後は黒字の年が多かった)。このため、しだいに医師会や農業団体など保守・中道系の一部の支持も獲得する。そのため選挙では圧倒的な強さを誇った。
政治的には、蜷川ははじめ日本社会党員として立候補したものの、前尾繁三郎など保守派との関係も維持していた。そのため自民党は1958年(昭和33年)の知事選挙では蜷川を推薦したが、蜷川が左派の反対にあってその推薦状を返上したため、以後自民党は知事選で蜷川を推薦することはなかった。その代わりに蜷川は純政会や府政同友会などの郡部保守政治家に代表される知事与党を味方につけ、1963年(昭和38年)からは府議会で多数派を占めるようになった。
また、1960年代からは革新勢力が都市部を中心に支持を拡大した。これに対して自民党は、京都財界や地方マスコミ(京都新聞。近畿放送の放送免許交付などを条件に自民党に有利な記事を書かせた[1])を味方にし、のちには民社党や公明党とも連携するようになった。社会党や共産党などの議会与党のほか、府職員労働組合、府教職員組合、府医師会などは引き続き蜷川を支持し、保革対立の様相が色濃くなった。また1960年代後半から蜷川と政策的に協調することが多くなった共産党は、都市問題などのイシューにうまく対応したこともあって、1970年代に京都府議会で急速に勢力を拡大した。
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ここで強調したいことは、二つです。
ひとつは、蜷川虎三氏は日本共産党ではなく、日本社会党員として立候補したこと、一度は自民党も1958年に推薦したけれど、左派の反対で推薦返上した後も自民党ではないけれど、郡部の保守政治家の純政会、府政同友会が支持したことの重みです。

今回の府知事選でも、もしも、日本共産党が推薦した尾崎望陣営が、国内産業で不況で苦しむ中小産業や保守政治勢力とも提携していたら、局面は変わったかもしれません。ただ、今回は山田知事の四期目なので、盤石の体制でしたから、府内の中小産業や保守政治家も山田知事に取り込まれていて、実現はそうとう困難なことだったと思います。私は選挙の前年の暮れから地道に選挙運動を固めていた尾崎望さんという人格のすばらしさに触れて、なんとかこのかたが当選できたら、と思いました。権力者や権威をふりかざさず、民医連の京都府会長でありながら、決して偉ぶることもなく、淡々と選挙に取り組み続けていました。尾崎さんにとっては、天の利には恵まれなかった選挙でした。

2)共闘相手の党はあるか
直接のパートナーは民主党(の革新派)でしょうけれど、労働運動の現状を考慮すれば困難です。民間大単産のない京都では、労働運動の主流は教組と自治体労組です。かつては市長選・知事選で旧社会党系・共産党系がこうした官公労を中心に共闘してきました。しかし78年知事選以後は、共闘がなくなりました(75年以後の京都市長選も、保守が相乗りして無風選挙になった)。そしてこれに、連合と全労連の分裂が追打ちをかけました。40年近くたった現在では、現職の京都府共産党幹部で「旧社会党その他の党と共闘して選挙戦を闘った」経験のある幹部自体、ほぼ皆無です。むろん連合系自治労の中でも、「府職員リストラを公約に掲げる府知事を何で我々が応援するのか」と、民主党京都府 本部の相乗りに批判の声はあります。しかし共闘には程遠いです。さらに連合系・全労連系共に、新規教員・地方公務員採用抑制に加え、当局の指導で組合加入しない若手が増え、結果的に「組合員の高齢化で退職者年金組合の如き様相を呈して」います。最早労働運動に活力なく、ここからの革新共闘は望み薄です。
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 高額さんの分析のとおりかと存じます。
共闘の相手は民主党、???前原誠司民主党元代表の足元です。まず民主党とはすぐに組めない相手です。社民党も自主投票といいつつ、実質は山田知事候補支援と聴いています。京都の社会党は革新自治体全盛期でも、大橋和孝大阪府委員長が自公民社と提携して、社共の共闘を破壊したと言われたものです。京都は、共産党と無党派の市民層、良心的保守派の共同が成立したなら、府知事選挙で民主勢力勝利もありうるでしょう。しかし、現在はかなり悲観的要素が強いです。その足元を固める時期が必要と思います。

3)広く無党派の支持を得られる候補者および争点づくり
いわゆる相乗り官僚候補に勝利した知事選例としては、千葉の堂本暁子氏・長野の田中康夫氏・滋賀の嘉田由紀子氏らが挙げられます。これらに共通していえるのは、女性アナウンサー・地元出身の有名作家・女性大学教授等「広く無党派票を集められる人材であった」点です。
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 今回の選挙で無党派層はどう流れたか、無党派層を集められる選挙運動はどうあるべきか。大きな課題ですね。京都市長選に出馬した頃に広原盛明さんのインターネットホームページにお邪魔して、応援のやりとりをしたり、京都勝手連にもインターネットを通じて交流したことがあります。広原さんは、もともとは住民運動を組織化する事務局長として大学のかたわら、ずっと裏方に徹していたようです。誰も立候補者がいないので、しかたなく立候補したと私は見ています。素晴らしい知識人ですね。「護憲円卓会議・兵庫」の運動でも、佐藤三郎さんらとともに民主主義運動をされていますね。

4)以上より私の結論
過去のような、保革2元論的対立図式では「革新府政再建」は不可能です(80年代以後では、こうした図式で勝利したのは83年の奥田福岡県知事だけでしょう。今後は、「政党・労組が前面に出ない(主導しない)」・「広く無党派層の獲得できる(政党色のない)候補者」・「府県民の要求にマッチした政策」の3点セットが鍵になると考えます。 ---------------------------------

 高額さん、貴兄の指摘する3点は重要な要素と私も共感します。そして私は、草の根に徹して選挙運動に取り組んでいる日本共産党の党員活動家の存在をなおざりにしたら、もっとひどい選挙結果になったと思います。私は、反党分子、反革命分子と決めつける日本共産党の行動様式を批判的に感じますが、最近の共産党はそのような言い方はずっと減ったのでしょうか、見かけません。これはいま考えていることですが、日本共産党の国民的な一点共闘という政策には賛成です。けれど、綱領だったと思いますが、「統一戦線」を強固な日本共産党の周辺を固めて徐々に拡大させていくことととらえているようですね。この国には「統一戦線学」という学問や理論、「統一戦線政治学」が必要と私は最近痛切 に思っています。念を押しますと、私は日本共産党を支持します。そしてそれ以上に、日本共産党を容認した広範な全国的な市民の連帯の成熟が、選挙勝利以外にも、まず反安倍自公政権・反安倍軍国主義闘争にとって、かなり時間的に早期に求められていると考えます。