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「日の丸・君が代」討論欄

論座事件について思うこと

1999/3/21 雑草渓 20代、学生

 「国民的討論と国民的合意に基づいて国旗・国歌を法制化すべき」という共産党の新見解については、私の友達からも、党員でない活動家からも、戦略上の問題あるいは手続き上の問題が指摘されている。前者は、まず政府の路線転換(法制化)の一因となり明らかな失策であるという点、あるいは現状の力関係においてこの議論は「日の丸・君が代」の法的正当化につながるだけじゃないかという点、「日の丸・君が代」のオルタナティヴを誰が出すのかという点(または革新陣営が国民の象徴をこれにしようと訴えるのかという疑問)、そして法制化されると教育現場の「日の丸・君が代」反対運動がますます不利な立場に追い込まれるという点、などがある。後者は、民主的手続きを経てもいないのに委員長などがいきなり一般紙などで路線転換を既成事実化したという点である。「国民的討論を」を呼びかける前に足元をみろという指摘だ。私もまったく同感である。
 こうした問題に加え、私は「新見解」には以下のような理論的問題があると考えている。
 新見解の問題は「国旗・国歌の法制化」を前提視している点である。いわく「国民的な討論をおこない、国民の合意を踏まえてこれをきちんと決める。きちんと決めるというのが【法制化】です」(3/18赤旗)。
 検討されるべきは、素朴に考えて何のメリットもない「国歌・国旗の法制化」にそこまでこだわる根拠はあるのかということである。委員長の記者会見などを見ると、明確な形で根拠が示されているわけではないが、文脈から次のような「根拠」が指摘できる。
 第一に、法的根拠もなく日本政府が日の丸・君が代を強制している現状への批判があり、”だから”法的根拠が必要だ、という文脈である。同時に、国旗・国歌の法制化に関する国民的討論が不在であることが「法的根拠のない強制」という現状を許してきた、というような議論も見られる。「議論をしたことが一度もない。それで政府が一方的に・・・何の法的根拠もないのに、教育現場にこれを押しつけて・・・」というわけだ。
 第二に、先進国のスタンダードからみて「異常」だという文脈である。「サミット参加国を例にとってみると・・・どの国も国歌・国旗を憲法や法律などできちんと規定しています。~今回新たに、国歌・国旗に関して法制上の措置をとることを提起していますが、これは世界の常識にかなったものであり・・・」 (2/16)。3/18の方では「国民にも子どもたちにも押しつけないのが近代国家の常識」だとあり、なぜか「法制化は世界のスタンダードだ」という意見は後景に退いているが、前言を撤回するには至っていない。以上である。
 次にこの「根拠」の問題点を考えてみる。
 第一の点について。確かにこれまでの「日の丸・君が代」反対運動は「教育現場への強制」を問題としてきたし、政府のそうした行為に対する批判の一材料として「法的根拠がない」という指摘をしてきたのだろう。しかしそうした反対運動は必ずしも法制化を前提としなくても可能であり、現に今までそのような前提はなくても反対運動はあった。法制化されることと強制がなくなることの因果関係の立証がなければ、あるいは「国旗・国歌の法制化に関する国民的討論」がなかったから運動が衰退し政府が好き勝手にやっている、ということの論証なしには、「だから法制化が必要だ」とは言えないはずである。これは第二の点とも関係するが、会見などで言われている世界のスタンダードを見てみても、例えばイギリスは法的根拠を持っていない。では法的根拠はないからといって強制しているかといえば、そうでもないとも言っている。つまり「法制化」は「日の丸・君が代の強制」への批判からは導き出せないのである。
 第二の点について。この「近代国家の常識」論には極めて重大な理論的欠陥がある。それは端的に言ってしまえば、「近代国家」あるいは先進国「スタンダード」の過度の理想化、ということである。
 この議論はここ数年の共産党の論調を特徴づけるものといえるが、これまでは主に行財政構造の領域において使われてきた。つまり日本の「開発主義的=自民党的行財政構造」をヨーロッパの「福祉国家型行財政構造」に転換する、という革新的改革論の一根拠として使われてきた。この「異常な国、日本」という捉え方は、この領域においては実践的には一定の有効性を持っていると言えよう。私も地域の福祉の取り組みの中で、何度もそうした議論を耳にしたことがある。しかしこの議論は、欧米諸国でも進行している新自由主義・福祉国家の縮小再編を持ち出されると苦しくなる。つまり「世界の常識」には問題もあるはずで、あえてそれを使うのであればプラグマティックに、つまりその危険性を自覚しながら使うべきである。
 ところでこうした「近代国家の常識」「異常な国、日本」論は、平和問題に関する領域で同じように使えるだろうか。なぜ小沢一郎は「普通の国」になれと言っているのか。他の先進国は、第二次世界大戦当時の象徴を改めた国も含め、先進国同盟の一員として国外に軍隊を派遣しているではないか。ガイドライン問題は「日本の特殊性」を擁護する運動ではないのか。日本は欧米と違って労働組合運動が平和運動を担ったり、かつてのそうした大衆運動の重要な遺産として、根強い平和意識があり、政府も今まで侵略に表立って荷担することができなかった。問題はあるけれど、「日本の特殊性」をむしろ積極的に評価しなければならない側面もあるはずである。法制化問題も、「日の丸・君が代」への大衆的抵抗によって、政府が法制化を言い出せなかったのではないか。国旗・国歌問題で日本が「遅れている」とする発想はあまりに単純だ。
 この問題は更に考えると、欧米型ナショナリズム批判や現代帝国主義論の不在という問題につながると思われる。赤旗を読むと、何かアメリカの方がましだと言わんばかりであるが、これは私から見れば社会科学への冒涜である。共産党は「日の丸」をかつての侵略という歴史的経緯から否定するが、では「星条旗」は戦後の幾多のアメリカの侵略の象徴ではないのか。アメリカには日の丸問題のような「暗さ」がないとおっしゃるかもしれない。しかしアメリカの大衆が「明るく」旗を振る姿は、ベトナムやパナマの人々から見たら、アメリカ帝国主義の傲慢さ以外にどう捉えられようか。また、アメリカなどには「強制」がないと言うが、いったい「強制」とは何か。問題は「個人」がそれを抑圧と感じるかどうかである。例えば少数民族や多様な文化への抑圧の中から国民統合装置がつくられてきた歴史を考えると、国旗・国歌が当該国内部に対しても何ら抑圧的側面を持っていないとは言えないはずだ。掲揚を義務づけられないが学校に星条旗がそびえ立っていたり、ガールスカウトのような大衆団体が「自発的に」子供に教育するのは抑圧にならないのか。「国民的討論」と軽々しく言うが、国内外の誰もがそれを侵略や抑圧の象徴と捉えないような国旗・国歌が今の世界情勢の中であり得るのか。私は国旗・国歌になる以上、どんな旗や歌にも抵抗を覚える。
 以上のような論点があるはずの「国旗・国歌の法制化」について、(赤旗的に一般紙を援用して)「法制化の是非も含めて幅広く議論したい」(東京新聞)とも言わないのであれば、党名と綱領を社会民主主義に変えるべきである。
 最後に
 私がこの問題にこだわるのは、これが一、国旗・国歌問題に止まらない、党の進路に関わる大きな問題を孕んでいると感じるからである。その意味では暫定政権における安保棚上げ論も同様である。私は一度、地域で議員をやっている人とこの問題で議論したことがあるが、最終的にその人の根拠は「よりまし政権論」に収斂した。つまり根本的にこの問題を批判するためには、「よりまし政権論」を批判しなければならない。これに関して重要な争点は、大衆運動の論理よりも議会の論理を優先させ、その結果ますます政策的妥協を重ねるというやり方を続けていっていいのか、ということである。これについては大きな話になるので、もうすこし勉強してから意見を述べたいと思う。