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「日の丸・君が代」討論欄

入一さんへご返信いたします

1999/5/21 れんだいじ、40代、会社経営

 入一さん、はじめまして。5・18付けの入一さんの投稿拝見しました。私の先の投稿末尾での文章がお気に召さなかったようですね。正直まいっております。あの部分全体が軽い冗談で皮肉ったつもりだったのですけれどね。ちょっと不謹慎というか悪趣味だったかなぁ。ああいう書き方が好きなものでして、これから少し気をつけようかな。でも、日教組と教育委員会との癒着の実態については勉強になりました。またよろしく適宜教えてください。ついでにと言ってはなんですが、以下一言コメントしておきます。
 「日の丸.君が代」問題についての意見をよくよくつめてみると、論者の意見が次のように分かれているのに気づきました。まず、国民的論議を促そうという今回の不破発言に対しての肯定的な受け止め方と否定的なそれです。肯定派は3通りに分かれるようで、一つは良くも悪くも指導者の意見にしたがうという観点からの同調(A)。一つはどう落ち着くにせよそろそろきちんとしたほうが良いという立場(B)。一つは「日の丸.君が代」自体には何ら問題なく、それぞれ良いサインであり国歌であるという立場(C)、から構成されるようです。否定派もまた3通りに分かれるようです。一つは論議に参加することは「日の丸・君が代」法制化に力を貸すことになり、その呼び水になるから論議自体を避けたほうが良いという立場からの反対で、この立場が反対派の一番主流をなしているようです(D)。一つは論議するにしても過去に「日の丸・君が代」が果たしてきた国家総動員体制促進の役割に対する反省が必要であり、この絡みの解決が優先されねばならないという立場(E)。最後の一つはこの国際化時代に国歌・国旗は必要でないという立場(F)から構成されるようです。もちろんこれらの意見の折衷案もあるし、判断がつかないというのもあるでしょう。
 以上の区分に従えば、私の立場は(E)です。もっとも、かっての戦争に対する責任と防止に対する相当長期かつ本格的な討議を前提にしています。日本の場合ドイツの例とよく比較されますが、戦犯に対する追及もほとんど「GHQ」まかせで済ましており、特に天皇制との絡みでの追及は今に至るも菊のカーテンが敷かれています。今日まで不問にされてきた経過は今さらどうしようもないので判断を留保するとして、歴史に対する分析と反省がなければ、また同じように戦争を起こしてしまい、同じ過ちを繰り返してしまうのではないかと危惧されます。どちらかというと日本人は情緒的民族だと言われています。その良さもあるのでしょうが、ブレーキを持たない情緒はやはり危険なのです。今現在同じ過ちに誘導されている兆しというか、すでに完了形というべきかそのような動きがあり、これはやはり止めねばなりません。私は、そういう観点から不破さんが国民的論議を呼びかけるのなら支持します。この視点抜きに「国家には国歌と国旗がやはり必要ではないか」という呼びかけをしてもらいたくないし、そのようにお見受けするからノンポリぼけだと批判しているのです(現場の教師が困っているからという理由での助け舟的な提案であるというのはどうも眉唾だなぁ)。
 私は、かっても述べましたように、私自身の体験としては入学式・卒業式の際に「日の丸・君が代」が為されたとしても違和感はありませんでした。ただし、「日の丸・君が代」が権力的に何らかのペナルティーをもって押しつけられるのでしたら断固反対です。かって「日の丸・君が代」が戦争で果たしてきた役割に対しての徹底した反省がなされない限り、二度とそのような役割を担わされないという保障がなされない限り法制化反対が当然であり、戦後最大の大衆闘争として取り組むに値すると考えています。遅きに失したが今からでも先の大戦の総括が必要だからです。あの大戦の経過にはわが大和民族の能力とその欠陥のすべてが凝縮されており、それを見直すことは、これからの舵取りにも大いに役立つに違いありません。国会論議程度で「日の丸・君が代」の法制化がなされるとしたら、再び国家総動員体制化の道具に使われることを防ぐ手立てを持たないままに見切り発車することになるでしょう。そのことを危惧します。
 ここまで書いている途中で、不破さんの今回の呼びかけで気になることが芽生えました。なぜ、この期にいろんな新見解を押し出してみたり、「日の丸・君が代」論議を国民に呼びかけようとしたのかなぁ。このように呼びかけるのでしたら、他にも呼びかけねばならない課題が今までにもいっぱいあったでしょうに。せねばならない党内論議も山積みしていますのに。何か深い考えがあるのか、党の私物化の完了形とみなすべきか、脳軟化のきざしかのどちらかだなぁ。
 最後に。現場の状況を良く知らないものが意見するのは困ったもんだという考え方はいただけないなぁ。そういう論理を押し進めると、お互いに職場の身近なことしか意見できなくなるからねぇ。お互いをそういう風に囲い合って障壁をつくるのは、長い目で見て害がありはしないかなぁ。『さざなみ通信』は始まったばかりだし、いきなりズバリズバリの名答論議にならなくても受け止めて欲しいんだけども。ちょっと何というか、そういう論理を突き詰めると結局現在の官僚の論理に似てくるのではないのかなぁ。