5/21付のれんだいじさんのご意見、拝見いたしました。れんだいじさんの過去の投稿分もあらためて読み返してみました。私は、「日の丸」や「君が代」それ自体についてどのような意見を持つかは、各人の内心の自由に属する問題だと思っておりますので(コミュニストにはそれなりの矜持というものが要請されると思いますが)、ここでは「日の丸・君が代」の学校現場への強制という問題にしぼってコメントしたいと思います。
まず問題の前提として(前稿のくりかえしになりますが)、いまでは日教組がこの国の「教育労働者」という職域を象徴する代名詞である時代は終わったという冷厳な認識が必要だと考えます。だから、たとえ「軽い冗談で皮肉ったつもり」と言われても、「なにかピントがずれているな」という感じがします。
日本共産党に対する支持・不支持とは別に(日本共産党に関心がおありならなおいっそう)、この国の戦後の大衆運動、労働運動において一定の役割をはたしてきた教育労働戦線の現状について正確な認識を持っていただきたいと思います。そして日教組の右転落がすでに10年も前に完了しているという認識も共有したうえで議論をすすめたいのです。それは、れんだいじさんが否定的に言われるような「職場の身近なこと」といった些末な問題ではなく、この国の教育問題を語るうえでの共通の前提であると考えます。
そもそもなぜここ数年のあいだに、学校現場における「日の丸」掲揚率、「君が代」斉唱率がかくも急速に上昇したのでしょうか(実態は、文部省発表や新聞発表よりはるかに低率であるとは思いますが)。これは、文部省や教育委員会の「指導」がこれまでになく強硬になったからだけではありません。それを容認する土壌が学校現場において確実に広がってきているからです。
ところが私の勤務する自治体や職場では、全国的な状況とは反対に、全教・日高教が多数派を形成しています。そして全教や日高教はいまのところ、この問題についてまがりなりにも原則的な立場を維持しています(私自身は不満もありますが)。そのような状況を前提にして、私は前稿において次のように書きました。
「国旗・国歌の法制化に関する不破氏の発言のなかにも、現場の教職員(とりわけ全教組合員)が毎年、『展望のない』この問題で疲労困憊しているという趣旨の指摘があります。日本共産党の国旗・国歌法制化についての今回の提言のなかに、このことについての一定の配慮があることも事実だと思います」(5/18付)
これに対して、れんだいじさんは「現場の教師が困っているからという理由での助け舟的な提案であるというのはどうも眉唾だなぁ」(5/21付)と揶揄しておられますが、「『日の丸・君が代』問題を国民的な討論の軌道にのせるために――国旗・国歌問題についての日本共産党の立場」という不破委員長報告では明確に次のように言っています。
「教育現場の様子をきいてみますと、現場の先生方は困難な条件のもとで、『学習指導要領』による文部省のしめつけにたいして、たいへん苦労の多い抵抗闘争をやられています。しかし、『日の丸・君が代』問題をどうあつかうかという、議論の大きな背景がありませんから、子どもたちの自由をどうまもるかというレベルの話になって、問題の性質上、社会的な大きな議論にはなかなかなりにくい。基本問題での地域での議論もありませんから、親御さんに訴えるのにもむずかしい面がある。結局、がんばっているところでも、『解決の展望のみえない抵抗だ』というため息まじりの声があがる、ということも、うかがいました。この状況を打ち破るには、どうしても、この問題を国民的な討論の舞台に移す必要がある――これが、『日の丸・君が代』問題の実際の経緯にてらして、いよいよさしせまった問題になってきた、私たちは、こう考えました」(3/17、都道府県委員長会議への報告)
不破氏のこの発言は、それ自体では的を射たものです。この現状認識をまずおさえていただきたいのです。しかしだからといって、私は国旗・国歌の法制化を支持したり、これを事態の打開に結びつける考えには反対です。そうではなく(だからこそ)むしろ、この問題に真正面から立ち向かうべきだと考えます。
そのうえで、「日の丸・君が代」の強制がなによりもこの国の学校現場に対してこそ行われているという、まぎれもない事実について、あらためて強調しておきたいと思います。これも、我田引水と受けとられると心外なのですが、そもそも問題の発端がここにあることは誰の目にも明らかなのですから。
私の理解では、この問題はまずもって教育問題なのです。なんの前提もなく突然、国旗・国歌問題が浮上してきたというわけではありません。その意味で、日本共産党によるこの問題での国民的討論のよびかけは、うまく運べば、公教育への国家権力の介入の実態を暴露し、これを国民的議論の土俵にのせることができるかもしれませんが(不破氏自身も、先に引用した報告の別の部分でこのことを指摘しています)、下手をすれば、問題を逆に拡散させてしまうおそれがあると危惧しています。
さらに、この点と関連しますが、この国の学校現場でいま直接に問題になっているのは、個人の内心の自由をめぐる問題ではなく、公教育の現場で「日の丸」を掲げ「君が代」のメロディーを流すことそれ自体の是非であるということについても、あらためて指摘しておきたいと思います。
れんだいじさんは「入学式・卒業式の際に『日の丸・君が代』が為されたとしても違和感はありませんでした。ただし、『日の丸・君が代』が権力的に何らかのペナルティーをもって押しつけられるのでしたら断固反対です」と書いておられます(5/21付)。あるいはまた「公教育の現場において、入学式、卒業式においては、斉唱もよいのではないかと思います」とより明確に書いておられたこともあります(4/22付)。
だとすれば、れんだいじさんは、一人一人の生徒・教職員・保護者が自分の判断で「日の丸」への敬礼や「君が代」斉唱への参加は拒否することができるとしても、公教育の機関としての学校(したがって総体としての教職員)には、「日の丸」を掲げ「君が代」斉唱の指導をすることを義務づけていいと言われるのでしょうか。
3/23付の投稿でも書きましたが、文部省や教育委員会でさえ、一人一人の生徒・保護者・教職員に「日の丸」への敬礼や「君が代」斉唱への参加を強制することができないことを認めています。そうであるなら、れんだいじさんの立場と文部省や教育委員会の立場のあいだには、大きな違いがないことになります。
くりかえしますが、私はあくまでこの問題を、教育の自主性に対する国家権力の侵害の問題として理解しています。「日の丸・君が代」問題をめぐる論争には多様な論点がありますが、私の理解では結局は、「教育基本法」第10条をめぐる問題に収斂するのではないかと考えます。つまりこの問題は、一人一人の内心の自由に対するあからさまな攻撃であるというよりは、公教育に対する権力的支配を貫徹させようという攻撃であるということです。ちなみに「教育基本法」第10条にはこう書かれています。
「①教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。②教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」
私は、学校現場の些末な問題について、他の職域の人たちに理解をもとめているのではありません。未来の主権者を育てる教育という仕事を、国家権力が直接に支配しようとしているこの現実を、民主的な社会の実現を志向する人たちが真剣に受けとめてくださることを期待しているのです。
最後に一言。私は率直に言って、れんだいじさんのような物言いを好みません。私は「さざ波通信」のいっそうの発展を期待していますが、そのためにもこのフォーラムは、事実にもとづくまじめな議論の場であってほしいと願っています。発言がときに感情的になったり、論理の混乱を起こしたりすることは避けられないことだと思いますが、他者の発言に揶揄や皮肉をもって切り返すことは自重すべきだと考えます。