投稿する トップページ ヘルプ

「日の丸・君が代」討論欄

風雲急を告げる「君が代・日の丸」問題について

1999/6/12 れんだいじ、40代、会社経営

 「君が代・日の丸」の法制化を促す国会審議がいよいよ始まるということです。今われわれは何をなすべきか早急な対応策が求められています。そこで、少々意見させていただきます。
 戦後は、現憲法により結社・集会・表現の自由が認められて以来、その規範力の支援を得て労働階級側より数々の大衆闘争を攻勢的に行使してまいりました。これを逆からの視点で見れば次のように言えるかと思われます。戦前の支配階級は、好むと好まざるにかかわらず彼らの意図どおりに政策遂行した結果、無残にも敗戦を迎え、「神州」の国としての根本に関わる天皇制の廃嫡までが現実化するという国家の壊滅的事態まで招き、その責任の重さの前に茫然自失し、蟄居を余儀なくされたという構図があったということでもあります。「君が代・日の丸」問題を考える前提としてそのような彼我の関係において戦後史を俯瞰しておく必要があります。なお、当時の支配層は何とかして天皇制を維持しようと試みこれに成功しました。「日ユ同祖論」の持ち出しもその一つであり、従順すぎる国民の性癖を告げ天皇制を上手に活用することが進駐軍の利益にもかなうとか、あの手この手でマッカーサー司令長官にすり寄り、象徴天皇制という苦肉の策を生み出したわけです。「GHQ」とのこの一連の交渉経過の知能戦は、制度の廃止さえ避けておればいずれその日がくれば復活させることができるという、時の為政者の深読みの方に軍配が挙げられると思われます。なぜなら、戦後五十年を経て、今念願のその日の日程を議事化する各種法案が浮上しつつあるからです。「君が代・日の丸」問題を考える前提としてそのような歴史の流れにおいて戦後史を俯瞰しておく必要があります。
 現代日本を支配するエスタブリッシュメントたちは、過去の一億一心の味が忘れられない。たまさか戦前戦中は戦略が誤っただけであり、親方日の丸方式そのものは便利な統治術であった。現代「帝王学」はそのようにかっての戦争を総括している節がある。皮肉なことに、エスタブリッシュメントたちは、経済が物事の基本である というマルクス主義的な認識のもとにかどうか、建前はアメリカさんの名分を立て遮二無二に経済復興を目指し、そこに連なる人脈の登用と活用を図ってきたという経過がある。もっとも、用済みになると成り上がり者は使い捨ての目に合わされたけれども。
 これに対して、いゆゆる反体制側はどうシフトしてきたか。主に日本共産党のアイデンティティーを見てみると次のように言える。一つは、かの戦争については思い出すのもいや、せいぜい軍部の独走であったという没階級的歴史観にとらわれて今日まで至っていること。一つは、戦後憲法にダイヤのごとき煌きを覚え護憲を最優先にしてきたこと。一つは、闘争理論として稀有な値打ちを持つマルクス主義の理論的深化のおざなりと換骨奪胎への傾注努力。一つは、民主集中制という便利な組織論に基づく整風化。つまり、旧社会党のそれも含めて相互の権益不可侵の原則のもとに阿吽の呼吸で経済の復興と成長に協力し上手に飯を食ってきたという経過が見える。(憲法重視は良かったと私は考えています。これは別のところで投稿したいと考えています)
 しかし、いつまでも仲良しクラブが維持できるほど世界情勢は順風ではない。アメリカのダントツ世界支配化の動き。ECのカウンター力。ロシアの面子。中国の中華意識。そしてそれぞれの国家には国家としての意地。そういう世界の思惑の中へ関わり合って踏み込んで行かなければならない経済のグローバル化に伴う国際情勢が待ち受けている。このような事態を前にして日本人または国家はどう対応しようとするのか、「君が代・日の丸」問題の背景にはこうした時局要請が絡んでいることが踏まえられねばならない。
 経済力的に見て日本がすでに世界に影響力を持つ枢要な地位を占めていることは事実である。官僚が優秀であったのか人民大衆が優秀であるのか議論の余地があるがここでは問わない。そのような時代を迎えて、先ほど指摘したように日本のエスタブリッシュメントたちは昔取った杵柄(きねづか)を思い出しつつあるように思える。一億一心の国民総動員のあの味が忘れられないのだ。大衆意識のほうでもそれに迎合する習性がある。いくらつくってみても御用化する労働組合なぞはその証といえる。共産党の温和化もその例に漏れないかも。問題は、一億一心には良し悪しがあるということ。順風には強いが逆風になるともろいという欠点がある。このことを深く凝視せねばならない。問題は、人民大衆庶民は、すっかり自信を取り戻した支配層が彼らのほうから攻勢的に社会改革を行なおうとする局面に至っているという厳しい状況を認識せねばならないことにある。
 話が際限無くなるので、このあたりで「君が代・日の丸」問題に対する私の考えを述べておきます。「君が代・日の丸」の法制化は絶対に阻止せねばならない。「君が代・日の丸」問題は、政党間の党略で押し進められるほどやわな課題ではない!のだ。歴史に対する責任というものがとりわけてついて回る重大案件であり、これから際限なく続いてくるであろう支配層の側からの攻撃に対してどう立ち向かうのかというテーマとして位置づけられ認識されねばならない。
 これの法制化を目指すというなら審議会を設置し、なおかつ少なくとも向こう10年ぐらいの国民的論議を経る必要があるという観点から応戦し、闘争を組織する必要がある。何でも反対ではなく、「君が代・日の丸」が利用されてきた歴史的な役割に目を向けさせ、二度と国民総動員の道具には使わせないという保証を取りつけ、同時に過去の大戦の史的総括へと踏み込んでいく必要がある。試しにそのように運動を組織してみてごらん。必ず国民的支持が得られる。かの戦争でいかに庶民が馬鹿を見させられたかの怨嗟の声がたちまち沸き起こるから。かっての戦争の傷跡を引きずっている人は今なお多い。難しい、先の戦争の正義不正義論は学者に任せておけばよい。アメリカにやられるまでもなく、すでに内部に、軍部にせよ政党にせよ、財閥にせよ、いかに腐敗していたかの証言が飛び出すから。上級階層の子弟がうまく立ちまわり、庶民兵士が山野に捨てられ、または終戦が判っていてなおお国のために突撃を余儀なくされたかを改めて知らされるから。このことは「君が代・日の丸」問題に関わらず共産党あたりで然るべくノートにしておかなければならないことだと考えますが……。何か誤解があるのだろうけど、党は、過去の戦争に反対した唯一の政党であったという手柄話は強調しても、時の支配層がいかに庶民大衆を愚弄しつつ肉弾戦争に巻き込んだかという実態を暴露しようとはしていない。そうした一連のことについて小林よしのりさんに劇画化をお願いしよう。そのことはともかく、このように運動を組織していった場合に、「自・自・公」の背後にいる反動どもがどのように出てくるか、そこに向かって組織的にも理論的にも運動を構築していくのが闘争というものではないのか!
 ガイドライン法、盗聴法も含めて今回の「君が代・日の丸」法制化の狙いは、国家の危機管理能力整備の一環としての動きであることは容易に見てとれる。後は破防法であり、憲法の改正が最終コースというわけだ。なんか中曽根あたりの思惑通りになってきたなぁ。歴代総理の中で一番マスコミ受けしたのが三木で、彼が二番目かなぁ。『赤旗』も角栄の時ほど攻撃しなかったよねぇ。ところで、中曽根といえば、軍事費のGNP比1%枠突破と、国鉄とNTTの民営化と、赤字国債の加速化と、バブル経済の産みの親というイメージがあるのだけれど、これって日本民族百年の計に本当に貢献してるのかなぁ。彼はいったい民族主義者なの、国際委員会派なの。児玉の例もあるしなぁ。