日本共産党の国旗・国歌に関する新見解の一つの特徴は、法的整合性を最優先させる思考にあると思います。つまり、法的根拠なしに「日の丸・君が代」を国旗・国歌として扱っているのが最大の問題であり、国民的討論を踏まえて国旗・国歌を正式に法制化すべきだという発想がそれです。
この論理は一見筋が通っているように見えますが、実際には、具体的な政治状況や階級闘争の論理を無視した空論です。これと同じ論理を他にも適用すると、その誤りがはっきりします。たとえば、自衛隊を憲法上の根拠もないのに肥大化させているのが最大の問題であり、国民的討論を踏まえて憲法を改正するのが筋だ、という主張は、法的整合性においては完全に筋が通っていますが、このような主張が典型的に右派の主張であるのは明らかでしょう。
しかし、より深刻なのは、この種の「法的整合性優先論」が必ずしも共産党幹部にのみ見られる誤りではなく、広く護憲・革新派にも見られることです。たとえば、雑誌『世界』で平和基本法を提唱した学者たちも、基本的には「法的整合性」を最重視する立場に立って、自衛隊と憲法との整合性(実際にはそんなものはありえないのだが)を何とか見出そうとしました。
あるいは最近でも、強行採決された新ガイドライン関連法をめぐって、この種の「法的整合性優先論」がちらほら聞かれます。たとえば、6月4日付『週刊金曜日』の「ゲダンクラブ」の中で、矢崎泰久氏は、新ガイドライン法を批判する中で次のようなことを言っています。
「それなのに、自衛隊も日米安保も米軍基地も放置されたまま。どうしても必要なら憲法を変えてからやったらいいのである。なぜかそれをやらない。どんどん憲法違反を日常的に行なって、憲法そのものの空文化を図っている」(53頁)。
この主張は、社会的影響力のない一文化人の発言にすぎないので、何らかの政治的結果をもたらすことはないでしょうが、もしこのような主張を共産党がしたとしたら、たちまち自民党は勢いづいて、じゃあ憲法改正の議論をやろうと言って乗ってくるでしょう。したがって、こうした発言は政治的に無責任であり、きわめて危険なのです。
また、矢崎氏ほど露骨ではありませんが、同じ号の『週刊金曜日』の「論争」欄に掲載された国弘正雄氏の意見も、新ガイドライン関連法と憲法との形式的不整合のみを問題にしています。氏によると、今回の新ガイドライン法の最大の問題は、国の最高法たる憲法がふみにじられることで「法による支配が損なわれ」、「近代国家の要件の1つたる法治主義そのものをおかしくしてしまう」ことにあるそうです(80頁)。
この論理がまったく弱いものであるのは一見して明らかでしょう。新ガイドライン法そのもの問題性については何も触れず、それが憲法と形式的に不整合であることが最大の問題であるとするなら、新ガイドライン法に合わせて憲法を変えればすむことです。もちろん、われわれも新ガイドライン法が憲法違反であると大いに主張しましたし、今もしていますが、それはあくまでも憲法9条を積極的に評価し、新ガイドライン法の犯罪性を十分に指摘した上でのものです。その点をあいまいにした「憲法違反論」は、護憲派の議論としてあまりにも脆弱です。国弘氏の意見はいわば「後退した戦線での抵抗」です。おそらく主観的には、せめて法的整合性を維持すべきではないかと保守派に対して説得しているつもりなのでしょうが、そのような説得が功を奏することはありえないでしょう。
さて、この種の発言の背景になっている考え方は、共産党の場合も、平和基本法論者の場合も、矢崎氏の場合も、かなり共通性があるように思われます。
1つには、ずるずるとひたすら現実が悪化し、憲法の空洞化が単純かつ一直線的に進んでおり、それにいつまでも抵抗していても展望がないという敗北主義的認識です。不破氏は都道府県委員長会議で、教育現場での日の丸押しつけに対する抵抗をこのまま続けても展望がないと言っているし、平和基本法論者も、自衛隊違憲論をふりかざしているだけでは展望がないという認識から出発しています。また、今回の矢崎発言の底流にも、新ガイドライン法がやすやすと強行されることに対する敗北感があると思われます。
2つ目は、1つ目の認識とある意味で対照的ですが、護憲・革新の側が法制化論ないし憲法改正論を持ち出しても、政府側はそれを悪用してこないだろうという楽観主義的認識です。不破氏は、自民党が「日の丸・君が代」法制化を実際に持ち出してくるまで、自民党は法制化をいやがっていると主張し、まさか相手が同じ土俵に乗ってはこないだろうと踏んでいました。平和基本法論者の場合も、自衛隊を縮小改組してそれを合憲とみなすという自分たちの提案が、現実の力関係においては、現存の自衛隊を合憲化するものとしてしか機能しないという可能性に目を閉じていました。矢崎氏の場合も、自分の発言が支配層側の憲法改悪策動に刺激を与える可能性について考慮した形跡は、まったくありません。
このように、敗北主義と楽観主義とがいわばセットになって、最近におけるこれらの提案や発言の背景をなしているとみなすことができます。もちろん、この両者において決定的なのは敗北主義の方です。このままの反対運動、抵抗運動を続けても展望が見えない、という認識こそが、これらの一連の提案や発言の基本的動機になっているのです。それに対して「楽観主義」の方はいわば、自らの敗北主義を隠すための虚勢にすぎません。
したがって、今回の共産党の国旗・国歌法制化論は偶然出てきたものではないし、また単に共産党指導部の日和見主義に還元できるものでもなく、左派、進歩派全体に浸透しつつある敗北主義の現われとみなすことができるのではないでしょうか。もちろん、こう言ったからといって、共産党指導部の政治責任がいささかでも免罪されるわけではありませんが。