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「日の丸・君が代」討論欄

教育労働者はストライキで応戦せよ!

1999/7/22 れんだいじ、40代、会社経営

 「国旗・国歌法案」が衆議院を通過する見通しという事態を迎えましたが、なぜこのような事態が平穏に経過するのか疑問を覚えるし憤りもまた禁じえない。その理由として、「国旗・国歌」を認めようとする勢力も確かに存在するのであろうか゛、私なりの受け止め方は次のように思う。今人民大衆の意識はそれどころではないのではないか。おまんまを食えるかどうかの瀬戸際に立たされており、この緊急さからすると「国旗・国歌」法案に思いをめぐらすゆとりがないのではないか。その成り行きなどどうでも良いというのではなく、それどころではないという気分にあるのではなかろうか。だとすれば、当面心配のない身分保障を受けている公務員がしっかり頑張ってくれないといけない。特に、教育労働者は直接的に利害が関係しているのであるからストライキも辞さずという運動を組織すべきではないか。今学校で「国旗・国歌」法案をめぐって教員がストライキに取り組んだとして国民的批判が生まれるだろうか。そういう合唱も予想されるが、むしろ早急な法案化に危惧する叫びを支持する大合唱も生まれるのではなかろうか。そのような行動がなされないと国民的な論議なぞ生まれるべくもないのではなかろうか。国民的な論議というものは自動的に生み出されるのではなく、生み出すべく戦う主体があって初めて作り出されるのではなかろうか。考えてみれば、労働者がローン漬けにされているという現実がかくも哀しい閉塞を余儀なくされているのかなぁ。
 明治以来の教育界の流れは、しだいしだいに現場の創意工夫ができないように仕組まれてきた歴史のように思う。明治から終戦に向かう流れがそうであるし、敗戦によりその桎梏が取り外されたものの、再びそのような統制化が完結されようとしているのではないかと危惧する。私の個人的な知識では、幕末の寺小屋教育にあふれていた創意自由性こそ羨ましい。寺小屋はもともと大衆が生み出したものであり、そこには権力の統制の及ばざる良さがあった。寺小屋の師匠さんは思い思いのやり方で基礎教育をなし、結構成果をあげていたように思う。例えば、大塩平八郎の「激文」が早速テキストに使われていたとかを知らされると素晴らしいの一言につきる。明治教育はそうした現場の自由性を天皇制イデオロギーと国家主義の統制的な一元化に完結させていく歴史であり、善し悪しはあるもののやるせない。このたびの「国旗.国歌」法案とは、その外形的な完結編であり、これから先が思いやられる。現代は義務教育であり強制を伴っているのであるから、国民的合意のないままの一方的な価値観の押しつけは問題とされるべきではなかろうか。かっての敗戦に伴う戦争責任追及の一環としての公職追放から教育界と司法界は免れた経過がある。当時の責任者の流れを汲む者たちが再び無反省にも同じ道へと誘おうとしていることに怒りを覚える。本来ならドイツにおけるナチス党員の歴史責任負荷と同じく生涯を隠居させられるべき郎党の蠢動がなぜ我が国ではいとも易々とのさばるのであろうか。
 参考になる考え方として、タックスペイヤーとしての自立意識またはインフォームド・コンセントの確立を教育界にも押し寄せるべきではなかろうか。学校が文部省のロボット教師で充満されるとしたら、われわれの子女は義務教育から解放されるべしだし、国外のより自由な学校で学ばさねばならないことにもなるし、より自立的な通信教育で間に合わせた方が賢明かもしれないし、解決すべきは、そのような経過を経ても大学受験資格を取得できるという仕組みを作り上げることであろう。この道も閉ざされたままの教育界の統制化は犯罪であり、万一「国旗・国歌」法案が由々しき事態への道先案内になったとした場合に、その責任を追及できる仕組みにしておかないとおかしいのではないか。われわれ日本人は従順さには定評のある民族ではあるが、得たものさえ容易に失う従順さとはあまりに馬鹿げている気がしてならない。取り急ぎ投稿させていただきました。