「教育労働者はストライキで応戦せよ! 」は非常に興味深く読みました。本当に教育労働者が1日ストでもいいから、組織労働者としての抗議の意思を示すことができたら、きわめて画期的なことでしょうね。そして、日教組が文部省に屈服する前だったら、本当に可能だったかもしれません。今回の「日の丸・君が代」法案の強行は、共産党が国旗・国歌の法制化を肯定するという大失策だけでなく、それ以前に日教組が「日の丸・君が代」を認める立場に転換し、文部省との和解路線に走ったことも背景にあると思います。
23日の『朝日新聞』朝刊の1面に早野透という編集委員が、日教組と文部省との間で関係改善が進んでいるというのに、今回のような唐突な形での法制化の強行は疑問だ、などというとんちんかんなことを書いていましたが、まさに「関係改善」(つまり屈服)が行なわれたからこそ、「日の丸・君が代」の法制化も強行することができたのです。ブルジョア新聞の良心派の見識などこんなもんです。
さて、れんだいじさんは、後半部分で、義務教育によらない自由な教育を推奨し、「学校が文部省のロボット教師で充満されるとしたら、われわれの子女は義務教育から解放されるべし」と述べておられます。こう言いたい気持ちは大いにわかりますが、しかし、危険な一面も持っていると思います。というのは、現在の支配層が狙っているのは、まさにこういう形での公教育の解体と自由化だからです。
「寺子屋」的教育が可能なのは、教育を受ける人間が武士階級の子弟だけだったからです。一部の特権階層のための「自由教育」は、その面だけを見ればたしかに、管理主義的な公教育よりも自由で個性尊重に見えますが、しかし実際には、そのような贅沢な教育を受けられるのは、社会のごく一部の豊かな層だけです。
また、多くの私学も、実際には私学助成金なしには経営は成り立たず、そのような公的手段を通して文部省は圧力をかけてくるでしょう。いっさいの助成金なしに運営しようとすれば、莫大な学費をとらなければならず、それこそ超リッチな家庭の子弟だけがそのような教育を受けることができるでしょう(アメリカの私学のように)。
圧倒的多数の国民、とりわけ貧しい階層の国民は、結局、公教育に頼らなければならないとしたら、めざすべきは公教育の解体ではなく、公教育を真にその名に値するものへと改革することです。それは、管理主義、「日の丸・君が代」の押しつけ等々に対する闘いのみならず、競争主義的で出世主義的な教育像を変革する闘いでもあります。そしてそれは、現場教師だけの仕事ではなく、子供の親と地域社会の共同の闘いでもあります。もちろん、言うは易し、行ないは難しですが。
とはいえ、私はもちろん、通信教育なり、自主学校のような形態を否定するわけではありません。深刻ないじめや、親による虐待ゆえの精神的不安定などのさまざまな問題があって、通常の学校に通うことが苦痛でしかないような子供たちは大勢おり、彼ら・彼女らの教育権を守るためには、緊急避難として多様で自主的な教育施設が設けられ、公的な支援を受け、必要な資格取得が可能にならなければなりません。
したがって、公教育のあり方という本丸をめぐる主要な攻防をやりつつ、すべての子供たちの教育権を守るために、多様で自主的な教育形態を擁護し発展させていくという2段構えが必要になると思います。
以上、まったくの素人による理想論でした。失礼。