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「日の丸・君が代」討論欄

「日の丸・君が代」法制化に手を貸す共産党

1999/3/9 野上 紀

 小渕政権は「君が代・日の丸」を「国歌・国旗」として法制化する方針を打ち出した。2月の段階では「国民の中に、国歌・国旗として定着しており、法制化する意図はない」と言ってきたのが、急に「法制化」に進もうとしているのは、広島県での高校校長の痛ましい自殺事件がきっかけだったのは確かだろうが、日本共産党の「君が代・日の丸」についての新しい立場が、一つの要因だったのは間違いないのではないか。
 2月16日の「しんぶん赤旗」に掲載された、雑誌『論座』の「君が代・日の丸」問題についてのアンケートへの党の回答は、もちろん「君が代・日の丸」を「国歌・国旗」として承認したものではなく、それらを天皇主権と侵略戦争の象徴として批判している。しかし、結論部分において「君が代・日の丸」が法的根拠もないままに「国歌・国旗」として扱われていることを「より重大な問題」とし、「君が代・日の丸」を「国歌・国旗」として扱うならば「法制化」が最小限必要だとしているのは、完全に転倒した論理である。ここでは、「法的根拠」がないことに批判が絞り込まれ、だから最低限「法制化」せよ、という論理操作が加えられている。しかし、なぜ日本の「国歌・国旗」が必要なのか、「国歌・国旗」が政治的にどういう意味をいま果たしているのか、という根本的問題がすっぽりぬけおちている。
 問題は、オリンピックなどのスポーツ大会を通じて「君が代・日の丸」が「国歌・国旗」として圧倒的に浸透としている現状を、どのように批判し、克服していくかということである。その際、「日の丸・君が代」が天皇制と侵略戦争のシンボルであったという批判に加えて、「国歌・国旗」によって現在的に「国民的一体感」が形成されていくことそのものに批判的態度を取ることが必要なのである。
 長野五輪にあたって、党は五輪批判の市民運動についてほとんど取り上げず、「五輪精神」を賛美する翼賛体制の一翼をになってしまった。IOCが腐敗しきった特権的組織であることは周知の事実であったにもかかわらず、IOCへの批判は今回のような全世界的スキャンダルに発展するまで、「赤旗」においてもほとんどゼロだったではないか。長野五輪当時の「赤旗」には高校生の手紙の返事がサマランチから届いたということが「美談」として報道されていた。しかしサマランチは隠れもなきフランコ派のファシストではないか。今になっても、「赤旗」はこの事実に口をつぐんでいる。「国歌・国旗」がもっとも巨大なイデオロギー機能を果たす国家間スポーツ大会の政治的役割を、党はまったく批判できないのである。
 1月16日の「朝日新聞」に掲載された穀田恵二衆院議員(幹部会員・書記局員)は、そのインタビューで、昨年十月に日韓国会議員親善サッカーのためにソウルを訪れ、日の丸のついたユニフォームを着用したことにふれて、「日の丸のユニフォームを着たことをとやかく言う人がいるが気にしません。……私がつけたのはただのマークです」と述べている。これでは、「日の丸・君が代」反対の主張が台無しではないか。
 共産党のこうした愛国主義が、結果として小渕政権の「日の丸・君が代」法制化の主張に利用されてしまったことに、党指導部はどのような責任を取るのだろうか。