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「日の丸・君が代」討論欄

「日の丸」「君が代」問題で3つの提起

1999/3/23 入一、40代、教育労働者

 「日の丸」「君が代」の法制化と学校現場への強制の動きに関連して、思いつくままにとりあえず、次の3点を提起したいと思います。
 第1は、「日の丸」「君が代」問題とは、ほかでもなく天皇制問題であるということです。
 国旗・国歌の問題がこれほどに深刻な様相をおびている国は、日本をおいてほかにないのではないかと思います。それは、なによりも敗戦後に天皇制の問題をしっかりと精算しなかったことに起因しています。戦後半世紀以上もたって、国旗・国歌の問題で自殺者まで出したことについては、戦犯=昭和天皇を断罪せず、天皇制とこれにつながる「日の丸」「君が代」をあいまいなままに放置してきた日本の「革新勢力」にも責任の一端はあると考えます。
 政府自民党がこれまで「日の丸」「君が代」の法制化に躊躇してきたのも、これの議論をすすめると、かならず天皇制問題に逢着せざるをえないからです。その意味で、今回、日本共産党が国旗・国歌問題の国民的討論をよびかけたことは、あらためて天皇制問題についての国民的関心を喚起することになるのではないかと期待することはできます。とはいえ日本共産党が提起している論点にも、いまのところ天皇制の是非に関する明確な主張は見られませんが。
 第2は、この国の学校現場でいま直接に問題になっているのは、個人の内心の自由をめぐる問題ではなく、公教育の現場で「日の丸」を掲げ「君が代」のメロディーを流すことの是非であるということです。
 文部省や教育委員会でさえ、「日本国憲法」と「子どもの権利条約」が存在する状況のもとでは、一人一人の生徒・保護者・教職員に「君が代」斉唱への参加を強制することができないことを認めています。その意味では、欧米諸国における「内心の自由と国旗・国歌」に関する判例は、この問題での闘いの直接的で有効な武器とはなりません。
 つまりこの問題は、一人一人の内心の自由に対するあからさまな攻撃であるというよりは、公教育に対する権力的支配を貫徹させようという攻撃であるということです。そしてそのことは、現在怒濤のごとくおしよせている教育の自由化路線と連動して、特殊・学校教育という半自立的な領域を解体し、公教育を行政サービスの一部門に完全に組み込もうとする攻撃と軌を一にしていると考えられます。
 そして第3は、この問題に関して日本共産党が現在とっているスタンスは、あきらかに国民国家内政党へのこの党の転落を意味しているということです。
 たしかにアジア諸民族の民族解放闘争やヨーロッパのレジスタンス闘争において、共産主義の政党が民族的課題を第一義的にとらえ、国旗や国歌を民衆を鼓舞する手段と見なすということは、歴史上いくらも見られたことです。
 筆者はそのことを無条件で承認しているのではありません。そのほとんどの場合に、共産主義の信条がナショナリズムのそれに従属したことは、まさに現実の歴史が示しているとおりです。とはいえその場合でも、当該の国旗や国歌はその国のアンシャンレジームとは断絶したものであったはずです。
 しかし現在の日本は、そのような状況にありません。もし日本共産党が、日米安保条約を廃棄し、独立・中立の日本を構想する闘いのシンボルとして、特定の旗や歌を活用することを望むのであれば、戦前(天皇制)との連続性のない、まったく別個のものを民衆的シンボルとして提起するべきです(時代錯誤ではあるが、かつての歌声運動のように)。その場合はもちろん、法制化や強制などということが問題にならないことはいうまでもありません。