なによりいけないのは、旗や歌を「押しつける」ということだ。
それは、教師よ、国家に恭順の意を表せという、踏み絵だから。
これほどにも教師の自主性を奪っておきながら、今の教師は頼りにならないなどとよく言えたものだ。
国旗というのは、国籍の標識だ。どこの国か、一目でわかるということが大事だ。
ならば、掲揚して拝む必要がどこにあるか。
日本は、朝鮮やベトナムや東欧諸国のように昔から大国の侵略を受けてきたわけではない。四方を海に囲まれて安らかな国なのだから、わざわざ国民の統一を確認する必要もない。「日本」などといって、ひとつにまとまったイメージをもつのをやめ、各地域、世代、男女、個人等々の多様性を知ることのほうが大切なのではないか。
君が代を天皇賛歌ではない、と言うのは、しらじらしい、まったくの嘘である。『君』とは、たんなる『あなた』ということだ、というが、国歌というのは、国のためにあるものだ。個人や個々のカップルのためにあるわけではない。
もしかりに、ただのラブソングを国歌にする国があったら、戦争なんか起こしたはずがない。
歴史的に見ても、もとはあの歌詞は、古今和歌集の中の「我が君は、千代に八千代に・・・」という歌から採られたものだと言う。「我が君」を「君が代」に変えたのは「和漢朗詠集」である「らしい」、という、あやふやな話が、百科事典に載っているが、さだかではない。
いずれにしても、明治政府は「我が君」より「君が代」がよいと考えた。
理由は明白だろう。「我が君」では、「我」であって「我ら」ではないから、国歌にふさわしくないが、「君」なら、「大君」、つまり天皇をさすことができるからにちがいない。
だから、戦前の国定教科書にも、君が代は天皇の治世がいつまでも続きますようにという願いをこめた歌です、と、はっきり書いてある。
国民みんなが納得する新しい歌を作るべきだという意見には賛成できない。
そんなことしたら、多数派が勝つだけだろう。みんなが同じ歌を支持することはありえないぜ。たぶん、あんまりよくない歌ができるだろう。なにしろ小林よしのりの漫画が平積みされ、団子三兄弟が300万枚も売れて、おまけに石原慎太郎が都知事になって「南京虐殺はなかった」だの「支那」などとほざいているような国で、ろくな歌ができるわけはない。
君が代は音楽的にも奇妙な曲だ。
あの荘重な、いわば抑圧的な雰囲気は、和声のせいである。和声抜きなら、たんなる雅楽調ののんびりしたメロディーにすぎない。
中田英寿が嫌がるのは、あの歌には闘志をかきたてる要素がないからである。それだけのんびりした歌ではある。
ドイツやイタリアは第二次大戦のあと国旗を変えたのだから、日本も変えるべきだという考えがあるが、イギリスのユニオンジャックやアメリカの星条旗はどうなのか。いまも、ユーゴに国際法違反の戦争をしかけたりしており、死に体の日本に原爆を落としたのを見てもわかるとおり、ドイツやイタリアに勝るとも劣らぬ横暴な国であるさ。勝てば官軍にすぎない。「血塗られた日の丸」というのは正しいが、そもそも国旗で血塗られてないものなどないのである。
日の丸の単純なはっきりしたデザインは、標識としては世界一すぐれているといってよい。
そこで提案すると、オリンピックには、反省と遠慮の気持を表すために、ほかの国よりうんと小さなサイズの日の丸を揚げ、国歌斉唱のときは、何も歌わずに世界の平和のために黙祷をするのがよい。
それくらい思い切ったアピールをして、世界の模範になるべきだろう。