君が代問題に対して、相も変わらずの対立の図式が露呈しています。私は、自らの経験を通じて次のように考えます。
公教育の現場において、入学式.卒業式においては、斉唱もよいのではないかと思います。君が代の文句に込められている天皇制賛美の精神性の問題は別途協議するとして、体験上何ら問題なかったと考えています。君が代を斉唱したから右翼になったという訳でもなく、体制化させられたとも思っていません。問題は、学校行事のあらゆる局面において君が代斉唱が先立つほど意味があるかということにあります。私の答えは、必要なしです。特に、文化祭.体育祭その他の際にまで国家・国民意識を統合させられる必要はないと思います。このような解決策では不都合なのでしょうか。例えば、今継続しているのかどうか知りませんが、夏期休みのラジオ体操に誘い合って参加していましたが、その場で君が代を斉唱させられたことはついぞないと振り返っています。恐らく滑稽でしょうし、似合わないと云うのが実際のところだと思います。では、どこまでが似合うのかと考えますと、入学式.卒業式かなと思います。
公教育の現場において、君が代斉唱を拒否しようとする気持ちは、文部省行政の象徴としての君が代を拒否しているのであって、国歌そのものを拒否しているのではないと思います。君が代の文句を替えるのか、別の国歌を模索するのか論議があっても良いと思います。日本人の国民性からして、感情レベルでことを左右しすぎの傾向があります。君が代問題の本質は、先の小文で指摘したように、かっての戦争責任と史的総括が為されないままに今日まで至っており、そのことが君が代の文句に込められた天皇制賛美の心情との齟齬を引き起こしていると云うことにあります。敵か味方かの峻別により、受容の態度が変わるのではなく、国歌必要ありなしそのものの論議と君が代そのものの歴史的な役割をめぐっての評価が為されない限り拒否するのだが、さしあたり入学式.卒業式には儀式的に必要かなという実務的な対応こそが望まれているのではないかと考えます。考えてみれば、こういう不毛な衝突のままに事態が何ら解決していない局面が多すぎて、結構それはお互いの権益をめぐっての認め合いであり、優雅な生き様確認の方法であったりして。