日本の経済がまだはぶりがよかったころ、産経新聞を含むフジ産経グループは新しい試みやイベント、実験を試みて、文化産業を展開、華やかで明るい資本主義の未来を見せつけたものだ。今でもまだ、新サーカス、シルク・ド・ソレイユのキダムなんかをやってはいるのだが、もうすっかりみるかげもなく、戦争まみれのダーティーなセクターになってしまった。
それでも、ひたすら日米同盟の維持を説くだけで何の積極的な展望も示せなくなってしまった陰気な「大」読売新聞に比べれば、産経は元気ではあるのだが、果たして、読売が長年果たしてきた日本資本主義のイデオロギー装置のチャンピオンとしての役割を、代って無事継承することができるのだろうか。その売れ行きだけからみても、前途は多難である。
4月14日付朝刊1面の産経新聞「産経抄」は、菅井も7日付本欄投稿で触れた、毎日新聞がただ一紙、バグダッド侵攻を、「進撃」とか「攻略」とかごまかさずに、英米の不当性をあらわす「侵攻」と正しく表記したことに、12日「主張」(産経の社説)に次いで再びかみついている。
12日の「主張」では、侵略的な意味をもつ「侵攻」ではなく、報道は中立でなければならないのだから、中立的な「進攻」と字を当てるべきだ、と言っていたくせに、14日「産経抄」はその論理が破綻していたことにもう気がついたようで、ひっこめて別の攻撃をしている。
イラク戦争の各メディアの報道が完膚無きまでに明らかにしたことは、報道の中立などということはそう簡単に言えない、ということである。アルジャジーラは戦争の死者や悲惨な姿を多く映し、イラク寄りの報道をしているということで非難された。また、アメリカ軍に従軍している記者たちも、結果としてはアメリカ側の情報戦に加わっていることになった。平和が大切だという、日本国憲法の精神に従うことすら、一方に批判的になることでしかありえない。そもそも産経新聞の新保守主義の方向性自体が、中立性などということとは縁のないものであったのだ。
だから、14日「産経抄」は
「戦争取材で客観報道などというものはありうるのだろうか」
という自問からはじまって、
「主観的にならざるをえない事実のカケラを集めて総合しても、客観的な戦争の真実にはほど遠い。」
と言っている。その通りだ。だから、メディアも自らの責任で判断することが必要なのだ。
だから、今度はいきなり否定はしていない。
<毎日は、米英の進攻を立ち入るべきでないところに侵し入る「侵攻」である、と判断した上で「侵攻」と書いたのだろう>
と認める。産経が同じ事実のカケラを、
<攻撃しつつ前進する「進攻」だと判断して「バグダッドへ進攻」と表記した>
ように。
その上で、産経抄氏は社会面の別の事実との矛盾を指摘するのだ。
<ところが、同じ日の同じ新聞の社会面は、イラク市民が「侵略」の軍隊に「歓呼やVサイン」「米兵を囲み歓呼の声」をあげたと報道する。このおかしな事態をどう理解すればいいのか。さすがにその矛盾に気づいたのか、翌日から(侵攻という表記は)消えた。>
本当に毎日新聞が翌日からそれをひっこめてしまったのか、私は知らない。産経抄氏に「歌うな、数えよ」とも申すまい。氏は確信犯なのだから。
私の声がもし産経抄氏に届くのなら、「真にまっすぐ立つということは、ゆれながら立つことだ」という言葉を贈ろう。これは私が師から教わったことだ。師はもっと的確な言葉で語ったけれど。
硬直してつっぱって立った体は外から衝撃を受けても微動だにしないかもしれない。が、まっすぐに立っているつもりで実はまがった無理な姿勢をしていてもわからないし直らない。柔らかい体で、重力の重みを感じつつすっと立ったとき、ちょっとした衝撃にも敏感にゆれてしまうけれど、そして、無理な姿勢はできないけれど、そのゆれの中心はまっすぐである。そして、次の動きへとしなやかになめらかに移行していくことができる。そういう立ち方が本当のまっすぐである。
人生の錯綜する真実を、即座に理屈にあわぬと否定してしまうのではなく、矛盾として受け止めて、ちゃんとゆさぶられ、その中で本当に立ち現れつつあるものが何であるかを思考し、探求し、伝えていけるメディアだけが真のジャーナリズムである。
紙面に自身の教説(ドクトリン)に矛盾したただ一つの真実ものせられない新聞が、どんなちんぴら資本主義であっても、リードしていけると思ったらそれはとんでもない考え違いである。
14日夕刊の毎日新聞は、一面に、ティクリートで停戦交渉がはじまった事と、「無事だったね 続々と戻る疎開の人々」と題して、バグダッドで戦闘が収まるに従い、地方に疎開していた市民が続々と戻りはじめていることを伝えている。
<フセイン政権が誕生した時、カーディムさんは6才だった。翌年、イランとの戦争が始まって以来、祖国は戦争続き。「大統領がいなくなったと思ったら、今度は泥棒が町中にあふれてしまった。戦争のない静かなバグダッドがほしい」。カーディムさんの願いはこれが最後の疎開になることだ。>
これを見る限り、こと毎日新聞に限っては、「米国の戦後統治の難しさ」が報道の第一になってしまうなんて心配は、さらさらなさそうである。
毎日新聞様、これからも頼みますよ。
尤も、「崩れさった社会主義」の巣、「さざ波通信」なんて小サイトの一投稿のエールなんて、迷惑にしかならないでしょうが。