新人歌手 一青窈(ひととよう)は戦争を前にして、自分に何ができるだろう、と考える。 デモをすることや、戦地でボランティアにあたること、戦争する政府に抗議すること、そういったことは自分のすべきことではないと思う。彼女は歌を歌うことによって、幸せな生き方って、こんなにいいものなんだよ、人の平凡な日々の営みってこんなに大切なんだよ、ということを感じてもらいたい。それが私の反戦だと語る。自分の歌の最高の状態を泣く、それもうれしくてうれしくて涙がでる状態、子供のすなおなそれと同じ質のものと言う彼女は、戦争から守るべきものが何なのか、一人一人がそれをはっきりと実感し、それを心のうちにはぐくむことこそが、戦争のない社会をつくる根本の道だと自覚している。
そして、それは本当のことだと思うし、彼女にならできるかもしれない。がそう簡単にできるということではない。
戦争と戦争の間にうまれ、愛と信頼薄い人間関係を平時の原則とせざるを得ない多くの僕らは、それをはじめから持って生まれているとはいえない。目の前の悲惨と非道に怒り、動き出すことはできていても。
今回のイラク侵略に対する反戦運動に関しては「 人々が自発的に運動を繰り広げているという感じがします」(川上さん)と言われ、若い人が多いとの驚きの声も聞かれる。
そして、反戦ではなく、創平和だという主張の目立つことも事実だ。(戦争反対、だけでなく、平和賛成、という英語のコールがデモでも使われる)
これを、単なるアンチではなく、「建設的」な対案が必要なのだ、という政策論のレベルではなく、人間関係、文化の質、価値感の問題として見る必要がある。
「シベリア物語」という映画を幼いころに見、「アンドロメダ星雲」というSF長編小説に感動した僕は、「同志」という言葉をいい言葉だと感じたものだ。
だが、それにみあった人間関係が生じない限りはそれはもちろんただの言葉にすぎない。
(テレビでの一青窈のインタビューからの感想)