イラク戦争の「終結」に伴い、いくつかの雑誌が特集を組んでいる。改めて、何のための戦争だったのか、その正当性が問われなければならないし、今回の戦争の意味するものが考えられなければならないと思う。
結局、あれだけ言われた「大量破壊兵器」は出て来ず、イラクの「テロ」との関係も証明されなかった。喧伝されたあの「脅威」は何だったのだろうか。不思議なことに、「どうせフセインは悪いやつだったんだから、そんなことは、どうでもいいじゃないか」式の議論が見受けられる。私たちは「「武力と殺戮で民主主義を与えること」を正当化する狂気の時代」(寺島実郎氏「世界」6月号「いわゆる「奴顔」からの脱皮について」)にいるのだろうか。アフガニスタンの伝えられるその後が、「民主主義」とはほど遠いのを見れば、占領でイラクが「民主化」するなどということを、とても期待できない。だいたい、CIAによるイランのモサデク政権の転覆とパーレビ王朝への支援、80年代のフセイン政権支援、イスラエルによるパレスチナ占領と攻撃への一貫する容認の姿勢、これまでや今の中東におけるアメリカの介入や対応を振り返るとき、今回の意図がもっぱらイラク国民の「解放」だ、などと信じることもできない。
同じく「世界」の6月号に、インド出身の作家アルンダティ・ロイの文章「来たれ、9月よ」が載っている。感銘深いその内容はとりあえずおいて、そこに引用された二つの歴史的発言だけを紹介する。
一つは、1937年、チャーチルがパレスチナについて述べたもの。
「より強力な人種、より高度の段階に属する人種、言ってみれば、より世俗的に賢い人種がやってきて土地を奪ったという事実をもってして、もとから居た人々に悪がなされたなどとは、わたしは考えない」。
筆者は、これがパレスチナ人に対するイスラエル国家の基調をも成すことになる、と述べている。
もう一つは、1973年チリで、ピノチェト将軍がCIAの支援する軍事クーデターにより、民主的に選ばれたアジェンデ政権を転覆したときの、ニクソン大統領の補佐官キッシンジャーの言葉。
「われわれは、ひとつの国がその国民が無責任なせいで、共産主義化するのを無為に見ている必要はない」
後者の「共産主義」を何か置き換えれば、今も同じ言葉が聞こえてきそうだ。「帝国主義者」の傲慢さは変わらないものだと思う。
そうした傲慢さと既成事実の押しつけに、一番抵抗する政党が、日本では共産党だと思うから、わたしは期待する。「アメリカによるイラク占領反対」を掲げ続ける「さざ波通信」編集部にも、である。
(訂正。この討論欄に以前私が送ったメールに間違っていたことがあります。ジャーナリスト土井敏邦さんのことを「土居」と打ってしまった。また、レイチェル・コリーさんの殺された日を3月「下旬」としたが、16日だった。すみません。)