きょうのニュースで、イスラエルのシャロン首相が、「350万のパレスチナ人を占領し続けるのは、我々のためにも彼らのためにもよくない」と述べる様子が伝えられていた。驚くべきことに、イスラエル首相が「占領」という言葉を使ったのは、これが初めてなのだという。初代首相ゴルダ・メイアの「パレスチナ人なんていない」は有名だったが。イスラエル「ハアレツ」紙には、首相はこう言ったたことを後悔して取り消すかもしれないが、しかしその言葉は消えない、という論評が載ったそうだ。日本パレスチナ医療協会のメールマガジンなどによれば、毎日のように殺されるパレスチナ人のニュースが入ってきて、パレスチナ人をめぐる状況が好転しているとはとても思えないが、それでも現実は動いている。今後も注目し続けたい。
「イラク戦争」討論欄だが、やはり書きたい。
高弘さんが書いている。
「反米・反イスラエルの思想は、イスラム教が、キリスト教やユダヤ教を敵視する、宗教的な意味合いが強いと考えます」と。
しかし、これは原因と結果を取り違えたような「考え」だと思う。中東パレスチナ、あるいはイスラム世界において、歴史的に見れば、控えめに見ても、ヨーロッパキリスト教世界よりはユダヤ人迫害は少なかった。いや、あったのはむしろ共存の歴史だった。「十字軍」がやってきたとき、エルサレムには何教徒がいたか、少し調べてもらいたいものだ。またスペインでキリスト教徒による「国土回復」運動によってイスラム王朝が滅びたとき、そこのユダヤ人たちが主にどこに行ったか、とかも。パレスチナ問題は、「ユダヤ人迫害の張本人だった欧米が、みずからの痛みによってではなく、あらたに仕立てあげた「贖罪の羊」パレスチナ人の痛みによって、償い済ませたことにしようとする欺瞞のカラクリ」だ(板垣雄三東大名誉教授。あえて権威主義的に肩書きを書く)。
この引用は、昨年土門拳賞を受賞した「写真記録パレスチナ」(広河隆一)の第2巻巻頭の言葉。この写真集(全2巻、各巻9000円)の第2巻は、「消えた村と家族」と題される。シャロンが「占領」と言い、「350万人」といったのは、もちろん、ヨルダン川西岸とガザ、つまり67年の第三次中東戦争の占領地のことである。しかし、その前から、イスラエル「建国」に伴い、多くのパレスチナ人が故郷や家を失った。「消えたむらと家族」は、今のイスラエル内に廃墟として残るそれらの村々の記録であり、難民の証言である。村によっては1947年、つまりイスラエル「建国」や「第一次中東戦争」(48年)の前から攻撃を受け、暴力的に追い立てられているものがあることがわかる。それらの村には、キリスト教徒パレスチナ人の村もある。
「「無知」は、イスラム教を元にした価値観を作りだし」とは、これまた高弘さんの言葉だが、こういう決め付けは見過ごせない。13億(または14億)と言われるムスリムの精神世界、あるいは異文化としてのイスラームに、私たちはもう少し謙虚になるべきだと思う。
いくつかの事実だけ。
・フセインの政党バース党は世俗主義の政党。危機的になってから人身掌握のためにイスラームを持ち出した「似非イスラーム教徒」(片倉もとこ、朝日3.11の旧友アナン事務総長にあてた手紙)。その前はシーア派ムスリムなどを弾圧する側だった。
・著名なパレスチナ人指導者・知識人には、キリスト教徒がたくさんいる。例えば、
ハナン・アシュラウィ(マドリード交渉のパレスチナ代表団の一人。自伝が「パレスチナ報道官」として朝日新聞社から出ている)
イブラーヒーム・スース(詩人で、ピアニスト。「ユダヤ人の友への手紙」が岩波から。この人の妹が、アラファト夫人のはず)
エドワード・サイード(コロンビア大学教授。「オリエンタリズム」の著者。時評文集「戦争とプロパガンダ」3集までが、みすずから。そこの文章は訳者のホームページでも見ることができる。RUR55で検索可能)
なぜ、パレスチナのことを書くか。それは、イラクを語ろうが、9.11を語ろうが、最終的にパレスチナを凝視しなければならないと考えるからだ。
あとひとつだけ。講談社現代新書に小杉泰の「イスラームとは何か」がある。序で言う。「イスラームという宗教は、私たちにとってまだ異文化に属する。それに触れて、生き生きとしたイスラーム像を発見するために、小さな発見を積み重ねたい」。