高弘さんの「解放戦争は、戦争が終結すれば、犠牲者はそれ以上出ません」について、クラスター爆弾等の事実をもって批判したら(毎日新聞記者のあれも、クラスター爆弾だったはず。大人の記者でさえ手にするそれを、子どもたちが触れたり、手に取ったりしてしまうのは当然だろう)、今度は、「彼らは、犠牲者と言うよりも、被害者でしょう」(6/21の投稿)という。この言い換えは意味がない。私にはどちらの言葉を使おうと、戦争によって殺された(殺される)人々には同じであって、彼らの死が「意図」された死である点で、地震や台風の死者とは異なる。だから「意図的に起こす訳では無く、事故でしょう」には、ほとんどあきれてしまう。クラスター爆弾にしろ劣化ウラン弾にしろ、使用すればどうなるかは、すべて計算のうちであろう。だからこそ、戦争中もその使用に批判があったのだ。
「戦争に正義があるとは考えません」とは私も同意できる。しかし、今回の戦争を高弘さんのように「解放戦争」と認められないから(そういう「正義」を認められないから)、批判したのだ。これも結局はぐらかしにすぎない。
「アメリカは、戦果を発表しないはずなので、およその数で推測するしかないと思います。ベトナム戦争の教訓から、反戦につながるような情報は、出さなくなった様です。」これも意味不明だ。誰も「戦果」のことなどを言っていないが、しかし、アメリカは「すばらしい戦果」を「ブリーフィング」(だったか)を通じて発表してきたはずだ。ここで問題にしているのは、戦争の「正当性」を言うためにも、イラクの「復興」を言うためにも、どのくらいの犠牲者が出て、いま人々はどういう苦しみを味わっているかが、明らかにされなければならない、と言いたいのだ。一般投稿欄での投稿などを見ると、高弘さんのベトナム戦争観も独特のようだが、結局実体が報道報告されれば、それが「反戦につながるような情報」となってしまうのは、両方の戦争に共通なのだろう。そのことを理解されていることはわかった。
つけたすが、戦争は「終わっていない」と言ったのは、「首都が陥落した」とかのレベルで言うのではない。その意味・意義・正当性が、今なお問われ続けている(問われ続けられなければならない)という意味でである。
高弘さん自身「アメリカは、恐らく長期間居座ると思います」と書いている。その通りだろう。「イラクのことはイラクの人にまかせましょう」(記憶での引用だが、この討論欄で、このようなことを高弘さん自身述べたことがある)とはならない。この点からも「戦争は終わった」としてはならない、と考える。