1)「戦争に大儀は必要か」について
すべての戦争は「大儀」あるいは「正義」の名のもとに開始されます。イラク戦争は、「アメリカの大儀」を正当化するために、まずは情報戦争を仕掛け、虚偽の情報をばらまき、情報そのものを支配し、国民と世界を欺く事から開始されました。「大儀」の正当性を説得する事で自国民を動員し、他国の協力をも得る必要があったからです。その正当性を、少なくとも自国民にさえ説得できなかったら戦争はできなかったのではないでしょうか。結局「戦争には大儀が必要」と考えるのは、実は戦争を仕掛ける側の都合なのだと思います。だからこそ、その「大儀」は偽物だと主張する意味は確かにあると考えます。だからと言って、「戦争には大儀が必要」と主張した事にはならないでしょう。また、アメリカに大儀を期待した事にもならないでしょう。
2)「すべての戦争は勝てばそれで良い」について
「すべての戦争は勝てばそれで良い」という理屈は、戦争を仕掛ける側から生まれる発想であり、戦争を積極的に戦おうとする者の発想です。言うまでもないことですが、戦争にかかわる人間は、そういう者ばかりではありません。ここで「アレキサンダーやジンギスカン」を持ち出して「勝った者に責任を取らせることはできますか」と問う発想もまた、支配する側の視点からのみ歴史を記述した「国定教科書」の歴史観に縛られた発想だと思います。戦後の歴史教科書でさへ殆どがそのように記述されていますから無理もありませんが、哀しいことです。
3)「共産党が無くとも国民が幸福になれればそれで良い」について
まったくその通りだと、かって共産党員だった頃の私も思っていましたし、今もそう思っています。しかし、毎年3万人を越える自殺者を出し、その中の何割かは経済苦が元になっていると言われるこの日本。凶悪な犯罪は年毎に増え、ホームレスも増え続けている。そうした現状を前に「右傾化即ち正常化」と喜ぶ発想は、私にはありません。国民が幸福になるにはいったいどうしたら良いのでしょう。そのことに心を痛め、こうして知恵を出し合い議論しながら努力もしている。それが、私の信頼する共産党の友人達です。そうした努力が報われていない原因の一端には、彼らの至らぬ点もあるでしょうが、それを傍観者的に蔑むような態度だけは人として採るべきでないと思います。