一般投稿欄とまたがった、benkeiさんとさつきさんのやりとりですが、一言のべさせてください。
benkeiさんはおっしゃる。
「「大義」があろうが無かろうが実力がある国は戦争をしたければしたい時にするのが歴史でしたしね」(一般投稿欄8/15以下同じ)
しかし、人類の「歴史」は、「ジュネーブ条約」、「国連憲章」その他、「戦争」にもルールを作ってきた歴史でもあります。捕虜や占領地住民の虐待禁止、「毒ガス」等の残虐な平気の禁止等々。また今日国際的にその正当性を認められる戦争は、侵略への抵抗か、明らかな脅威への対抗でありましょう。もちろん、戦争にいい戦争も悪い戦争もあるものか、という言い方は可能でしょうが、少なくとも人類はその知恵として、そうした自らの残虐行為をも縛ろうという努力をなし続けてきてはいるわけです。いやしくも民主国家なら、戦争の正当性をなんらかの形で国民に納得させられなければ、戦争行為を遂行できないでしょう。だからこそ、今回も多くの「大義」(「大量破壊兵器の保持」、その「脅威」など)が、例えばブッシュ大統領らの口から語られてきたのであり、そして私たちはその「大義」の虚偽性を批判したのです。結局今回のイラク戦争は国際法違反だったと。
また、benkeiさんはおっしゃる。
「戦争を阻止するにはそれを凌駕する実力を持つことが一番の近道でかつ確実と考えていましたので」
しかし、おっしゃるところの「実力」とは何でしょうか。軍事力という意味ではよもやありますまい(純粋に軍事的力なら、残り全部がたばになってかかってもアメリカには対抗できないでしょう)。しかし、私はその「実力」の根幹は、民主主義や人権という普遍的価値に根ざした、国際世論(それは戦争当事国も含めて)に共感を呼びおこすだけの訴え、あるいは理念的な力、であろうかと思う。もちろん、benkeiさんのおっしゃるように「デモで戦争が阻止できると考える」わけではありません。しかし、有権者の声、民衆の声は、いやしくも民主主義を標榜する政府には、影響力を持つものだ、と考えるから、私はデモにも参加するし、あらゆる可能な機会をとらえて、行動したく思うわけです。