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「イラク戦争」討論欄

テロ非難の論理と非難できない倫理(N.Kさんへ)

2003/9/3 さつき、40代

 N.Kさんが私の主張を理解されないのは無理もありません。私は自分の考えの全体について、まだきちんと書いていません。ただ、私の主張のいくつかの前提条件として書いたことに具体的なコメントがほとんどなかったのは残念です。今回は長くなりますので2回に分けて書きます。最初に、前回の私の投稿で理解されなかったらしい部分について具体的なコメントをいただきたく、補足します。

1)N.Kさんが、「テロを(事実上)容認する思想そのものが、テロリストを支えている」と書かれたことに対して、「重要なポイント」と念を押してコメントした内容については、どのような感想をお持ちになられたでしょうか?

2)N.Kさんが、「テロリストを容認する思想は、「敵を殺せ」「敵の人権を認めない」という全体主義思想とつながっており・・・」と書かれたことに対して、先ず私は死刑制度を引き合いに出して、法の元の平等を前提に敵の人権を圧殺することが許される条件が定められ、そのことが社会に受け入れられていることを示し、「敵を殺せ」「敵の人権を認めない」という考えが一般論として絶対悪とまでは言えないことを示しました。この例示に論理的な欠陥や飛躍があるでしょうか? 念のため断っておきますが、この部分で言いたいことは、「一般論として絶対悪とまでは言えない」の部分であって、それ以外ではありません。

3)次に私は、そのような、法の元の平等が守られている条件下では当然ながら私的な報復罰の実行は犯罪であることをのべた上で、それでは、法による諸権利保護の対象外に置かれた人間のなす「犯罪」行為について、法により諸権利が保護されている側の行為がそれを誘発しているとしたら、後者の側に身を置く者としてこれをどう受け止めたら良いのかについて私見をのべました。最初の文章で私は、

>米英の蛮行によって無法な世界が現出せしめられ、その中で圧倒的強者による圧倒的弱者への大量殺戮が実行されました。失われた人命を過去のものにできずにいる者、今なお「掃討作戦」の標的にされ「戦中」にある者らにとって、「戦後復興」などというまやかしの言葉を用いて、戦争はもう終わったものと見なし、過去を不問にしようとする一切の勢力に対して憎悪の感情が膨らむのは自然なことだと思います。

と書きました。この部分についてどのような感想をお持ちですか? 念のため断っておきますが、この文章の結論は「憎悪の感情が膨らむのは自然なこと」のみで、それ以外は主張していません。

4)続く文章で私は、上記を踏まえ、(a)圧倒的弱者が、ただ弱者というだけで法の庇護から外され、諸権利が踏みにじられた状況下において、(b)圧倒的強者の横暴によって憎悪の感情を引き出させられたのを契機に(c)その彼らが「敵を殺せ」「敵の人権を認めない」と考えるに至り「私的報復」を実行したことに対して、(d)強者の側に位置し、法の元、諸権利が保護されている側の人間が、(e)その現実を改める具体的な努力に着手する前に(f)「敵であっても人権を守れ」などとは少なくとも自分には(人の倫理として)言えない。とまあ、このように主張した訳です。
 ここで言う「法」とは、現在のイラクの問題に関しては主として国際法のことですが、アメリカ、イラクはともに国際刑事裁判所(ICC)の締約国ではなく、米国民のなした犯罪行為をイラク国内において裁くことはできません。それ故、強者の一方的な論理のみがまかり通っている現状に注意を促す書き方にもしたつもりです。したがって、私達が「法により諸権利が守られている」というのは、国際間では厳密には正しくなくて、単に圧倒的強者と同盟関係にあるだけだということなのでしょう。これに対比して、N.Kさんは、

><(A)は悪だが、(A)が生まれる背景(B)が現実に存在する以上、(A)を否定する(悪だという)資格は私にはない(N.Kにもない)。だからAを容認せよ>。
 Aに「人身売買」、Bに「貧困・暴力・法秩序の破壊」という言葉を入れてみてください。あるいは、Aに「アジア侵略」、Bに「帝国主義的植民地分割競争」という言葉を入れてみてください。

と書かれました。上記2~4)の説明で、両者の違いがおわかりでしょうか? 私は、上記(a)、(b)、(d)、(e)の4つの条件のもとで結論(f)を導いています。しかも、評価する当人(私)は、傍観者ではなく、上記の条件(d)、(e)の中に組み込まれた存在であり、かつ、(a)、(b)についても責任の一端を負う存在であるとの自覚の上に立つて、私の倫理観をのべたものです。しかし、倫理として何を主張しているかは論理の問題なので、補足しました。

5)イラク国連現地本部へのテロについて

>国際法に違反したイラク戦争の中では、また、法の下の平等が実現していないもとでは、テロリズムを非難をすべきでないとあなたは言われます。しかし、あたながあげるイラクの状況が、人道活動のために派遣された国連職員を殺傷することをなぜ合理化できるのですか?

 私は、自分自身には非難する資格がないと思う種類のテロ、非難しても意味がないと思う種類のテロが存在するという趣旨のことは書きましたが、一度も「テロリズム(一般)を非難すべきでない」とは主張していません。それを「合理化」「正当化」と呼ぶのはあなたの勝手ですが、言葉の使い方が少し大雑把過ぎませんか?
 8/25の投稿以来、私は一貫して「自爆テロ(テロリスト)」を問題にしてきたつもりです。その意味で、「自爆テロ」が頻発しているパレスチナを念頭に置いて8/25投稿の冒頭部分を書き始めました。国連現地本部へのテロについては、爆発力があまりに強かったために遺体の確認ができず、それが報道されているような「自爆テロ」だったのかは、実際には確認されてはいません。全貌が明らかになっていない時点で首謀者について憶測しても仕方のないことです。しかし、その背景としては長壁さんの8/24投稿の視点を共有しているつもりで、仮に今回のテロがそのような背景が契機として起こされたのならという前提で、これまでのの主張を展開しました。これに関連したことを次の投稿の最後で少しふれることになると思います。ただ、N.Kさんが次のように、

>テロリストを容認する思想は、「敵を殺せ」「敵の人権を認めない」という全体主義思想とつながっており・・・

 と主張されるからには、あらゆるテロを分け隔てなく非難すべきと考えていらっしゃる筈なのに、なぜ、このたびの国連現地本部に対するテロだけをことさらに取り上げて問題にされるのかがちょっと理解に苦しむところではあります。N.Kさんの主張にとっては、首謀者や犠牲者がどういう人物であろうと、テロである以上は関係ないのではありませんか?