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「イラク戦争」討論欄

強者の倫理崩壊を嘆く(N.Kさんへ)

2003/9/10 さつき、40代

 時間がとれず返事が遅くなりました。特に新たな視点が持ち込まれない限り、私の方からは今回で最後にしたいと思います。ただ、一般投稿欄では、別の視点からコミットするかもしれません。
 先ず私に誤解があったようです。私が回りくどく死刑制度の事から説き始めたのは、N.Kさんが8/26の投稿で以下のように述べられているからです。

>テロリストを容認する思想は、「敵を殺せ」「敵の人権を認めない」という全体主義思想とつながっており、そうした思想がどんなにソフトな仮面をかぶろうとも社会主義・共産主義を主張する人々の一部に根深くあるということをも射程にいれながら投稿したことは、「白状」しておきます。
>強者によるものであれ、弱者によるものであれテロリズムは、生命を直接抹殺する暴力と恐怖によって人間精神を屈服させようとする超権力的行為です。それを少しでも容認したら何を失ってしまうか、私たちは近代の歴史の中でいやというほど思い知ったのではないでしょうか。

 また、N.Kさんの最初の投稿(8/23)の締めくくりとして、以下のようにも述べられています。

>アルカイダ等の犯罪者集団が実行者ではないかという観測が広がっていますが、どのような勢力の者が実行したにせよ、このようなテロを容認する思想は、全体主義に通底してしまうでしょう。
 私は、これらの主張を読み、それが「絶対平和主義」に根ざしたものであり、自分もそのように考えるので「この点がN.Kさんの主張の核心であることは良く理解しているつもりです。また、そのお気持ちも良くわかります。」と書きました(8/29投稿)。上記の一連の主張だけを読めば、私も正しいと思います。その正しさは「絶対平和主義」の視座を貫く精神から主張されてこその正しさです。テロが「全体主義に通底」するのは、非戦闘員をも殺傷するからではありません。全てのテロや戦争に共通しているのは、まさにN.Kさんがおっしゃるように「敵を殺せ」「敵の人権を認めない」という発想が根底にあるからであり、その発想自体が全体主義思想とつながっている訳で、それは、どのような態様のテロ、戦争であろうと共通しています。(だからこそテロは無くさなければなりません。死刑制度にふれながら「私はそれでも死刑制度に反対ですが」と書いたのは、その事と関係しています。)
 したがって、この立場からテロを論ずる場合には、テロの首謀者や犠牲者がどのような人物かを問わず、全てのテロに対して平等に、その無効性を訴える論理(例えばガンジーの「非暴力、非服従」のように)を主張しなければ説得力を持たなくなります。しかし、N.Kさんの主張がそのようなものとは無縁だった事を、今回初めて理解しました。

> 何回も繰り返していますが、私が容認すべきでないと言っているは、一般市民・非戦闘員を不特定に殺傷するテロ行為です。

 つまり、「戦闘員」や「テロリスト一味」に正確にヒットさせた「暴力」の方は、ここではひとまず問題にはしないということですね。一般市民の犠牲がないような「テロ」についてどう考えるかは、敢えてお聞きしませんが、「テロ」、「戦闘行為」、「警察行為」はいったい何が違うのかという点は、これまでの議論と無関係ではないと考えています。やや拍子抜けした感もありますが、N.Kさんの、「テロ容認」への(憎しみを込めた)批判に対して、「絶対平和主義」の立場に立つ私がなぜ反批判するのかは、これまでに書いた事をくり返すのみです。

 「絶対平和主義」は、当然ながら武力によるものである限り侵略者への抵抗権を主張しない、広く正当防衛権さへも主張しないという発想です(「認めない」ではなく、「主張しない」)。一方、世界の現実を見るときに「敵の絶滅」をも意図しているのではないかとさへ疑われる強大なテロ国家(米国)の存在を前に、この発想は、為すすべもなく多数の生命が失われゆくのを無為に見過ごす危険を冒すことになります。その危機が現実のものになろうとしていた時、私達は、断固として米英のイラク侵略を許さないとの声を上げました。侵略戦争の表向きの理由が「テロ根絶」とされたことに対しても、それではかえってテロを増やすことに繋がると批判しました。「9.11」の教訓のひとつとして、「大量破壊兵器」などなくても大規模なテロを起こすことが可能であることを世界に示した訳で、「査察」の偽慢性についても主張しました。そして、とうとう一般市民への大量殺戮を伴った侵略戦争が強行され、結果、当然のようにテロが頻発することになりました。テロをなくすには、武力によってテロリストを取り締まることではなく、自爆を決意する程の憎しみを生まないような世界を築き上げる他にはないのです。私はこれまで、アメリカの行為がテロを「誘発」してきたと(控えめに)表現してきましたが、Aをやったら相手がBを返すのが明らかな局面で敢えてAを実行することを「挑発」と言います。まさに米英は弱者に向けてテロの挑発を強行したのです。その時に、第三者然として、喧嘩両成敗的に「挑発した米英も悪いが挑発されてテロをやった方も悪い」と主張しても、問題は何も解決しません。米英のやった事は巨大なテロです。その犯罪行為は誰にも罰せられることなく、国連によっても事実上「容認」され、米英軍に護られながら、過去の犯罪を正当化・合理化するような「戦後処理」が強行されている訳です。一方、挑発にのって「テロ」をやった側は、たちまちの内に「掃討作戦」の標的にされ、実質的な「非難」の嵐に現にさらさている。そして、これまで、営々と繰り返されてきたように、再び、反米の闘志が量産され、ますますテロの脅威は高まるという結果が待ち受けています。この構造を正しく認識するなら、私たちに求められる優先事項とは何であるか。そのことを私は主張してきました。

 暴力容認の思想が全体主義への危機へと直結するのは、そのような思想を「強者」が獲得した時であり、また、自らが「強者」の側に位置しているとの自覚のない「安泰な世界の小市民」が、そのような思想を獲得した時です。だからこそ、世界の命運を握っている「強者」には、特別に高い見識と倫理観が求められます。正当防衛権さへも「全体主義に通底する」発想を共有しているからには、私たちはその事を肝に銘じつつ現実世界を見据え、その危機がどこに最も集約された形で現れているかを見極めなければなりません。この世界はもう既に「全体主義」に乗っ取られているのではないでしょうか? 正直に言えば、以上のような論点を軸にN.Kさんと議論を深めたいと願っていました。しかし私は議論の相手を間違ったようです。ほとんど興味を無くしましたが、最低限必要なコメントを残したいと思います。

> ・・・(全段省略)・・・国連本部を攻撃したテロリストが、イラク民衆を代 表するような者なのか?をお尋ねしたわけです。

 「イラク民衆を代表するような者なのか?」 これは、今回初めてあなたが使われた表現です。イラク民衆を代表しているかどうかがどうして問題なのでしょうか? もとより、そんな者が存在する筈はないではありませんか?

>最低限、指摘しておきたいのは「圧倒的弱者」「強者」「敵」なる「無内容」な漠然とした表象が何も説明していないということです。 バグダッドの国連職員、ナジャフのシーア派市民、ボンベイのヒンズー市民、南ロシアの通学列車乗客、テルアビブのバス通学者、バリのクラブを楽しむ観光客、世界貿 易センターに出勤した勤労市民を、ここであなたはどのように位置づけられるのでしょ うか。皆、「強者」あるいは「強者の仲間」であり、「法の元」諸権利が保護されて いる(!)人間で、殺されても仕方ない、殺されても仕方ないという人がいても仕方 ない・・・というわけなのですね。

 私がいつ、どこで、「殺されても仕方ない、殺されても仕方ないという人がいても仕方ない」などと主張したでしょうか。勝手に書き換えてもらっては困ります。「仕方がない」とは、根本的には、「何もせず、放っておけばよい」という立場表明です。それは、「非難する」、しかし具体的には何もしない、という立場と実践的には同じことです。そうではない、だから何をなすべきかが最も重要なポイントだと、前回のまとめとして私は主張しました。その時に、「非難する。だから・・・」の後に続けて言うべき政策としては、従来通りの「テロ掃討作戦」しか導かれないではないかと。

>「憎悪の感情」をイラク多くの民衆が国連に対してもつのは自然なことではありま せん。

 まず、「イラクの多くの民衆」である必要がどうしてあるでしょうか? テロを起こすには一人で十分です。例えば、クラスター爆弾を市中に落とせば、一般市民が巻き添えになるのは必至です。それでも敢えて落とせば、そこで巻き添えとなった一般市民は、もはや「誤爆」の犠牲者とはいえず、確信犯に標的にされたも同然です。その時に、子供を残虐な殺され方をした父親は反米の闘志になるでしょう。世界に向けて、誰か米国を罰してくれと願うでしょう。その願い空しく誰も米国を罰しようとせず、その米英軍に護られながら、過去を不問にした形で「国連」が乗り込んできたら、その父親は「国連」も同罪だと思うでしょう。その父親を「テロ煽動者」が「リクルート」すれば、どのようなテロでも起こり得ます。このようなテロを本気でなくそうと思うなら、私たちは何を優先すべきでしょうか?

>アメリカ国民は皆、「自分たちにはテロを非難する資格はない」と考えるべきとの「倫理」をあなたは推奨されますか?

 もちろんそうです。そう考える米国人もいます。

>テロを非難・否定するからこそ、「警察力によるテロ取り締まり」活動や国際協力 活動が必要なのです。そのことと、イラクに関していえば米英軍の撤退の主張とはまっ たく対立しません。前回危惧したように論点を移されたように思います。

 論点を移したとは、どういう意味でしょうか、私の前回の投稿をもう一度読み返されることをおすすめします。すでに書いたように、「警察力によるテロ取り締まり」と「米英軍の撤退の主張」とは並立可能です。しかし、「テロを非難する」、だから「米英軍の撤退を主張する」とは決してなりません。米英軍の撤退は、そもそもの「反戦」の主張の延長としてあり、テロを非難するからではありません。一方、喧嘩両成敗的に「テロを非難する」と声高に叫ぶことからは、旧来型の「テロ掃討作戦」しか発想されないのです。それで、テロが無くなることは、永遠にあり得ません。なぜなら、テロを挑発した側は何のペナルティも課せられることなく、実質的にその犯罪は「容認」され、「両成敗」にさへなっていないからです。あなたは本気でテロを無くそうと考えた事がありますか?

>しつこいようですが、例をあげてみましょう。A<パレスチナに対するイスラエル 政府の不法行為、テロリストを攻撃すると称してパレスチナ民衆を殺傷し、その生存 基盤を剥奪・破壊しているシャロン政権の行為を非難し、パレスチナ国家の建設を支 持し、そのための連帯行動をすること>と、B<イスラエルの市民(パレスチナ人も 含まれるし東欧から移住したばかりで低所得者の「弱者」もいるし当たり前ですが乳 幼児から老人までいます)を無差別に殺傷することを断固として非難すること>は矛 盾しますか?(AでなければBを言う「資格がない」なんて言わないでくださいよ)。

 あなたも良く理解されているように、もともとの非はイスラエルにあります。そしてイスラエルは「圧倒的強者」です。(ここからが大事なポイントですが)そのイスラエルの横暴は誰からも罰せられることなく、世界から「容認」され続けています。あなたは、イスラエルは「非難」されているではないかと言うかもしれない。しかし、重要な事は、世界から何のペナルティも課せられることなく、実質的に「容認」されているという事実です。そこで、「絶滅作戦」を仕掛けられた側が「報復テロ」をおこなった。それに対して「テロ根絶」を理由に、最近もまた、ヘリコプターからハマス幹部の乗った車にロケット弾が打ち込まれた。一般市民が巻き添えにならなかったこの「攻撃」を、あなたがテロとして非難するかどうかは知りませんが、このようにして「テロリスト一味」は常に、あなたが「断固として非難」などしなくとも、実質的には過剰とも言える「非難」の嵐の中で「絶滅戦」というペナルティを課せられ続けている訳です。
 ハマス幹部に直接私の声が届くものなら、「絶対平和主義」の立場から、無駄だと分かっていても「その戦略は間違っている」と主張するかもしれません。なぜ無駄か。テロを挑発した側からの「罰」が実質的に世界から「容認」されている時に、その不平等を糾す努力が優先して実行され、実を結ぶ展望が開けぬ内に、そのような主張は何の説得力も持たず、かえって彼らの怒りを買うばかりであるのは明らかだからです。おわかりですか、あなたが遣う「非難」、「容認」というのは、言葉の上だけの問題に過ぎません。実質的に不当に「容認」され、過剰に「非難」されている者がいる時、「強者」の側にいる我々に求められる優先順位は何であるかを私は主張してきたつもりです。その言葉遣いの上でのすれ違いさえも、あなたは最後まで理解されなかった。