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「イラク戦争」討論欄

市民への無差別テロ再論:さつきさんへ

2003/9/14 N.K、40代

 私もあまり時間がないので、逐次、投稿された文章を引用してのコメントとなりませんが、述べます。さつきさんに、長い応答をして頂いて感謝いたしますが、残念ながら、大きな意見の隔たりは埋まりまないで終わるようですね。
①私は絶対平和主義の立場には立ちません
 さつきさんが説明された「絶対平和主義」の中身は私の理解と概ね同じだと思います。市民へのテロに対して<「何もせず、放っておけばよい」という立場表明>をされるさつきさんが、<「絶対平和主義」の立場にから>といわれるのも理解できませんが・・・。
 さて、私は(その言葉の本来的意味としてなされる)自衛戦争も民族解放戦争も否定しません、肯定します。
 私は街で殴りかかってくる者があれば、場合によっては殴り返します。しかし、殴りかかってきた者ではない相手を殴ることを否定します。そのような市民的常識をルール化すると、たとえば、<戦争状態下でさえも非戦闘員・市民を無差別に殺傷するこテロは許されず犯罪である>という国際人道法の内容となります。
 イスラエル政権が国家テロを行っているからといって、イスラエル市民を無差別に殺傷することは許されない、そういう単純なことを私は主張しています。
 9/11があったからといって、アルカイダをかくまったタリバン政権が支配するアフガンの一般市民を殺傷することは許されないのと同様に。日本帝国主義が侵略戦争をおこない大量虐殺を行ったからといって、東京大空襲や広島・長崎が許されないのと同様に。
 言うならば、不特定の非戦闘員・市民の無差別殺傷は許されないということを普遍的ルールと考えているのです。普遍性があるというのは、「誰が」「なぜ」を問わない。「敵」がやればいけないが、「味方」がやったのは大目に見ましょうという、政治主義はおかしいということです。
②普遍的な人権を否定する「テロ容認」思想
 ところが、以上のようなことを言うことが<「圧倒的強者」の「テロ」を免罪する><第三者的・評論家的である><喧嘩両成敗(ですらない)>と言う人々がいます。
 私は、市民へのテロという犯罪が現実に存在する背景に、社会構造・抑圧構造・構造的暴力があることを否定しないし、それに対して「何をなすべきか」が根本的に重要であるとの主張にも強く賛同します。
 しかし、普遍的なテロの犯罪性について述べる(こと自体を否定する議論は論外ですが左翼の中には少なくない)段で、<お前は抑圧構造を見過ごすのか><どっちの立場に立っているのか>と言い出す人々がいるわけです。これは何重にも誤りです。
 第一に、市民へのテロの犯罪性は、上記に書いたように普遍的であり、地球上のすべての人間の基本的人権を擁護する立場からは、いわば<公理>だからです。個人の生命・人権という民主主義の根本にある価値を尊重し実現するために<政治>はあるべきだと考えるからです。
 アナロジーとして挙げれば、小学校に侵入して無差別に子ども殺傷する犯罪の背景には、その犯罪を実行せしめるように至らせた、その犯罪者の個人的・社会的背景があります。しかし、その背景を探り「何をなすべきか」を社会が考える前に、その犯罪が許されない行為であるという認定・合意--つまり「非難・否定する」ことがなければなりません。その犯罪を生む構造、犯罪を挑発した者がいたかどうかの前に、まずその犯罪性の確認がなされなければなりません。
 第二に、犯罪に背景があるからといって、その背景を共有する人々がすべて犯罪者になるわけではありません。イラクでもパレスチナでもインドでもチェチェンでもインドネシアでも、<圧倒的強者による抑圧構造>があるからと言って、その抑圧に抵抗する方法が、市民への無差別テロしかないなどと、さつきさんも主張されないでしょう。そこには、テロを組織する主体があり、そのテロという犯罪を選択し実行する犯罪意思があります。そのようなテロ組織の(多くの場合、それは社会的権力をもつ)責任があります。その責任を、曖昧にすることは許されません。さつきさんが毛嫌いする<市民への無差別テロを断固として非難する>抵抗運動・社会運動・解放闘争が現実に存在することからも、そのことは明らかでしょう。
 したがって、第三に、このようなテロの普遍的犯罪性を曖昧にするなら、その背景となる社会構造の認識も歪んだものになります。少なくとも、市民を殺傷するテロを否定しない社会構造認識と、テロを否定する社会構造認識は異なってきます(たとえばパレスチナ解放闘争やイスラエル反戦・反占領運動におけるテロ否定派の社会構造認識と、自爆対市民テロ・推進・肯定派の社会構造認識は異なる部分があるでしょう。ましてやインドやインドネシアにおいては)。したがって、「何をなすべきか」が当然に異なってきます。
③市民への無差別テロは処罰されなければならない
 「無差別テロを非難し否定する」ことは、「侵略戦争を非難し否定すること」と同様に一つの<実践>ですが、そのことは措いて、<非難・否定>が上記のような人権・個人の生命の尊厳の認識に基づく以上、無差別テロは犯罪として処罰されなければならないわけです。
 その処罰は、人権を保障した裁判を通して国内的には国家が行い、国際的には国家間の連携と国際機関によって行われる警察機能が発揮される必要があります。さつきさんは

 >一方、喧嘩両成敗的に「テロを非難する」と声高に叫ぶことからは、旧来型の「テロ掃討作戦」しか発想されないのです。それで、テロが無くなることは、永遠にあり得ません。

 と言いますが、なぜそのような乱暴なレトリックを使われるのでしょうか。<「テロ非難」=イラク戦争支持>、<「テロ非難」=イスラエル政権による不法行為の肯定だ>というデマゴギーになぜ逃げ込むのでしょうか。
 <「テロリスト一味」は常に、あなたが「断固として非難」などしなくとも、実質的には過剰とも言える「非難」の嵐の中で「絶滅戦」というペナルティを課せられ続けている>とさつきさんは言います。イスラエル政権の行う「絶滅戦」という国家テロは、パレスチナ民衆の生命と人権を奪う行為ですが、だからイスラエル国民(「絶滅戦」に反対する市民も、政治への関心などもたない市民も、パレスチナ系市民も)を無差別に殺傷することは黙ってみていろというのは、普遍性をもたない政治主義的な主張です。あなたは、パレスチナの民衆=テロ組織という図式をもちこみ、イスラエル政権の不法行為という挑発と、それへの自動的応答としての市民への無差別テロを相互循環と前提することで両者(イスラエル政権とテロ組織)の主張・認識を肯定しています。[注)私はハマス等総体とアルカイダのような犯罪者集団を同一視はしませんが、議論が込み入りますのでここでは立ち入りません]。
9/9のイスラエルでのテロで殺されたある医師は、日頃からテロ被害者の治療に追われてきた人で、めったにカフェなどに行ったことはなかったのですが、たまたまその夜は娘の結婚式の前夜でカフェに出かけ、20歳そこそこの娘と一緒に殺されたそうです。イラクでもパレスチナでもロシアでもインドでも、こうした一人一人の市民の日常生活の世界に入り込む<政治>の暴力によって具体的な殺害が行われている時に、<テロを非難しても仕方ない>というのがいかに犯罪的かを、ぜひおわかりいただきたいものです。<無差別テロに対して公正で民主的な裁判を行い厳正に処罰せよ>と、パレスチナ自治政府やイスラエルやアメリカ合衆国政府を含む各国政府に対して、世界的に要求することが今ほど求められている時はありません。
④左翼全体主義
 さつきさんにも引用して頂いたように、私はこのHPでのテロの議論は、<敵とみなす者には人権を適用しない>という、左翼全体主義(共産主義)が反民主義的な暴力性を常に内包してきた問題とつながっていると思っています。この<市民への無差別テロは許せない>という、世界の圧倒的多数の市民が合意できる普遍的な思想・ルールを嫌悪する人々は、残念ながら、その暴力性の一端から自由になっていないように思います。少し乱暴に言えば、石原慎太郎氏のこの数日のテロ容認発言と、思考の型としては同じです。
 左翼全体主義者は、自分たちが抑圧者の立場に立ち、正しい社会構造認識をもち、<敵>と<見方>を正しく分別できる特権的位置にいると見なします。その特権的位置からの正しい社会構造認識に照らせば、普遍的な人権よりも先に、どの抑圧者を抑圧(非難)すべきかの優先順位が存在すると考えます。だから、人権という近代市民社会が獲得してきた普遍性・公正性を「欺瞞」「支配者の隠れ蓑」「ブルジョワ性」等といって無視・破壊します。そして左翼全体主義者は権力者としては(国家権力を握っていない社会的権力のレベルでさえ往々にして)、<敵>を認定しながら人権侵害を行っていくわけです。
でも、結局は、「暴力と恐怖によって人間精神を屈服させようとする超権力的行為」を肯定したり内包する思想や運動は、自分たち自身の人権を放棄したり破壊したりしていくことになるわけですが(たとえば「前衛党における粛清」「職業革命家の人権」)。

 日本においても市民を巻き込んだテロが起こる可能性は格段に高くなっているし、その兆候は現実にあります。私が主張してきたことの意味は、かなり明白になってくると思っております。
 それでは、またどこかで。