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「イラク戦争」討論欄

市民への無差別テロ再論:補足

2003/9/15 N.K、40代

 さつきさんの投稿文で気になり、また他の方の投稿でも露骨に現れている、左翼全体主義の兆候について、1点だけ補足しておきます。

>暴力容認の思想が全体主義への危機へと直結するのは、そのような思想を「強者」が獲得した時であり、また、自らが「強者」の側に位置しているとの自覚のない「安泰な世界の小市民」が、そのような思想を獲得した時です。

とさつきさんは言われる。そしてまた、

>>アメリカ国民は皆、「自分たちにはテロを非難する資格はない」と考えるべきとの「倫理」をあなたは推奨されますか?
>もちろんそうです。そう考える米国人もいます。

とも言われる。  私は、「安泰な世界の小市民」という否定的文脈でなされている表現や、<アメリカ人にテロを非難する資格はないと考えるべき(倫理をもつべき)だ>という主張の中に、左翼全体主義者の政治主義的暴力性(の兆候)を見ます。
 日々の日常生活を生きる人々(それは、イラクでもイスラエルでもアメリカでも同じです)の安泰な「小市民的」生活を追及する営みや権利を擁護できずに、それを侮蔑する(または卑下する)人たちは、特権的で超越的な社会構造認識に基づいて、<敵>とされる人々(アメリカ国民、イスラエル市民、国連職員など)を<敵>または<抑圧構造に荷担するもの>と認定するわけです。そしてテロリストはその殺害すら合理化します。
 市民への無差別テロを容認する人々は、たとえば9/11テロの被害者は「エリート」労働者だとか、ペンタゴンの職員は「効率的人殺しを考える事を職業に選んだ人たちが大半」だから殺されても仕方がないとまで言いたげです。彼/彼女たちは、東京の高層ビルで働く大企業ホワイトカラー労働者や防衛庁に勤務する職員がアルカイダによるテロにあっても、当然、そうした政治主義的な<何を優先して(非難or実践)すべきか>なる<正しい社会構造認識>に基づいて、<抑圧された民衆>が間違った戦術をとって「強者の側に位置している者」を殺傷してしまったが<非難すべきではないと嘯くのでしょう。
 常に、彼/彼女たちは、普遍的人権が侵害されることの問題の前に、自分たちの<正しい社会構造認識>を優先させておき、テロリストを抑圧構造の被害者として描き出すことによって、人権侵害と犯罪を隠蔽するのです。彼らの合い言葉は、「抑圧者に人権侵害を非難する資格はない!」です。  そうした、ファシスト=スターリニスト精神こそ、強制収容所と粛清と大量虐殺によって、帝国主義戦争と匹敵する数の生命と人権を葬り去った共産主義者たちの全体主義と通底していくのです(あるいは<「日帝国民」を拉致することはよいことではないが、それだけを非難することはできない>などという甘ったれたテロ合理化論に直結するのです)。
 経済的に発達した先進国に生まれたことが自動的に罪であるとか、イスラエルの市民であれば殺されてもやむを得ない面があるというような「倫理」や「何をなすべきか」など、本当に<抑圧された構造>の中で(たとえばパレスチナで)日々の「安泰な」「小市民的生活」を追求している人々の生活をより良くすることにつながらず、せいぜい別の形の<抑圧>をつくりだすだけです。