さつきさんへ若干の感想から。
議論の気力がないのなら仕方ないですね。あなたから議論をふっかけられた私とし
ては苦笑するしかないです。
ただ言っておきますと、誤読などしていませんよ。あなたが引用された部分は、<
テロを非難しても仕方ない>と言いながら<テロを非難することは、従来通りの「テ
ロ掃討作戦」しか導かれない>と主張し、その点でブッシュ、シャロンらとまったく
同じ立場にたつ一方で、<「断固として米英のイラク侵略を許さないとの声を上げ」
抵抗の戦いを肯定される>(であろう)さつきさんが、「絶対平和主義」ではあり得
ないけれど、そんなことはどうでもよいという意を込めていたのです。
私が絶対平和主義の立場かと思ったとか、非戦闘員・市民へのテロを非難している
ことに後で気がついたとか、率直に申し上げて呆れる言を吐かれながら、
>「仕方がない」とは、根本的には、「何もせず、放っておけばよい」という立場 表明です。それは、「非難する」、しかし具体的には何もしない、という立場と実践 的には同じことです。
と言われました。
<N.Kがテロを非難することは、何もしないこと>だとか<対市民テロを非難する
ことは「掃討作戦」に帰結する>とか<テロを非難することは紛争の背景にある社会
構造の変革の必要性を認めないことだ>等々の、非論理的かつ政治主義的主張に基づ
いて、<市民が無差別に殺傷されても何もせずほおっておくべき>という恐るべき立
場にたたれ、しかも<アメリカ国民のような「強者」には対市民テロを非難する資格
がない>という倫理を推奨される(これも誤読?)ことの意味を理解して頂こうと思っ
てきましたが、難しかったようですね。
近年、アイルランドやイタリア・スペイン等でもそうだったように、今後も時間が
かかろうともパレスチナやイラクでもインド・パキスタン・ロシア等でも民衆による
「市民の無差別な殺傷は許さない」という運動が発展し、それはテロが養分としてい
た社会的構造そのものを変革する努力と不可分に前進していくはずですし、私たちも
人ごととしてではなく、その努力が求められていくでしょう。
さつきさんの主張を私が完全誤読していると確信されるにしても、私が9/14、9/15
で述べたことは、今後考えていただけると幸いです。
この議論は、誰の生命や人権も等価に絶対的価値があるものとして尊重されなけれ
ばならないという普遍的人権原理を蹂躙する運動・思想は(「抵抗者」のものであっ
てももちろん)、民主主義を破壊していくという、何回も形をかえて議論されている
ことのバリエーションに過ぎないと私は思っています。<形式の問題を落として、正
義感・感情でどこまでもいくと人権蹂躙にいきつく>(by鶴見俊輔)という問題です。
対内的・対外的に一国一前衛党論の立場から、あるいは皮相な票とり主義の立場か
ら、ポルポト・文革・テロ容認新左翼党派などの民衆殺傷テロ行為や人権侵害を批判
してきた(容認するよりはましですが)日本共産党中央も、この問題を根本的にクリ
アーし克服できていないことは、北朝鮮国家テロをめぐってこのサイトでも議論され
ている通りです。
9/17の天邪鬼という方の投稿はファシストそのもののテロ肯定論ですね。アメリカ
のテロ肯定右翼や日本の反米右翼、テロ肯定左翼・共産主義者、みな共通した思考で
す。
ただ、安重根(私的にもその思想・人柄を尊敬しているので触れておきますが)の
行為は、20世紀初頭の民主主義や国際人道法の発展途上段階において、伊藤博文とい
う軍人ではないが首相・統監等を努めた朝鮮侵略の責任者特定個人への「テロ」であっ
て、その暗殺をたとえ歴史的に肯定的評価をしたとしても、現代の無差別市民テロを
肯定する論拠には全くなりえないことは明白です(本当に安重根が発射した弾が伊藤
を殺害したのかは措くとして)。
政治主義的「正義」を振りかざして市民・民衆を無差別に殺傷する権力者(とその
同調者=テロや侵略戦争容認論者)たちの動きを、無力化していく実効ある戦いをま
すます強めなければならないことを、痛感した次第です。