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「イラク戦争」討論欄

議論が深まるとよいのですが

2003/9/23 N.K

 川上慎一さんへ。長い応答をいただきありがとうございます。議論が深まるとよいのですが、よろしくお願いします。
 私の意見の軸となることは、下手でまとまらない文章の中で、書いてきましたので、また同じことの繰り返しになりそうでして、まことに恐縮ですが。
 さて、私はテロリストが生まれる背景の一つになっている、イスラエルの不法占領にも反対ですしロシアによるチェチェンでの残虐行為も許せないと思います。また東南アジア諸国の貧富の差とその地方における暴力的支配構造を否定します。イラクへの侵略についても反対です。このような私の意見の背後には、私個人の<社会構造認識>があります。もちろん、そのような私の意見とは異なる人々もたくさんいるわけです。ただし、個人の尊厳、人権カタログの筆頭に位置づけられるともいえる個人の生命を、生活圏にいただけで奪うテロは許せないということは、民主主義を肯定するのであれば、最低限一致できる<公理>だと考えます。つまり、他でも書きましたが、
 (1)どのような社会であれ不特定の人間が集まる公共の場 で、そこに偶然いた人間を 無差別に殺傷することについて、 その被害者が誰か(たとえば金持ちか貧乏人か公務 員かホー ムレスか、思想・信条は何か、居住地や国籍はどこか)を問 わず、その実行 主体が誰か(たとえば愉快犯か、特定国家の 軍隊あるいは機関か、抵抗運動を名乗る 集団かを)問わず、 あるいはその実行主体の目的が何かを問わず、その殺傷行為 は<悪>であり犯罪であり許されない。
 (2)その犯罪を犯した実行主体(個人または組織)または 実行者=犯罪者の人権を保障 した裁判を経て処罰されるべき である(裁かれるべきである)。
 という点を一致できるはずだと考えます。
 ところが、一部の左翼や共産主義者は、その一致できると思われる前提を、軽視ないし無視して、むしろその行為の背後には、ある抑圧構造をこそ糾弾すべきだと主張するわけです。
 それは、大局的に見れば私の意見と似た<社会構造認識>にを共有したものといえます。しかし、無差別テロで殺された一個人(たとえば)にとっては最大限の抑圧暴力を被るという点で、イラク侵略戦争で殺された市民とまったく同じであり、どちらを<優先すべき>かという問題ではないことはおわかりかと思います。
 繰り返しますが、アメリカ市民が9/11を非難していけないなら、日本市民は東京大空襲も広島・長崎も非難できないということになります。
 もちろん、その非難の仕方について、どのような立場で非難するかは、同時に重要ですし、それについての議論を意見の異なる人ともしなければなりません(社会構造認識に関わる)。しかし、<非難できない><否定できない>という立場は、そもそも人権を守るために政治があるという民主主義の原理を転倒させてしまうのです。
 その転倒は、抑圧構造に対する怒り--<善意><正義感><「ヒューマニズム」の感情>に基づいているからこそ、危険です。それは、ある<社会構造認識>と結びついた政治的判断を、人権より優先させるからです。
 それが典型的に現れているのは、米帝のエリートのいた国際貿易センターへのテロ攻撃は仕方ないだとか、イスラエルの市民という存在自体がシオニストの侵略の帰結なのだから罰せられて当然だという議論です。そして、日本のような先進国で豊かな生活を享受している小市民には、苦しんでいるイラクやパレスチナやフィリピンの民衆(?!)の行う無差別テロを非難する資格はないという議論(感情論)になっていきます。
 それを私は政治主義と指摘しています。そして、共産主義にそのような政治主義がまとわりついてきたことを、述べだしたら紙数をいくら費やしても足りません。「反革命分子」が裁判も収容所に送られたり処刑された何百万単位の例は<古典的>に聞こえるかもしれません。<「(階級)敵」に人権はない>という精神、その<古典的>な民主主義破壊の残滓は、現在も克服できていないのではないでしょうか。
 本論から見るとトリビアなことだとは思いますが、川上さんは

 >私は「連合赤軍」による浅間山荘事件も、都心におけるビル爆破事件も同時代に見 ていますが、まず、まともにこれらの「革命家きどりの犯罪者を擁護してきた心情」 なるものが存在したことを知りません。N.K氏はこの時代に日本共産党などの左翼の 中にこのような心情があったとでもおっしゃるのでしょうか。

 と言われています。私は、日本共産党の中にあったなどと言っていません。右翼ファシストのテロを賛美についても挙げているように、「政治的正義」のためのテロを合理化する政治主義的心情とそっくりだと言っているだけです。
 尚、蛇足ながら、70年代、日本共産党は新左翼を「泳がせ政策」のもとで客観的に権力の手先になっている暴力集団と非難していましたので(今もそれが撤回されたとは聞きませんが)「擁護してきた心情」とは無縁でした。しかし新左翼の中には(発展途上国と日本との国際的関係を問うたことは一日の長がありましたが)たしかに「擁護する心情」があり、その心情は新左翼の市民派的拡散の中でソフトな形で広がっているからこそ、ここでの議論があるのだと思っております。
 それから、5月の投稿については私は読んでおりませんでした。ご指摘頂き、読ませて頂きました。しかし、長壁さんについての私の文は(たしかに品性はないかもしれませんが)特に訂正する必要を感じませんでした。

democratさんへ。
 書かれたことにまったく同感です。
明るい共産党をつくる会さんへ。
 私とまったく同意見ではないのですが、確か、浅井基文さんという方が、テロの定義について書いていました。HPのどこかにあると思います。
 お二人には短いコメントを付け足しみたいで申し訳ありません。

P.S. また直接関係ないのですが、川上さんの以前の文章に、ベトナム戦争時の僧侶の焼身抗議に言及がありました。私も衝撃を受けました。アメリカでアリス・ハーズさんという市民がやはり戦争に抗議して同様の行為を行いました。彼女の文章は、その自死の重さとともに、涙なしでは読めませんでした。そのような人々と、無辜の市民を無差別に殺傷させて自爆させるテロリスト組織の論理とがいかに隔たっているのか(政治的自死を肯定するわけではありませんが)、改めて感じるところがあります。