>ブッシュやシャロンが同じことをやっていると反論するのは、自らが彼らと同じ倫理的次元にあることを自白するものでしかない。
ブッシュやシャロンがやっている事は、今(このイラク戦争討論欄で)議論になっているテロと同じ事だと、誰かが主張したでしょうか? そのような論理で、例えば、「だからテロは免罪されるべきだ、情状酌量の余地がある」などと、誰かが主張したでしょうか? 上記の文章を読むと、democratさん自身が「テロリスト」のやっている事はブッシュやシャロンがやっている事と同じことだと思っているのではないかとの疑いが生じます。 だから、「一方が非難される なら、他方も当然に非難されるべきである」との結論になっているのではないですか?
信じたくはないのですが、さざ波通信の議論を見ていると、少なくない共産党員が、「テロ」と「侵略」を、一般市民が犠牲になっているという一面のみから同一レベルの非難すべき行為として納得し、そこで終わっているような気がしてなりません。 私の知る共産党員には、そのように短絡した結論で終わる者は一人もいないので、私の危惧している事は当たっていないと信じたい。
本多勝一氏は、『週刊金曜日』先週号の「風速計」に次のように書いています。
>「こういうとき、けんか両成敗的に「どっちも悪い」と言えるでしょうか。侵略した側とされた側を等価にタシテ2デ割ルことは、侵略を忘れさせ、侵略した側を喜ばせることになるのではありませんか。」
http://www.kinyobi.co.jp/KTools/fusoku_pt?v=vol476
熱心な共産党の支持者である本多氏は、当然、全ての共産党員も同じように考えるものと安心しておいでのことでしょう。
米国は、強大な軍事力を背景に搾取の狙いをつけた国・地域を丸ごと監獄と同じ状態に置いた。そこでは、当然、看守・米国に許された範囲での自由しかない。「紙とペン」さへも本来の機能を発揮し得ないほどに劣悪な条件の監獄だ。牢屋の外の世界では時々「自由で平等」な選挙が行われ、看守長が選ばれる。看守長は選挙民の意向を代弁している訳だ。看守長は、牢内で暴動が起きることを恐れ、これもまた選挙民が搾取によって得た富を費やして「暴力」を封じ込めるための衛守団を強化する。それでも、散発的な「抵抗」は起きる。しかし、一人を殺したら、その10倍もの仲間が仕返しに殺される。仲間が監獄の中で不当な拷問や虐殺にあい、絶滅に瀕しているのに耐えられず、捨て身の攻撃に出る者も現れる。その矛先は当然のように、看守長を選んだ「選挙民」にも向けられる。ところが、武器を持たない「選挙民」への攻撃は「ヒューマンな心」を失った行為であって、とんでもないと非難の大合唱だ。第三国に助けを求めるも、だれも看守・米国を本気でとがめようとしないことに気づく。それなりの力を持つ者らは、全て「搾取共同体」のグルなのだ。
例え話は好みませんが、以上が私の考える情況認識です。武器を持つ者が丸腰の人間を殺すのは非難されるべき行為です。だから私も非難したい。しかし「非難する」という言葉を発した途端、彼らの心情など理解する必要はないと突き放す境地に自らを置くことになります。そこで終わってしまうことにだけはしたくない。彼らの心情を理解しようとすることと賛同することとは同じではありません。理解しようとすることをもって「容認」と呼ばれるなら、私は甘んじてその言葉を受け入れましょう。なぜ理解する必要があるのか?
>また、「わが子を殺された親が犯人を殺したいほど憎む」というのは人間としてごく自然な感情ではあっても、これもヒューマニズムとは言わない。犯人への報復(死刑)を求めず、人間としての真摯な反省悔悟を求めるのがヒューマニズムの立場である。
私は、この点で基本的にはdemocratさんと同じ考えです。「犯人への報復(死刑)を求めず、人間としての真摯な反省悔悟を求める」という目標は、被害者の心情の理解なしには達成できないものでしょう。だからこそ、まず第一に彼らの置かれている情況を正しく認識し、その心情を良く理解する必要がある。
しかし、もっと重要なポイントは、ここで議論になっている「テロリスト」について言うなら、法の元の平等がどれくらい達成されているかが鍵を握っていると思うのです。犯人が特定されているのに、その犯罪者が野放しになっているどころか、なお次の犯罪に手を染めようとさえしている。しかも、それを誰もとがめようとせず、実際に犯人が罰せられる見込みは皆無である。そんな状況で被害者をどう説得せよと言うのですか? しかも被害者から見れば、私たちは犯罪に手をかしている一味でさへあるのです。汚れた手をして、口だけは達者に被害者に向けて「ヒューマニズム」を説くその語り手に、真のヒューマニズムが備わっていると言えるでしょうか? 結局のところ、一連の討論での見解の分岐点は、自らが犯罪に手を貸しているとの自覚の有無にあるのだろうと思います。