テロや戦争を語る時に、概念規定をなるべくきちんとして、理性的に語る必要があ
るのではないかと思います。
<心情や詩的(かつ私的)な心象風景を語るな>とは言いません。それとは別に、
人間の生命を奪い人権を剥奪する権力・暴力について理性的な議論が必要であり、そ
こに政治的な心情を恣意的に「忍び込ませる」政治主義的<読解>は、私は本当に
「心情を理解する」ことにもならないと思います。
<無差別テロを行うものの「心情を理解」すること>と、<そのテロを「非難・否
定する」こと>とは次元の異なることです。それを機械的に対立させたり、一つの次
元でのある立場が自動的に別の次元では特定の立場になるなどと強弁することは意味
がありません。理性的・原理的に語らなければならない政治論的次元に、心情や同情
等の次元を混在させることは危険でもあります。
たとえば、昭和初期の右翼テロを行った青年ファシストの心情を私なりに理解でき
ますが彼らの行為を否定するし、その思想にも反対です。無法な暴力を行った紅衛兵
や全共闘の心情を、同様に私なりに理解できますが、彼らの破壊行為を非難します。
しかも、イラク侵攻によるフセイン政権打倒・原理主義政権樹立をめざしたビンラ
ディンの現在の心情と、世俗的権力維持のため拷問と虐殺を繰り広げたフセイン治安
機関残党の心情、CIAに援助を受けて成長した反社会主義・反民族主義のテロ組織
の心情と、アラファトを裏切り者と敵視した組織の心情、そして、そのような諸組織
の権力者によって命令され実行する<兵士・殉教者>の心情、みなそれぞれ同じはず
がありません。
本多勝一氏は、イラクにおける米兵への攻撃(「テロ」)と米軍のイラク侵略とを 問題にしているのに過ぎないのに、暫くここで議論されてきた市民・非戦闘員への無 差別テロへの「非難」の問題と混同させるのはフェアではありません。
9.11でアメリカ市民を殺傷する攻撃を命令した者は、アフガンやイラクの市民を殺
傷する攻撃を命令した者と同じことをしている。それは、個人の尊厳、個人の生命を
剥奪するという点で、まったく同質です。まず、それを認めることがなぜできないの
か、そこのことが問われているのです。
それがわからない政治主義的な思想が、まさに強制収容所やオンカーによる大量殺
人から内ゲバ殺人に至る政治犯罪を生み出す背景をなしてきたのです。
戦争や侵略行為という国家(指導者)の「犯罪」を裁くことが必要なように、市民
生活を送る生活者を殺傷するテロ犯罪を裁くことが必要なのです。
<侵略や抑圧がなくならなければ、市民を無差別に殺傷するテロもなくならない>
などという主張は根拠がないばかりでなく、侵略や抑圧と闘う運動を貶める言動です。
<無差別テロを否定することは、---になってしまう>という思いこみは、結局、
抑圧者・侵略者を免罪していくのです。
私たちの目の前で展開されている世界の現実がそれを日々示しています。テロリス
トの心情に仮託して、自らの心情を語る観念論こそ、危険です。