>「一般市民を殺すべきではない」-これが当たり前のことではないというなら、そ れ以上議論しても仕方ないですね。なぜなら、これは「人間を殺してはならない」と いうのとほとんど同じ問いであって、あらゆる議論の大前提として確認すべき公理な のだから。
なるほど、「人間を殺してはならない」、そういう意味なら私にもわかります。
先日のTBSの沖縄戦をえがいたドラマ「さとうきび畑」は、その悲惨さが実相にとどいていないとしても、また「三文芝居」があったとしても、涙なしには観られないものでした。「一般民衆」が犠牲になるのも、「軍人」が犠牲になるのも、どちらも同じように悲惨です。軍服を着た瞬間、人間の価値が変わる訳ではないのに、軍服を着せられているというだけで、戦争だから殺されても文句は言えない存在とみなされる。これもまた「先進国」における20世紀的教訓にもとづく価値観なのでしょう。先の大戦においても不本意に軍服を着せられた大勢の日本、朝鮮、台湾の民衆が存在しました。逆説的に言えば、戦争中であっても「一般民衆」だけは殺してはならないという20世紀の教訓もまた、国家の暴力装置としての「軍隊」が設けられた時代の産物です。私は、それを「教訓」としなければならない人類社会は、はたして進歩していると言えるのかという疑いを懐きます。それを20世紀の教訓に学ぶ人類共通の価値観であるとふりかざす思想を哀しく思います。
行き着く先には、軍人にだけ手を汚させ、自らの責任についてはそれを引き受けることを拒む「一般民衆」の退廃があるでしょう。死刑制度の議論において、死刑執行の任にあたる刑務官の立場に思いが至らない論調が多いのも、その現れだと思っています。 ここで話題を一旦少しもどします。
>あえて同一次元で言うが、子供たちを殺した宅間や名古屋の軽急便事務所爆破犯人にも、彼らなりの「大義」があった。しかし、どんなに同情すべき「大義」があっても、彼らの行為が非難されるべき行為であることに変わりはない。
言葉は文脈の中だけで意味を発現します。しかし、「非難する」という言葉は、今や罪を憎んで人も憎む式にしか遣われなくなったので、私はこの言葉を遣う事をためらいます。例えば、少年犯罪が増えた、だから少年であっても成人と同じように刑事罰を強化すべきであるという「論理」は、人を憎む事のみから発想されるものです。自分を早く死刑にしろと訴える宅間は、いわば自爆テロリストです。彼へ向けて「お前を非難する」という言う、その言葉の虚しさは、被害者家族を暗く覆っているに違いありません。宅間こそが「炭坑のカナリヤ」として、この国に充満する毒ガスにやられ、真っ先に卒倒したのではなかったでしょうか? 人を憎むのではなく罪を憎むのであれば、まず議論され発想されるべきは、この国に充満する毒ガスを除去する方策です。しかし、そうした議論は全く起こらず、結果、第二第三の「宅間」を量産する社会へと邁進する事になるのでしょう。
それでも強調したいのは、宅間や名古屋の軽急便事務所爆破犯人は、私達同様に、同一国内において、まがりなりにも「法の元の平等」という憲法原則によって守られており、その前提で、私達には日本国内における犯罪について、犯罪者自身を非難する権利が確かにあるという事です。
一方で私は、この場で議論になっているテロを日本国内の犯罪と同一次元で語れない理由を、この「法の元の平等」という観点から繰り返し指摘してきました。米国の犯した犯罪に有罪判決が下され、ペナルティが科せられることは絶対にないし、法廷に立たせることさへできない仕組みになっている。その米国がなした残虐極まりない犯罪がテロを挑発しているとき、挑発にのったテロリストに対して、挑発した側である米国と同盟関係にある国の国民の立場から発せられる言葉は、宅間や名古屋の軽急便事務所爆破犯人へ向けられるものとは違ったものでなければならないと考えるからです。何をやっても罰せられないやりたい放題の米国やイスラエルと、やられ放題のイスラム地域との間にある根元的な不平等を現在の日本国内のどこかの地域に当てはめて考える事は私にはできません。彼らテロリストを直接的に非難する権利があるのは、例えばパレスチナやイラク国内において、「やられ放題」になっている当の民衆自身に限られるべきと考えます。
現に、彼ら自身の内から、テロに関わっていろいろな立場からの声明が公表されています。そのどれを支持するかは、私たち自身の問題としてもあり得るとは思っています。
最後に、
>加害者の視点は、その主張 をどうやって多くの人に理解してもらい、運動を広げるかという、運動の観点からの ものです。
もし、本来的に、加害者の視点など無関係に、単に「非戦闘員」を殺戮したという一点のみから原爆投下が非難されるべきと考えるなら、「運動の観点」から「加害者の視点」などを忍び込ませることは「ヒューマニズムの」の観点に後退を招くことになる、という主張へ繋がる筈です。今回のdemocratさんの投稿では、その点が曖昧に思えました。私たちの間の認識の溝は埋まりそうにありませんが、いずれにしても、私自身、大変勉強になりました。