2003/9/29 さつきさんの「当たり前のこと?(democratさんへ)」に感じるもの がありましたので横レスさせていただきます。
>犯人が特定されているのに、その犯罪者が野放しになっているどころか、なお次の 犯罪に手を染めようとさえしている。しかも、それを誰もとがめようとせず、実際に 犯人が罰せられる見込みは皆無である。そんな状況で(私的報復を実行しようとして いる)被害者をどう説得せよと言うのですか? しかも被害者から見れば、私たちは 犯罪に手をかしている一味でさへあるのです。汚れた手をして、口だけは達者に被害 者に向けて「ヒューマニズム」を説くその語り手に、真のヒューマニズムが備わって いると言えるでしょうか? ( )内は追加補足
失礼ながら、こうした問いかけには多分に情緒的な危うさが感じられます。
どうしてそうなるのかを考えたとき、むかし流行った東映のやくざ映画を思い出し
ました。権力ともいうべき醜悪な親分がその子分を使って悪の限りを尽くすのですが、
その非道な仕打ちに耐えていた二枚目スター鶴田浩二が最後には単身、敵のただなか
に乗り込んで一味を切り殺すわけですね(そこで拍手喝采)。テロリストに寄せられ
る心情は似ています。もっとも、アメリカ人はみんなブッシュの一味だったり、日本
人がみんな小泉の一味だったりするわけではないですが(それだとパレスチナ人は孤
立して闘わなければならなくなってしまいます)。
東大闘争の時の学園祭のポスターに橋本治が「とめてくれるなおっかさん背中のい
ちょうが泣いている・・・」書きました。(わたしは工場労働者でしたが)
理不尽な悪に立ち向かう正義にはヒロイックなものが感じられますし、その巨悪が
政治であったとき武力革命はロマンチシズムに高まっていきます。それがどれほどわ
が主体を酔わせてくれたでしょうか。しかしながら、心情的には2.26事件の青年将校
にもハーケンクロックの旗に涙するドイツの青年将校にも似たものはあった筈です。
「わが祖国のために」と敵艦に突入した神風特別攻撃隊員の悲しみは殉教者の色彩
を帯びて、爆弾を抱えてテルアビルのバスに乗り込むパレスチナの若者とだぶってき
ます。しかしながら、そこにあるのは政治の犠牲でもあるわけです。
一つしかない命だから、死を賭した戦いには何か神々しいものが感じられもするわ
けですが、だからこそ、一方で誰にも生きる権利は平等にあり、誰をも他人の権利を
抹殺してもいいなどという大儀がある筈はないのだと知らしむべきなのです。
辺見じゅん著『収容所(ラーゲリ)からきた遺書』を読むと、極寒のシベリアの地
において過酷な労働を送らなければならない日々のなかにあってもなお生きる望みを
捨てず、潔く生きようとした人の尊厳があることを理解できます。
人権と民主主義が軽んじられる社会正義や変革の運動があるとしたら、そんなもの
は歴史に耐えられないのだというのが、今日、われわれの前面に拓けた地平のように
思われます。
また、日本の「反核・平和運動」に対して本田勝一氏の論調を持ち出されアジア侵
略の反省が抜けているからダメであるかのように言われていますが、「ノーモアヒロ
シマ・ナガサキ」でいいのだと思います。(さつきさんの逡巡を延長しますと、イラ
ク戦争でアメリカの劣化ウラン弾の使用を告発するには、まずフセインのクゥエート
侵入から非難しなければならないというようなおかしなことになりませんか?)
もちろん、侵略の責任はあるのだし新たな戦争勢力の台頭を許してはならないので
すが、核の問題は単にアジアに侵略した日本の非戦闘員が非人道的被害にあったとい
うだけのものではなく(それでも戦争犯罪です)、核の下の平和などというものが、
未来において人類の滅亡にもなりかねない危ういものだという告発を世界に発信して
いる運動として重要だとおもいます。また、一方で日本の反戦運動の地道に支えてい
る現実もあります(先の朝日新聞には連合が運動の統一を呼びかけているという記事
も出ていました)。
長崎の高校生が高校生一万人署名運動をやっていると夏のテレビ報道にありました
が、そうした「反核・平和運動」が新しい世代に受け継がれていかれていくこと確認
するのが大事な視点のように思います。