democratさんの簡潔で正当なコメントがなされている上に、横からのコメントになってしまい恐縮ですが、さつきさんの9/29の投稿で、
>巻き添えになった「一般市民」を「無辜の人」と表現されるが、それは身勝手な判断ではないかという疑問が私の出発点です。民主主義国家であるなら主権者は一般国民です。ならば、国家が冒す犯罪の「決定者、指揮命令者」は一般国民ではないのか? という疑問です。
と述べられています。民主主義国家の国民がその政権の決定に責任を負っている点を指摘されようとしている限りでは、さつきさんは正しいことを言われていると思います。
でも、<だからその国民は「無辜の民」ではないのであり、その国民に対して無差別殺人テロという「私的制裁」を行うテロリスト組織(さつきさんのいう「犯罪被害者」)がいても非難するべきではないし、そのテロを裁くべきだと主張するのは正しくない>という、論理?の<飛躍>をさつきさんは求められているのです。そのヒットラーばりの<飛躍>がいかに政治主義的暴力性・権力性を帯びているのかを、ぜひお気づきいただきたいものです。
イスラエル国民がその政府の決定に(そのぞれの社会関係における位置づけに応じて)責任をもっているからといって、イスラエル国民である10歳に満たない子どもも、アラブ市民も、パレスチナ民衆攻撃を拒否する軍人も、政治にアパシーを感じる若者も、無差別に殺傷の対象にする(ことを否定しない)暴力性・権力性を、<非抑圧者の側><殺される側>に立っているのだと錯誤またはすり替えることは、心底そら恐ろしいと私は感じてしまうのですが・・・。
さつきさんにとっては、無差別テロの被害者である、イラクのシーア派市民、ムンバイのヒンズー市民、南ロシアの市民、バリの観光客等々も(そして、日本国民も)一般市民・無辜の民ではないのでしょうね。そのような「身勝手な」政治主義的判断こそ、流血と野蛮の20世紀の源泉の一つであったと、私は考えております(何度も指摘していることですが)。