>軍人にだけ手を汚させ、自らの責任についてはそれを引き受けることを拒む「一般民衆」の退廃
私は憲法9条の支持者で、かつ死刑廃止論者です。したがって、目標としては戦争における軍人どうしの殺しあいも含めて、「人間を殺してはならない」が貫かれるべきだと思います。
しかし、憲法9条の思想が世界的に一般化しておらず、軍隊と戦争が存在する現段階では、戦争による殺人をいかにして減らしていくのかが実践的課題として問われるべきでしょう。先制攻撃の禁止、非戦闘員の殺害の禁止、降伏した軍隊や捕虜の虐殺の禁止等々のルール化により「人間を殺してはならない」の人道的価値観が戦争と軍隊にも貫かれるべきなのです。それは「軍人にだけ手を汚させる」というのではなくて、「人間を殺してはならない」を軍隊と戦争の廃絶にまで段階的に至るための、理性的努力の一つなのです。
>それでも強調したいのは、宅間や名古屋の軽急便事務所爆破犯人は、私達同様に、同一国内において、まがりなりにも「法の元の平等」という憲法原則によって守られており、その前提で、私達には日本国内における犯罪について、犯罪者自身を非難する権利が確かにあるという事です。
例えば、軽急便爆破犯人は規制緩和の「ルールなき資本主義」の法制度で守られた企業に「やられ放題であった」ともいえるし、宅間の身勝手な不満の対象も現行法制度の下では決して解消されることはないでしょう。殺人者の立場に限りなく近づけば、「復讐するは我にあり」で誰も非難できなくなってしまいます。
他方、韓国の光州事件で民衆虐殺の責任を問われて、全斗煥や盧泰愚は死刑判決を受けています(後に恩赦になったが)。ブッシュ政権の戦争責任者が将来、戦犯として裁かれないとは限らないでしょう。現に、米国内でさえイラク戦争批判は強まっているし、国際法廷を求める運動は根強く行われています。一般市民に対するテロはこうした理性的な責任追及を困難にし、加害者に居直らせる根拠を与えるだけです。
>もし、本来的に、加害者の視点など無関係に、単に「非戦闘員」を殺戮したという一点のみから原爆投下が非難されるべきと考えるなら、「運動の観点」から「加害者の視点」などを忍び込ませることは「ヒューマニズムの」の観点に後退を招くことになる、という主張へ繋がる筈です。
逆ですね。この場合はヒューマニズムの観点を主張するために加害者の観点が求められるということでしょう。
たとえば、広島市民が日本軍のアジアでの残虐行為を非難せずに原爆の悲惨さのみを訴えるなら、その訴えのヒューマニズムとしての一貫性が疑われます。ヒューマニズムとは人種、国籍等を問わずただ人間であることのみで尊厳性を要求するものだからです。
同様に、一般市民へのテロを非難しない人が米軍の残虐行為を非難するのは、やはりヒューマニズムの観点では筋が通らず、説得力を欠くことになります。まさに、「どっちもどっち」というわけです。
ちなみに、本多勝一のけんか両成敗論批判は、もともとベトナム戦争について言われたものですが、侵略とそれに対するゲリラ的反撃という戦闘行為に限ったものであって、一般市民へのテロは射程外です。